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小説「白雲流浪」

 押井雄一郎が麹町の小学校の入口に立った頃には、雨は土砂降りとなった。重い硝子扉を押し開けると事務員の目が一斉に彼に注がれた。
 濡れた帽子、靴は雨に浸かり靴下まで滲みわたり、帽子を脱ぐと長い髪が額に懸かった。太く長い指が髪をかき上げると、顔にぱらぱらと雨粒が飛んだ。両目にきつい光りが宿っていたが、うっすらと笑みをみせた顔は、柔和な容貌をうかべている。背丈は百八十を超す長身、鼻筋の通ったきりりとした顔の、頬と唇には二十二歳の若い血が紅をひいたように朱を湛えて、白い歯がこぼれていた。
「ちょっとお尋ねしたいのですが」
 大きな声ではあったが、どこかゆったりとした口調である。
 窓口にいた女子事務員が、若い男と目が合うと、ぴくりとしたようにその顔を見つめなおした。
「駅で無心会という武道を教えてくれるチラシを見たんですが、場所はこちらでよろしいのでしょうか」
 女子事務員は一瞬声を呑み込むと、助けを求めるように後を振りかえった。
 背後にいた男の事務員が椅子から立ち上がった。女子事務員より年かさのいった男であった。
「ああ、無心会さんへは毎週金曜日の夜に体育館をお貸ししていますがね」
 せっかくやって来たのにと、押井はがっかりとした。ちょっとでも、その稽古風景をみたかったのだ。すぐに気を取り直して、「ありがとうございました」と大きく頭を下げて挨拶をした。腹から出たようなその声に、事務員たちは竹刀で頭を叩かれたように、あらためて事務所を出て行く若い男を吃驚したふうに目で追った。
 押井は四国の高校時代に、部活で剣道を三年ほどやったことがあった。それで姿勢もいいし、腹から出るような声量をもっていた。
 外へ出ると、いつの間にか雨も上がっていた。
 押井は神田神保町にある古本屋街の裏手のアパートに住んでいた。が近年この辺りは、靖国通り沿いからマンションが建ちはじめ、いつまでこの木造二階建てのアパートが建っていられるものか分からない。
 本来なら大学卒業と同時に、どこかのワンルームのマンションにでもひき移ろうとの心算であったが、就職先が決まらず、ぐずぐずとまだこのアパートにいた。三人いた同期の仲間たちは、一人が銀行に就職が決まりアパートを出て行ったので、押井とあとひとりの東北出身の実家が温泉業を営む里山という男が残っている。
 押井が底の抜けそうな靴を脱いで上がり框に足をかけると、里山が階段の二階から声をかけた。
「どこかへ行ってたんかい。また別口のアルバイトをやっておるかいの?」
「そなにアルバイトばかりやっとたら、シンキ臭くなってやりきれんぜよ。君も偶には外へでんと、頭おかしくならんかいのお」
 里山は押井の部屋へ来て、田舎から送られてきた大きな柿に果物ナイフで皮を剥き、それを四つに切って皿に並べた。
「食べるぜ」と言いざま押井は二つ、三つを立て続けに口に放り込み、黙ってもぐもぐとやった。とろりと甘い果実が喉へ落ちていった。
「美味い!」押井が正直にそう言うと、里山は次々と皮を剥いて、皿に盛っていく。
「桃栗三年、柿八年というだろう。おれはじっくりと法律の勉強をして、司法試験を目指すことにしたんだ」
「えろう気が長いこと考えたな。ようけ尻がムズムズせんかいのう」
 押井も里山も二人が話すといつの間にか田舎の訛りがでていた。東京に出てきてもう五年目になるのに、それはおかしなものだったが、二人ともそのほうが自然で寛いだ気分になれるのである。
 押井には里山のような忍耐と努力をする気が知れない。世の中が慌ただしいほどに、どんどんと激しく動いているのに、そんな悠長なことなどしていられないのである。仕方なくアルバイトを続けているうちに、正社員で会社に就職することが、だんだん意味がなくなって、蛸壺の蛸になって一生暮らす羽目になるような気がしてならない。まずあの履歴書を書くのが面倒であった。それに会社のお偉いさんの前で受けるあの面接試験に、なんとも言えない屈辱を感ずるのである。そんな努力をして入った会社でも、いったん経営がうまくいかなくなると、会社というのは情け容赦もなく家族をかかえた一丁前の男をも馘にすることも辞さない冷酷なところだと、雄一郎にはすこしづつ世の中がみえはじめていた。かといって里山のように、いつ受かるかわからない国家試験を目指してまわりくどいことに、人生をすり減らしていくことには耐え難いものがあった。押井は空気のぬけたゴム鞠のように、萎びて息の上がらない、このいまの時代にどうにももどかしい思いが募るばかしだ。スカスカの中身しかない果物のようで、舌に直に沁みとおるほんとうの味のしない、現実感の薄いこの世の中がくさくさしてしょうがない。本気でいのちを燃焼させてくれるなにかが欲しかった。
 そうしたある日のこと、押井はパソコンのインターネットで、就職情報に目を配っているところに、画面に面白い記事を見いだした。
「英国人女性殺害 懸賞金は一千万円」とのタイトルで、逃走中の容疑者に関する有力な情報の提供者に、一千万円を支払うとの内容である。
 多分自分と同年代だろうと思われるこの犯人を捕まえることができたらさぞ面白いことになるだろう。それに賞金の一千万が懐に入るのである。そんな当てもない空想が、とかく曇りがちな押井の生活に一種爽快な風を吹き込んでくれるような気がした。
 この間も、はっきりと死刑にして欲しいからと、自分から犯行動機を語る犯罪者の記事をインターネットで読んだことがあった。まるで自殺願望が不特定多数の殺人へと暴走してしまったような奇怪な殺人事件であった。押井はそうした犯罪者のもつれて屈折したこころの内が、喉元に引っかかった嚥下物のように腑に落ちていかない。だがどこかでそうした犯罪者の気分に通じるものが、自分の中に果たしてないものかしらと、そんな疑念を懐くことも稀ではなかったのである。
 押井は早速、冗談半分も手伝ってこの記事を見せに里山の部屋を訪れた。だが押井雄一郎の予想に反し、里山にはこうした犯罪者に対する一片の興味も感慨もなく、にべもない反応が返ってきただけだった。
「よくもまあ気が触れたような殺人犯が出てくるものだなァ。それに犯罪者の情報を金で釣ろうなんていう手法まで現れるとはね。それで君はこの懸賞金欲しさになにができると思うのだい。アメリカの西部劇でもあるまいし、この大都会の中で犯人を捜そうなんて、途方もない空想を広げて喜んでいる君をみると、おれは情けなくて泣きたくなるね。そんな夢のようなことを考えるなら、どこでもいいから会社に就職して、地道に毎日コツコツと働いてみることのほうが、おれは君のためによいと思うがね」
 そう言うなり、ばからしいというように里山は本気で怒って、押井を部屋から追い出してしまった。
 彼は頭を「面!」と叩かれたように、その里山のことばに、一抹の友情を感じて心が動かされずにはいなかった。だがたかが退屈しのぎの話題で、どうにも八方ふさがりの生活に、少しでも風穴を開けてやろうとした自分の思いを一顧だにもせず、それを真面目一方に受けとった里山にも腹が立ってしょうがない。司法試験の法律の勉強で、心が石のように固くなってしまっているにちがいないと、逆に里山が哀れにさえ思われた。
 ーよし。それならおれはおれの人生をいき  てやるぞ!
 そんな腹立ちまぎれの願望が、押井雄一郎の身内を太い棒のように貫いて駆け抜けていくのだった。

 職安のパソコン検索でみた求人先の中堅の出版社が地下鉄の麹町駅から歩いて遠からぬところにあった。その駅からの階段の壁に見かけた小さなチラシに、「剣術指南、無心会」という広告をみて、その稽古場所がその会社に近いことから、押井はその稽古風景を見たくなった。竹刀と竹刀が攻守に戦われて、触れあうあの乾いた音、滴る汗とあの武道具の匂い、体育館をふるわす裂帛の掛け声が、就職活動に明け暮れしている、このやりきれないようなこころと身体に元気を蘇らす心地がするように思われた。
 土曜日の昼下がりであった。靖国通りの神保町界隈にならぶ古本屋街を歩きながら、押井雄一郎は店前に積んであったぞっき本から、「日本剣客伝」なる本を手にして、ぱらぱらとめくったみた。塚原朴伝、上泉伊勢守、宮本武蔵、柳生十兵衛、小野次郎左右ヱ門、堀部安兵衛、針谷夕雲、高柳又四郎、千葉周作、沖田総司の十人の名が、目に踊り込むように押井雄一郎の胸に踊った。押井はその本を買って、路地裏の「ラゾリア」の店のカウンターに座った。
「あら、おひさしぶりじゃないの!」
店のママさんが雄一郎の姿をみると、高い声を張り上げた。就職活動中で長らくご無沙汰をしていたのだ。
 ここのママは、押井雄一郎の手前勝手なファンのようなものであった。以前はよくここで暇をつぶしていたが、就職もままならないこの間中、雄一郎は避けて顔をみせに行かなかったのである。「お代」というと、「いつでもいいのよ。あなたが偉くなったら、きっとまた店に顔をだしてね」と笑って取り合おうとしない。雄一郎もそれに甘えてきてしまったが、就職浪人の身の上となった現在では、ママにあわす顔がなかった。
「おれまだ就職が決まらないんだ」と押井は、恥ずかしげもなく、大声でママに報告をした。
「あら、それがどうしたっていうの、男一匹生きていくのにそんなことが何だっていうのよ。人生なるようになるんだから、そんなことはほっとけばいいってもんよ」
 雄一郎はいつもの太っ腹なママの意気にのまれ、萎びた風船に空元気を貰った心境だ。その拍子にいつもママの隣にいた木宮信子の姿をカウンターの中に捜して、ママに尋ねてみないではいられなかった。
「信子さんはこの春、ここを辞めて新宿の方で働き始めたようよ」
 店の中を見回しても、お客は隅に一人、暇をもてあました近所の爺さんが新聞を読んでいるくらいで、やけにがらんとしている。
 押井はふと思いだしたように、携帯を開いて「木宮信子」の番号へ、電話をしてみた。携帯の電源を切ってあるのか、なんの応答もない。
 木宮信子は、元をただせば和歌山県伊勢の由緒正しい神官の一人娘であった。それがどういう理由かで東京に出てきて、多少は縁故のあるこのママさんのところで、働きだしたのである。彼女は押井よりは二つ年上であったが、瀬戸内海を隔てただけの四国の出身の押井とは、姉と弟のように親しい友達のような間柄であった。
 ママさんの話しでは、春に突然に店に来なくなってから一度の連絡もないという。店に来る常連さんが、信子さんに似た女性を、新宿駅裏で見かけたが、そのときの彼女は一皮むけて見違えるほど都会的な女性に変わっていたという。
 押井はそれ以上の木宮信子の情報を聞き出すことはできなかった。きっと彼女のほうから、なんらかの連絡があるはずだと、信じて疑わなかったが、携帯の着信を見てもそれらしいものはない。やはり里山の言うとおりこの東京という大都会は、人も金も呑み込んで消化する巨大な胃袋を持っているのかも知れない。その中で一人の人間の運命は濁流に流される小枝のように、ひとたまりもなく姿を変えてしまうのかも知れないと、あらためて里山のことばを思いうかべた。
 押井はそれから古本屋で買った本を読んで数時間を過ごした。店の照明が暗いのと本の印刷が古いことから目が疲れたが、各剣客達の人生の軌跡が、一本の竹刀のようにくっきりとした輪郭をもって脳裏に刻まれてくる。それが押井を爽快な気分にしてくれた。
 すでに夕暮れが迫り、戸外にでるとすずらん通りは、煌々と灯りにつつまれていた。

  ようやく道場の剣術の稽古のある日が来た。あの雨に打たれた麹町の坂下にある小学校を夢のようにみて、なんだかこの一週間を過ごしたような心持ちがした。
 重い硝子の扉を引いて体育館へ入った。顎髭の六十前後の男が近づいてきた。営業マンのようなソフトな応対である。
「駅でチラシを見た者です」そういうと顎髭の男は、見学用の椅子を持ってきてくれた。
「どうぞお座りになりご見学ください」と体育館の中央に戻って、稽古の指導を再開した。
 稽古はいままさに始まったばかしであるらしい。十人ほどの男女が整列して床に正座をしている。一番奥にいる男から、「姿勢を正し、黙想!」の声で全員が黙想をした。つぎに「正面へ礼!」でみんなが揃って床に頭を下げた。顎髭の指導者が座ったまま、居並ぶ列に対座すると、「場所長に礼!」との掛け声がかかり、一斉に皆の頭が床まで下がり、「おねがいします!」と一同の声が響いた。「各自刀礼!」の声と同時にまた床に置かれた刀に頭が下げられると、腰に刀を差し一斉に立ち上がった。
 ここまでを額に汗を浮かべたまま微動だにせず、押井は椅子に座って見守っていた。その十人ほどの動作は彼が初めて見る光景であった。それは高校でやっていた剣道の礼法にすこし似てもいたが、それとは異なる真剣で異質な空気がみなぎっている。
 
 その翌日、面接をした麹町の出版社から電話があった。会社からの電話は押井には、めずらしいことである。正社員での採用は無理だが、契約社員ということなら一年ごとの更新で働く気があるかどうかとの、問い合わせであった。契約社員は非正規の社員であり正社員とは、給与面等では格差があった。だが昨日麹町の居合の稽古を見に行ったばかりの押井にはそうした仔細には、さほど拘泥するところではなくなっていた。それよりは、会社を離れた後の自分の自由な時間の過ごし方の方に関心が移っていたのだ。稽古時間は夜の七時からなら、働きながらでも居合の稽古を始めることができる。それなら契約社員であろうと、給料を貰いながらあの稽古場に通うことができるという単純な判断が勝ったのだ。押井は早速、電話で承諾の返事を即答した。
「では来週からの勤務ということで、明後日の午後一時に会社へ印鑑を持参でお出で戴きたい」との返事である。
 落ち着いた大人びた声であった。押井はそこにこれから入っていく社会というものの実体を感じて緊張を覚えた。これで自分も社会の片隅に席をおくことになったという安堵の気持ちと、その一方でこれまでのような自由な生活に終止符を打たねばならないという淋しい気持ちが、代わる代わるに押井雄一郎の胸に去来した。
 その日、押井は神保町の古本屋街へ出て、あの稽古場の顎鬚の男が言ったことが、書いてある本が欲しくなった。「居合道」の本を一冊を買い込んで「ラゾリア」へ行こうとして止め、明るい照明の茶店を探して腰を下ろした。彼はその本の中からあの顎鬚の紳士が口にした「無心流」についての記述を見つけた。
それによるとこの居合の開祖は、江戸の麹町に道場を構えたという。押井は吃驚した。偶々就職活動で面接を受けた会社が麹町にあったからである。こうした偶然の機縁の一致が押井を不思議と面白がらせた。なにものかに手引かれるかのように、麹町という場所が彼を呼んでいるような気がした。
 茶店を出ると、携帯に着信音が鳴った。押井はアパートへの帰路を歩きながら携帯を耳にあてた。高音だが落ち着いた木宮信子の声が聞こえた。いつか必ず彼女から連絡があると思いながらも、それがないので不審に思っていた矢先だったのだ。「信子さんだね」と彼はまるで姉さんを慕うような親しげな声で、そう呼びかけた。
「押井雄一郎さんですか?」と、念を押すかのように、いやに慎重な返事が返ってきた。半年ほど逢わない間に、まるで他人行儀な話しっぷりなのが、おかしくもあった。
「どうしたんですか。ひさしぶりじゃないですか。どこかで逢ってお話しでもしませんか」
 押井も信子に合わせて、他人行儀のことばになったが、相手が目の前にいるような嬉しさを隠しようがない。それは田舎の姉の声を聴いた時の安堵感にも似ていた。
 空を見上げると、白い雲が青い空をゆっくりと流れていた。トンボがその広い空をスイスイと飛んでいる。すでに秋の気配をおびて澄んだ空気が肌に心地よかった。
木宮信子の提案で、新宿御苑で逢う約束をした。ただあまり時間がないとのことである。
押井が彼女の顔を見たのは久しぶりであった。髪型も変わり、ずっと綺麗な容姿に見えた。だがどこか痩せて身体が一回り細くなったようだ。それが彼女を、淋しそうな感じにさせていた。声は以前のように澄んだ明るい声だったが、雄一郎にはそんな信子さんが気がかりでもあった。いったいなにをして、どんな暮らしをしているのだろうと彼は思った。
「信子さんのこと、ラゾリアのママさんが心配していたよ」
 二人が座った芝生に目を落として、彼はそう言った。一刻の間が空いた。その空隙を一瞬、なにかの翳が過ぎったような気がした。
「あたしあそこには居られなかったの。だってこのところ、ずっとお客さんが減ってしまっていたでしょう。あたしがいることで迷惑をかけたくなかったの・・・・」
 そんなこともあなたには解らないのですか、とでも言う批判がどこかに込められていた。
 そう促されても、押井には返答ができない。押井はどきまぎする胸を抑さえるように、やっとことばを継いだ。
「信子さんは、いまどこにいるの?」
 それはどこで働き、どこに住んでいるのかを、二股をかけて訊く質問だった。
「それはちょっと内緒にしておきたいの」
 その声には今まで聞いたこともない奇妙な暗い響きがあった。彼女はそれ以上、押井の質問に乗ってこず、むしろその話題を避けようとしているようだ。
 ただ押井はいま信子さんといっしょにいるだけで、充分に心が安らいでいた。彼は回りを見まわした。平日のせいか新宿御苑は閑散としている。鳩が数羽空を飛び、樹から樹へと遊び戯れている様子が、彼の目に快かった。
 押井は木宮信子の顔を、ふと初めてみるように、見つめ直した。それに気がついて、彼女も押井の顔をみた。そこに押井にはこれまで見たことのない、木宮信子という女性の顔を見たような気がした。それが押井に一抹の不安を懐かせたが、以前の田舎の姉さんに感じたような親近感を損なうほどではなかった。その木宮信子のほうから香水の匂いがかすかに漂ってきた。それが押井に新鮮な感覚を呼び起こした。だがその新鮮さが自分と木宮信子の間に、以前にはなかった溝を作っているように感じさせないこともない。
「そろそろ、もう帰らなくてはならないわ。午後から仕事があるのよ。雄一郎さんは?」と、腕の時計を見ながら彼女が言った。
 すっかり忘れていたが、明日は会社へ行く日であることを押井は思いだした。木宮信子の生活への関心も忘れたように、久方ぶりに逢えたことだけで、幸福な夢を見ているようにうっとりとしていたのだ。
「ぼくは今度就職が決まりました」
 思いだしたように、そう押井は言った。
「まあ、それはおめでとう。頑張って下さいね」
 信子さんはそう言っただけで、それ以上の詮索はしてこなかった。押井はもっと信子さんと一緒にいたかったが、彼女はすぐに立ち上がって、スカートについた芝草を手で払い落とした。数匹の鳩がそれを餌と間違えて小枝から飛び降り、芝生の上を歩きだした。
 木宮信子は御苑の外へ出ると、振り返り押井の顔を一瞬見つめたが、クルリと後ろを振り向くとそのまま、路上の雑踏の中へ歩きだした。その後姿はいかにも由緒ある神官の家に育った凛とした雰囲気があった。がまたそこからは、これまで押井が感じたこともない靄のような空気が漂ってくるようでもあったのだ。そして、木宮信子の姿は、見る見るうちに押井の視野から遠ざかった。

 二人のあっけない出合いと別れのしばらくのち、新宿の街中からはずれた司法試験の受験予備校の昼食時間帯に、ひとり珈琲店の窓際でノートを覗いていた里山は、見知った女性が窓下の歩道を歩く姿を見て、吃驚したようにその後ろ姿を目で追った。里山は時折押井に連れられて「ラゾリア」へ行ったことがあったのだ。口の重たい里山は、どこか折り目正しい木宮信子という女性と、押井のように馴れ馴れしく話すことができなかった。しかし、里山は広い硝子窓を通して、まさにその当の女性が歩いてくる姿を目にして一瞬動顛した。テーブルに開いていたノートを閉じ、書物を片づけると、早速に彼女の後を、秘かに追い出していた。六法全書を鞄に入れている男が、ストーカー紛いに女性の後をつける姿は奇妙に思われるかもしれないが、それがなかなか堂に入ったもので、誰からも不審がられず、彼女が気がつくことはなかったのである。
 代々木から木宮信子の足はますます遠ざかり、予備校の学生でごった返したような代々木の横断歩道をぬけ、神宮の森の中への道を颯爽と歩いて行く。里山は重い鞄をいつしか脇に抱え込んで、額に汗を流しハンケチを取りだして拭うのに忙しい。普段、机にばかりかじりついているから、少し長い距離を歩くとすぐに顎を出してしまうのである。
 木宮信子はいつしか玉砂利を踏みしめ流れるように歩いていたが、里山のほうはその玉砂利に足を捕られて、まるで泥濘を歩く姿勢のうえに、顔が汗と埃にまみれてぐしゃぐしゃの態であった。司法官を未来に目指すはずの若い男の姿としてはまるで見られたものではない。それに、ハーフー、ハーフーと、息が上がってしまって顔は朱を注ぎ、前のめりのよたよた歩きだから、昼から酒を飲んで酔っているようにみえなくもなかった。
 森の中を巡回中の警備員が、そうした里山に目を止めた。額から汗を流し、それをしきりとハンカチで拭く仕草に、顎を出しながらも、異様に光る里山の目付きが人目をひかないはずはなかった。案の定というように、里山へ警備員は近づいていった。
「もしもし、どうかなさいましたか」
 丁重な言い回しながら、神聖なる神宮の森を穢す不届き者あつかいである。里山の足は重く、目は酔眼でもないのに朦朧として、辺りの風景がゆらゆら揺れているようだ。だがすでにそのとき、里山の視界のなかには、懸命に後を追ってきた木宮信子の姿はなかった。里山は警備員に抱きかかえられるように、近くのベンチに腰を下ろした。できれば横になってしまいたいほどに疲れていた。
 警備員はほとんど息絶え絶えの里山への一抹の同情から、
「もしもし、大丈夫ですか!」
 と声を張り上げたときには、里山のからだは傾きだし、両目は虚ろに見開かれているばかしで、ベンチにグッタリと横様に倒れてしまった。鞠のような体つきの里山の身体は細いベンチから今にも転がり落ちそうである。それを見て警備員が目の色を変え、早速ポケットから携帯を取りだし、どこかへ連絡をしだした。

 東西ドイツの壁が崩壊し、冷戦時代が終焉を向かえる頃に生まれた押井雄一郎は、やがてバブル経済の破綻が社会に暗い影を落としだした頃に成長をはじめていた。かつて日本が世界で群を抜く経済成長を誇っていた時代は耳で聞くことはあったが、それを肌で感じたことがない。アメリカを象徴するニューヨークの高層ビルがテロ攻撃で瓦解する映像は、田舎ののんびりした生活を送る中学生の押井には、遠い世界の出来事ぐらいの印象しか残してはいない。だがその頃から社会に不穏な空気が広がり、それがすこしづつ地方に及んでくることは、なんとなく感じだしていないこともなかったが、周囲のことに無頓着な押井の生活にはなんの変化もないと同然だった。
 だが明日から雄一郎は現実の世界に乗り出していかなければならないのだ。それは嫌も応もないのである。
「そうだ。仕事の後にはあの道場で剣術の稽古に汗を流そう!」
 押井雄一郎は、岸から離れだした船の感触を身体中に感じた。そして大股で古本屋の前を胸を張って歩きだした。彼はこの世界のすべてが自分と一体となった晴れ晴れとした感触に、地面を蹴って走り出したい気持ちを抑えかねる心境で、アパートの前まで帰って来た。
 白い車が一台玄関口に止まっている。押井が近づくにつれ、それは救急車であることが分かった。車の窓からその中を覗くと、ベットの上で里山が仰向けになって全身に皮のベルトで縛られ、口に酸素吸入器を当てられて仰向けに横たわっているのを、押井は目撃した。
「里山! おい里山!」
 押井は車の窓硝子を叩いて里山に呼びかけた。里山は死人のように動かない。大家のお上さんに聞いたところでは、里山は青白い顔をしてふらふらと、アパートの階段を上がり自分の部屋に帰ってきたらしかった。そのうち、里山の部屋からガタゴトと音がした。分厚い六法全書やら法律関係の参考書の類が、窓からアパートの前の空き地に投げ捨てられだしたのだ。里山の奇声がそれに混じった。その里山の目は虚ろで、自分がなにをしているか分からない有様であったという。
 下宿のお上さんが慌てて部屋に入ると、里山は自棄を起こした子供のように、仰向けになって両足で襖を蹴っ飛ばしていたが、お上さんを目にすると襲いかかる形相をしたので、恐怖を感じたお上さんは逃げ出すと、早速、警察に電話をした。やがて、最初はパトカーがそのすぐその後から、救急車が飛んできたということだ。
 田舎からは里山の両親が病院へ駆けつけて来た。数日病院にいた後、里山は郷里に両親と一緒に帰っていった。
 それが押井が、東京で里山の姿を見る最後となった。里山が居なくなると、数日を経て大家のお上さんから、押井へアパートを閉じるから宜しくとのことづてがあった。一ヶ月後、押井雄一郎は「ラゾリア」のママの知人が経営している靖国通り沿いのマンションに引っ越した。
 そんなひと波乱が過ぎ、押井の社会生活が始まった。
 会社では外歩きの営業への配属が決まった。取引先の会社や営業店を廻りながら、営業成績を上げなくてはならなかった。どこの出版社も売上げが減り利益を上げるのに必死だった。入社早々の押井だからといって安閑とする余裕はないのだ。彼は真面目に仕事に精を出した。背広姿の押井はその男前の容姿と歯切れのいい受け答えで、信頼と好意を集めたのである。社内の人望も悪くはなかった。一週間のうち稽古日の一日を除いて、サービス残業も躊躇わなかったので、上司の受けも良かったのである。
 だが、金曜日だけは仕事を早めに片づけると、七時前には会社を出て、歩いてそう遠くもない同じ麹町の小学校の道場へ通った。
 顎鬚の白井という名前の場所長は、押井の素直な性格を見て取ると、居合の礼法から基本技を、丁寧に教えてくれた。押井もそれに応えて、白井の一挙手一投足を正確にまねた。
「居合は斬れる居合でなければ、ただ空気を斬って自己満足している踊りにすぎない」
 それが白井場所長の口癖であった。ポンポンと叩く剣道と異なり、当然に刃筋はとおっていなければならない。そして、先の後をとる居合においては、鞘から放たれた剣は、その一太刀で敵の外敵行為を殺ぐものでなければならないのだ。そこには微塵の無駄もないことが、居合の必須の条件であった。だが若い押井のからだは、剣道で身につけた上下の動きが押さえられず、体の捌きより剣の大きな動きが目立つのである。
「そんなに剣を振り回してどうするのだ! 居合は動く禅とも言われているのだ。居合腰と居合膝でお能を舞うが如く、頭の上下動は消してしまうがいい。それには下半身の土台を柔軟かつ堅固なものにしなければならない!」
 稽古で汗をかいた後は、雄一郎のこころは爽快だった。清々しい空のように透明に澄んでいた。営業や会社内で奮闘する押井に訪れる不愉快な出来事は、すべてが洗い流されるような思いがした。昼の仕事での疲労が残っていても、金曜の稽古日が待ち遠しく思われた。袴に履き替え、稽古場で剣を握る。その瞬間から、押井雄一郎は別人のようになった。剣がこころを変え、そのこころが剣に宿るのだった。こころに淀みがあれば、剣も滞りがでる。こころに曇りがあれば、剣も汚れた鏡のように曇るのであった。
 押井のところへ、木宮信子からの連絡がなくなって、もう半年になろうとしていた。いったいどこに住み、何をして暮らしているのか、押井には知りようがないのが、よけいに新宿御苑で最後に見た彼女を思い出させた。
 あるとき会社にいる押井の携帯へ、里山の郷里から電話があった。元気になった里山の声を聞くのは久しぶりだった。お互いに、手短に近況を語り合ううちに、里山から信子さんの話しが出たので、これは意外と里山のことばに聞き耳を立てた。里山が偶然に彼女を見かけ、ストーカー紛いにその後をつけて歩いたことを聞くと、押井は笑い出した。里山の田舎訛りののどかな声が、まず可笑しかった。押井が信子さんと連絡がとれなくなっていると伝えると、里山も不思議でならないらしい。そこで、里山が信子さんを見失った場所を、押井は問いただした。
「明治神宮の森の中?」
 押井は早速にその話しをママさんへ伝えた。ママさんも狐につままれたような声で、要領の得ない返事を繰り返していたが、そのうち何事か思うところがあったらしく、慌ただしく電話を切ってしまった。数時間後、ママさんから折り返しの電話があった。
 晴れやかな、元気いっぱいのママさんの話しによると、木宮信子は伊勢神宮の関係者のはからいで、明治神宮での仕事をするようになったと言うのだった。彼女は実家は伊勢神宮とも縁のある神官の娘である。ママさんの話しでは、明治神宮の結婚式関係の仕事についているらしいとのことだ。それを聞いて押井はひとまず安心した。
 それにしても、木宮信子が押井へこれまでなんの連絡もして来ないのが不可解であった。新しい職場で彼女の身の上に何かがあったとしか思われない。そうした考えが浮かぶと、すぐにで彼女に逢いたくなった。所在だけでも確かめようと、明治神宮の社務所に電話をしてみたが、まったく取り合って貰えないのだ。
 会社へ初めて休暇届をだし、朝から押井は天井へ目を開けて蒲団の中にいた。そのまま昼頃まで、ぼんやりとして過ごした。食欲はほとんどなかった。なにもする力もでてこない。腹這いでマンションのベランダから、外の景色を眺めた。黄色の葉をつけた銀杏の樹が、晩秋の冷気のなかに立っていた。すこしの風で銀杏の葉は次々と散っていた。地面に金色の絨毯を敷いたように、銀杏の落ち葉がたまっていくのをじっと眺めていた。突然に、押井のなかに田舎の風景がよみがえり広がりだした。緑の草原に蔽われた山野。繰り返し寄せる波が岸に白いフリーズを投げ、砕け散る青い太平洋の海原。燦々と降り注ぐ陽の光。紺碧の空を吹き抜ける柔らかい風が田舎の土の香りとともに、押井雄一郎の鼻面をなぜ、遮ることのない風景が眼前に明澄な視野を広げていた。
 その日は夕方までマンションで過ごし、暗くなってから自転車をこいで、「ラゾリア」へ行った。いつもの席は中年のおじさんが座って週刊誌を読んでいる。押井はその脇に腰掛けた。暫くしてママさんが店に帰ってきた。
「あら、まあ!」
 ママさんが押井を見ると、目を丸くして、大声を出した。
「どうしたのよ? 今日はばかに早いじゃない! 会社の方はもういいの? なんだか、あなた、今日はしょんぼりしてるのねー」
 少しの間もなく、機関銃のようにママさんが喋り出すと、静かな店の中がいっぺんに、火が点いたような賑わいとなった。
「それで押井さん、信子さんはどうしているの?」
 押井は新宿御苑で彼女と逢ったことを伝えた。
「エエ! たった一度逢ったきりで、それから全然連絡がとれないんだって!」
 ママさんは興奮気味で、先へ先へと勝手な推理を働かしているのだ。とうとうママさんは警察沙汰にさえしようと、なにやら意気込んでいる。
「あなたはなんで、剣術なんかしているのよ。そんななまくら剣法なら、役に立たないじゃないの! よし! あたしが行って話しをつけてやるわよ。エエイ! じれったいったら、ありゃしないわ!」
 押井雄一郎はそのママさんの狂態ぶりが、いずれ治まるのを黙ってみていた。こうなったら、なにを言っても通じる耳を持っていないことを、よく知っていたからだ。
 数日を経て、押井はこれ以上木宮信子のいる職場へ訪れないわけにはいかない気持ちが強くなった。
 そこで早速、その翌日に一日の休暇を撮りたい旨、会社へ電話を入れた。
「また、休むのか・・・」
 上司の不機嫌な声が聞こえた。押井はでまかせに、休む理由をみつけて、その場を取り繕うことができない達であった。
「そう連日休まれる社員を雇った覚えはないのだがな・・・」
 なかなか色よい返事がもらえない。その場しのぎの嘘が押井の口から出てこない。
「休むその理由は、何なのだ? それを聞いているんだ!」
「・・・調子が悪いんです」
 ようやくそんな一言が口から絞りでた。
「どう悪いんだ? 病院にでも行っているのか?」
「調子が悪い理由が分かればいいんですが・・・」
「ようし、もういい」
 電話はぷつんと切られてしまった。押井は、これまで自分なりに懸命に働いてきたことが、なんの考慮もされない非情な会社というものを、初めて知った。有給休暇を利用する権利は法律で守られているはずで、その理由は問う権利は会社にないことを、彼は知らないではない。しかし、あまり権利を主張する気はしなかった。会社はそのことを承知しているはずだろうと、押井は考えた。その会社へサービス残業までして一言も不平を言わない自分に対する会社の冷淡な仕打ちに、彼は唇を噛んだ。空を見上げた。鳩は悠々と冬の薄日のなかを飛んでいた。その姿が消えるまで、押井は鳩を目で追った。なんという惨めな生活だろう。いままで考えたことのない思いが押井の胸を突いてきた。抑えていた怒りがふつふつと湧くようであった。
 午後から空は雪が降り出しそうな天気になった。凍てつくような石畳と玉砂利の道を、押井は明治神宮の社務所へ向かっていた。ただ木宮信子に逢えるかも知れないという一念だけが彼の足を前に進ませていた。
 時刻はもう夕方に近かった。参詣人はあらかた帰っていた。社務所はもうすぐに、扉を締め始めている様子が窺えた。押井雄一郎は急いで、目に入った一人に、自分がここへ来た用件を伝えた。訴えるようなその迫力に、社務所の人は脅えるような顔になった。奥から責任者のような者が出てくるまで、最初の男は押井がこの神社になにかの言いがかりをつけに来た人物であるかのように、押井雄一郎を見張っていた。奥からでてきた責任者へ、男は耳打ちをしていたが、やがて男の話しを聞いた神官の衣装をした者が、押井へ近づいてきた。
「どんな御用でしょうか? もうすぐに今日は締めるところなんですが」
 男は改めてというように、押井の頭から足の先まで、観察するかのような視線を放って、丈高い眼光炯々とした突然の来訪者を見つめていた。
「こちらに、木宮信子という女性がいらっしゃいませんか? 私は押井雄一郎と申しますが、どうか取り次いで頂きたいので、ここまで足を運んで参りました」
 押井は改まった調子で、その神官の一人へ言った。
「それで、どんな御用があるのでしょう? あなたと木宮さんとは、またどういうご関係でありますか? 当神社はこのようなところですから、ちゃんとした素性の人間だと明らかでない者に、みだりにこちらの人間の個人情報を伝えたり、取り次いだりするというようなことはしてはいないのですが・・・・・」
「私は木宮信子さんとは友達です。それよりも、こちらにそういう名前の女性がいるのかどうか、それをお答えしていただきたいのですが・・・・」
「どんなお友達の関係者か知りませんが、ただ友達というだけでは、当神社はお取り次ぎするわけにはいきません。あなたは失礼ですが、どこのどのようなお方でいらっしゃいますか?」
「私は・・・」
 押井は、もうほとんど顔を憤怒で赤らめ、両手がぶるぶると震えているのを感じた。仕方なく、会社の名刺を一枚取りだし、神官へ渡した。それを一瞥すると胸にしまい、深い溜息をついたまま、まだなにか言いたげである。
 押井はわざわざやってきて、このざまでは、もうどうにもならないという絶望感で、身体中が煮えくりかえるような思いを味わっていた。だがそれをぐっと怺えた。
「木宮信子さんが、和歌山県の由緒ある神社の娘さんであることから、こちらで働くようになった経緯については、聞いております。私は信子さんが以前に働いていたところで、知り合った者で彼女が一番よく私のことなら知っているのです。そういう訳で、是非、お会いしたいとわざわざ、こちらへ参った次第です」
「突然のご訪問ですから、今日すぐにというわけにはいきません。わたしどもは、民間の会社とはちと訳がちがいます。こちらもよく吟味させてもらいますが、ご足労ですが今日のところは、お引き取りいただき、また、事前のご連絡をいただいてから、どうかお出でいただきたい。このように、今日は社務所を閉めようとしていますので、どうか、ご了解をしてお帰り願います」
 神官は下の男へ目で合図をすると、社務所の扉を締めだした。
「待って下さい。今日、私が来たことだけでも、木宮信子さんへどうかお伝えくださいませんか?」
 そう言いながら、押井雄一郎は太い両手で、扉がそれ以上動かないように押し止めた。
 その瞬間、神官の顔色が変わった。
「警察へ、すぐに連絡を取りなさい!」
 そのうちに、パトカーのサイレンの音が遠くに聞こえ、押井雄一郎は警察署へ保護されてしまったのだ。  
 なにを言っても警官は取り合って貰えなかった。
 取りあえず、押井は「ラゾリア」のママさんへ連絡をした。ママさんはすぐに署へやってきた。押井雄一郎はその時ほど、これまでのママさんからは、とても想像できない態度をみたことがなかった。
 ママさんはただ、静かに語り、ただ頭を何度も低く下げた。押井雄一郎が警察から解放されたのは、それから、二、三時間経った頃だ。
 押井は初めて、警察署で書類の下に、名前と居所と実家の住所を書かされ、拇印を押させられたのだ。
警察署を出ると、ママさんはまるで解凍された魚のように、元のママさんに戻っていった。
「ああー、これであなたは前科者になっちゃったのよ。まあ、たいした前科じゃないけどね。でもあたしがいなければ、どうなっていたか分からないわよ。フフフッ」
 ママさんはなにか、楽しんでいる様子であった。夜も遅くなっていたので、押井はママさんへ、こころからのお礼を述べ、一人マンションの部屋に帰った。
 どっと疲れが出て蒲団に横たわり、そのまま眠り込んだ。夢をみた。田舎にいるはずの里山が度々顔を出した。大きな六法全書のような顔が、なにやら嬉しそうに笑っている。その隣に神式の衣装を着た木宮信子が一緒にいた。そして、いつの間にか、二人は一緒に温泉に浸かり、湯煙の中から楽しそうな笑い声が聞こえた。里山の口がうごき押井へなにかを言っていたような気がした。
 ・・・・信子さんはね、神官にセクハラを受けつづけて、それで神経をこわしてしまい、涙ながらに法律上の相談をもちかけてきたんだ。ぼくの家は温泉旅館だし、とりあえずこちらに来てもらって、いま温泉浴で養生をしてもらっているところなんだ・・・・。その里山の声が遠くのほうから聞こえた・・・・。
 翌朝、ハッと寝覚めると、その夢の残像がまだ押井の目の裏から消えていない。
「夢か・・・」
 押井雄一郎はただそう思った。夢の中であれ、信子さんに逢えたのが嬉しかった。
 マンションのベランダに冬の朝の陽射しが照り、眩しいくらいな天気であった。冬の空に白雲が悠々と棚引いていく。それを眺めているだけで、幸福な気分に満たされていく自分がいた。その軽い、柔らかな雲のような気分は、温かい気流になって、いつまでも自分の中を流れていくようにも思われた。
 だが、押井は時計をみておどろいた。いつも起きる時間をとうに過ぎている。完全なる遅刻であった。やおら身を起こし、会社へ連絡を入れた。
「押井君かな。今日も休みらしいな。君は明日から会社へ来なくてもよくなったよ。会社はいま大変な時期なんだ。まあ、元気でやり給え」
 たったそれだけで電話は切られた。嫌も応もない、問答無用の態度であった。
 押井にとってそれは初めての経験だった。一転して頭の中は冬の空のように、青白い冷気に凍りついた。なにも考えられない。すこしづつ時間が経つに連れて、言いようのない哀しみがゆっくりと通り過ぎて、胸にあふれてきた。会社への執着などは、自分にはないと思っていたのが意外だった。たった二日の休暇に、遅刻を一回した。それだけで、明日から来るなというのは、たしかにあまりに非情だと思われる。まるで昨日の神宮の森の繰り返しだと思った。まるで踏んだり蹴ったりじゃないか。
 押井はみんなに、自分がバカでかるはずみな人間とみられているような気がした。それは苦い思いだが、その苦さがなんだかおかしい。その苦い思いを平然と見下ろしているもう一人の自分が、どこかにいて、そんな自分を嗤っているような気がしないこともない。それが一片の余裕を押井に与えた。するとこんどは別のところから、憤怒が湧いてきた。それは会社という漠とした存在で、電話で一方的な通告をした上司個人ではないのが不思議だった。
 そのとき、押井雄一郎に、白井先生の声が聞こえた。
「いいか押井、宮元武蔵の『五輪書』に書いてあることだが、武蔵はなにかを頼もうという精神が勝敗に致命的な隙をもちこむことを覚っていた。生死の境には、ただ自分独りしか信ずる人間がいないことを、武蔵ほど実践で知った人間はいないのだ。剣は道具の一つであり、相手と状況に応じてそれは木刀でもなんでもよかった。勝つためには敵を攪乱することも辞さなかった。武蔵の言う、我事において後悔せずとは、我を捨て無心になれということ、剣術には構えはないということ、居着くことはその瞬間に死を意味しており、大事は独り工夫する以外道のないこと、自分の一生は自分で決める以外なく、六十二年の独立独歩の生涯を賭け、武蔵は本物の武道家になることだけに執念を燃やしたのだ」
 ひんやりと、頭から水をかけられた思いが、押井雄一郎の胸を走り去った。だが現代は武蔵が生きた戦国時代ではない。押井が一方的に馘にされたことから、それなりに手ひどい憤怒を鎮めることは出来かねていた。そのとき、希望通りに死刑を執行されたネット上の犯罪者のエピソードがふと押井の頭を黒い翳のように掠めたが、それは一瞬の悪夢のように消え去った。

押井雄一郎は稽古道具を持って、「ラゾリア」に寄った。扉を開くと、ママさんの笑い声が聞こえた。
「あら、前科者が来たのね」
 そう言って、ママさんはあっけらかんとしている。
「昨日は面白かったわね。押井さん、何事も経験なのよ。押井さんはもっと大きな経験をこれからたくさんしなくてはならない運命が待っているようだわね。これからはね、途方もなく、非情な経験をした人が、逆転勝利をしていく時代にならなければいけないのよ、そうでなくちゃ、不幸な人はいつまで経っても浮かばれないじゃありませんか!」
 そう言ってママさんは、強く張った眸の裏に熱いものをためて、押井雄一郎の顔をじっと覗きみていた。
 そして、しばしの後、ママさんはまるで少女のような甲高い声をだして言った。
「押井さん、あの大事なことが、わかったのよ!」
 ママさんは嬉しそうに、口を切ろうとした。押井は妙な予感に一瞬、身を震わせた。
「信子さんの居場所よ」
「そうかー」と、押井はさらに鈍い抑揚をつけてそれに応じた。
「知ってたの? 信子さんの居場所・・・」
 押井はそのママさんの顔に、愛らしくもおかしなものをみて、笑みをうかべた。
 だが、ママさんはその押井の笑みに、不可解な黒い翳が過ぎるのをみて、一瞬、瞼をとじた。
「里山さんの温泉」
 そう声に出したのはたしかにママさんだった。だが、押井雄一郎も声なき声で、同時に応えていた。それは既に、今日の朝、自分が夢にみたことに寸分の相違もないことなのだ、と。
夕方から雪が降り出した。薄っすらと雪が積もったアスファルトの道を、武道具を肩にかけ、一歩一歩、踏みしめるように道場へ向かって歩いていく押井雄一郎の姿があった。
ーよし、いまにみていろ、おれはどんな辛酸をなめようと、おれはおれ自身の人生を生きてやるからな。
 雄一郎は一人そうつぶやいていた。





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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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