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掌小説「濁夢」

 仕事の空き日、耕三は昼は倒れるように寝床に臥していたが、夕暮れ時になると空腹に眼を醒ました。
喉が焼けて渇く。胸が張り裂ける悲痛な夢を見たのに違いない。その夢の欠けらが弾丸のようにまだ頭に残っている気がした。ひりつく孤独の顔を水道の蛇口で洗い流し、トイレの窓から用をたしながら遠くを見た。川の光った水面は土手に隠れている。芒の穂が風に揺れていた。
 耕三は踵のつぶれた古靴を突っかけ、よろけて扉を開けると、階段を下りた。
行くところはいつも決まっていた。
引き戸を開けると古びたカウンターが奥の壁までつづく、十人ほどが座ればいっぱいのこぜまい酒場である。
 座る席は決まったように、入口から壁に沿って奥の突き当たりの粗末な丸椅子である。
「あまり飲むとまた仕事がなくなるよ」
 女将さんは疲れはて、寝不足気味の荒れた顔をしている耕三をみると、よくそんなことを言った。
 彼は最近になってやっと、ある小さなタクシー会社の運転手になったばかしだった。
 まだ馴れない地域での仕事で頻繁に客に小言と叱責をうけた。子供の頃から口が不自由で、そのうえ事故に遇った後遺症で左足を痛めていた。耕三にできる仕事といえばタクシーの運転手ぐらいしかなかった。それが耕三にはいちばん合った仕事なのだ。
 目的地を頭にたたき込んで、行く道さえ間違えなければ、客と話すことはそんなにない。会社のお偉いさんに一日中気兼ねする必要もなかった。
耕三は女将さんと女将さんの遠い親戚筋にあたるお鈴さんのいるこの酒場で、黙って酒を飲んだ。必要以外には客と会話を交えず、むしろ酒場の酔客たちが交わす世間話に耳を傾けていた。そのほうが耕三には気が落ち着けた。もう六十を越した女将さんと、九州から高校もろくに出ずに東京に出てきたお鈴さんのいる酒場で過ごすときが最高だった。
 耕三のその気持ちをだれよりも察することができたのは、同じような境遇にあったお鈴さんだった。彼女も田舎にいる両親と弟に背を向けて東京へ飛び出してきたからだ。息苦しい田舎の近所付き合いはうんざりだった。それにもうトウが立ってきた年齢の女性を好んで雇ってくれる職場はいまは見つけようがなかったのだ。湿ったひんやりとした蒲団に横たわる深夜、胸の隅に疼くものがあった。それは天井を走る鼠の音に似ていてどうしようもない寂寞をいやが上にも身に沁みさせた。だから余計にお鈴さんは耕三から距離を置いていたのだが、女将さんがそういう女心に気づかない筈はなかったのだ。それで二人して耕三をそっとしてくれいたのだが、それが耕三には居心地がよかった。店が慌ただしくなると、耕三がいつものところにいることさえ忘れてくれる始末なので、いつまで居ても耕三が店を追い出される心配はなかったのである。
 耕三は下町のテンポの速い、隔てのない会話、その生き生きとしたことばの飛沫を浴びているだけでよかった。その酒場のいつもの椅子にいるだけで、ようやくこの世の片隅にいる幻影のような幸福の実感が、子供の頃に戯れた故郷の遠い海辺から聞こえる潮騒のように訪れるような気がするのだった。耕三はこの小さな鄙びた酒場にいると、それだけで大都会で独りきりでいる身の上を忘れることができた。よくみれば耕三はなかなかの男まえであった。がっしりとした体躯で背丈も高く、それでいてのんびりとした大様な顔つきは人に安心を覚えさせたくらいだ。ほとんど口数のない耕三に冗談はんぶんに話しかけては、その反応の鈍さにお鈴さんは遠慮なく笑っては、店の常連客の面白おかしい話しの種にした。耕三がうまく回らぬ舌を訥々と動かしながら返事を返すことがあっても、話しの種はもうつぎに移っていて、一周も二周も遅れて走ってくる運動会の足の遅い子供のように、失笑されるのが常であった。耕三はもう三十に手が届く年齢になっていたが、まだ女性の肌に手を触れたこともないらしいのである。だから酒場での卑猥な冗談に、それらしい反応もなくただ訳もない微笑が耕三の顔に浮かぶのがせいぜいのところであった。
「お鈴さんよ。そこの耕三さんに大事なことを教えてやらんとな」
 そんな酔客の一言から、女将さんも交え、お鈴さんと耕三との浮薄な想像から生まれた悪い冗談で酒場は猥雑な笑いの渦となったが、耕三だけはにたにたと曖昧な微笑をうかべ、そうした愉しそうな会話のシャワーを浴びて不思議に幸せそうな顔をしているのである。
 そうした日々がつづいたある日、お鈴さんの耕三にたいする態度が急変した。耕三が店を出るとすこし間をおいてお鈴さんが店を出た。
「女将さん今日はちょっと早く帰らして」
 とちょうど暖簾を取り込んでいる女将さんに断ると、きょとんとしている女将の返事も待たずにそのまま急いで店を走るように出ていった。お鈴さんは耕三の引き摺るような足音を追い、耕三の背中へからだごとぶつかるように、胸にためていた感情を一気に爆発させた。
「耕三さん、今日あたいを抱いて」
 とお鈴さんはやけに艶っぽい声音で耕三の手を握りしめた。耕三は一瞬わけも分からずに驚いたが、そのときはじめて自分のからだにいままでに感じたことのないある感覚が、身内に蠢きだすのを感じたのである。
「お鈴さん」
 と耕三がゆったりとした半ばかすれた声をだしてその柔らかいお鈴さんのからだを受け止めた。お鈴さんは耕三の唇に背をのばし、自分の唇を押しつけた。それからやにわに耕三の首に両手を巻きつけると、口の中へ自分の舌を強引に入れて、耕三の舌へ自分の舌を巻きつけて口を吸った。そのお鈴さんの大胆な行動が男である耕三に火を点けたのだ。
 この夜以来、お鈴さんと耕三は深い関係となった。これまで女性を知らずにいた耕三は、お鈴さんを知って、自分のなかに蟠(わだかま)っていたものが春の雪のように溶けていく、そんなこれまでに味わったことのない幸福な心持ちになったのだ。
「ねえ、このことはお店の人には絶対に内緒のことにしてね」
 と朝早くに部屋から出て行きながら、お鈴さんは耕三へきつそうな目をむけて、耕三の胸にそう釘を刺すことを忘れなかったが、その目の隅にうかんだ、朝焼けの空のような婀娜(あだ)っぽいお鈴さんの眼差しを、耕三は忘れたくとも忘れ得ない記憶として胸に刻み込んだ。
 その夜が明けてから三日つづきの出番で、耕三が店にやってくることはなかった。この三日間、耕三はお鈴さんのことをひっきりなしに思いつづけた。すると耕三のからだは浮き立つような幸福な心地につつまれるのだ。
 耕三はお鈴さんが部屋を出てから、すぐ仕事場へ出かけたが、ほんの僅かな遅刻がやはり気になった。会社の門へ足を引き摺りながらも急いでやって来たのだ。 
「よう耕三、遅刻のペナルティーだってよ」
 そう同僚の為さんが耕三と会社の門でのすれ違いに、背中を平手で叩いて耕三へ耳打ちをした。なんだか怒ったような為さんの横顔の目が厳しく光っていた。
「今月の給料から二割カットだ。今度遅刻したら辞めてもらうぜ」
 会社へ入ると、主任から耕三はそう背中に罵声を浴びせられて、いつもの車のシートに逃げるように座ると、耕三はようやく一息つく心持ちがした。
車にエンジンをかけ、その振動がからだにつたわると耕三はやっと普段の自分に戻ったようだった。耕三は路肩に客を捜す運転手の目つきになったが、女性の姿を見かけるとそれがみなお鈴さんにみえてならなかった。事故でも起こしたら会社は自分を解雇するだろうと、耕三は頭をふってお鈴さんの面影をふるい落そうとした。なんにしろようやっと入れた会社なのだ。その前の会社はあまりに苛酷なシフトで身がもちそうもなかったが、そんなひどいタクシー会社から理由も告げられず、即日解雇を言い渡された耕三は、ショックでしょげかえったものだ。耕三に同情した仲間からの助言で労働基準監督署の窓口へ行ったところ、会社は一ヶ月の給料分のお金を払ってくれたのである。やはり話しはしてみるものだと、なにも知らない耕三に耳打ちしてくれた仲間へ、耕三はあまりに嬉しくて、会社から貰ったお金の半分をやってしまった。それから家賃の滞っていた下宿を秘かに夜逃げしてからというもの、多少顔見知りのホームレス仲間のあいだを転々として、橋の下や公園の隅で犬のように残飯を漁る荒んだ日々を過ごしてきたことがあったのである。
二人の秘事はこうして、耕三に思いがけない幸福な日々となり、二ヶ月ほどの月日があっという間に過ぎた。
 そして、仕事開けのある日のこと、耕三は逸る思いでいつものお鈴さんの店に顔を出した。まだ早い時刻のせいもあったが、どうも店の様子が以前とちがうようなのである。やがていつもの常連さんが集まりだした。耕三はまた変わらない席に座り、ちびりちびりと酒を飲み出した。そのうち耕三の耳に焼け火鉢の炭が弾けるように、飛び込んできた一言に耕三は思わず耳を澄ました。
「お鈴さんがどこかへ行ってしまった」
 耕三は小さな酒場の隅で、だれともなくそう言うのを聞いたのである。
そういえばお鈴さんを、今日、耕三がこの店に入ったときから、目を皿のようにして探していたがいつまで経ってもその姿を見ることがなかった。にもかかわらず女将さんの側に、背後に、柱の蔭から、あのお鈴さんの声が聞こえ、ぽっちゃりとした小さな丸顔が現れる気がしてならなかった。だからそのお鈴さんがこの店から居なくなったなんてことを、耕三はまるで自分をからかう嘘か悪い冗談のようにしか、聞こえなかったのだ。耕三はお鈴さんと過ごした一夜、狂ったように睦み合い、小さな獣が呻くような、また、咽ぶ泣くようなその愛おしいお鈴さんの声だけが、そのむっちりとした白い肌とともに、こだまし反響を繰り返すだけであった。お鈴さんと交わした会話はわずかだが、からだで覚える愛情の交換ほど明瞭に二人をつなげるものはなかったのだ。
「お、お女将さん・・・」
 そういえば、その日の女将さんの様子はいつもとちがうような気がした。どこか耕三を避けているような他人行儀の素振りが耕三に淋しい思いをさせていたのだ。お客との応対にもいまひとつ覇気がなく、どこか上の空で、客の注文も忘れている始末なのである。
「お、お、お女将さん・・・」
 耕三はまたひどくどもって女将さんに声をかけた。
「はい。はい。耕三さんこのわたしになにかご用でも」
 と女将さんにしてはめずらしく、酒でもちょっぴり含んだらしく、ほんのりと頬を朱に染めている。耕三は喉にものでもつませたように、また一段とどもりながら、
「お鈴さんは?」というそのたった一語を口から出すのも苦しそうに、女将さんの顔を下からのぞきこんだ。
「ああ、お鈴さんかい、ちょっとからだの調子をこわして、田舎へ帰るってね。ほんとに困っちゃうわよ。もうすぐに町のお祭りで大忙しというときなのにさ。わたしひとりがてんてこ舞いさ。猫の手も犬の手でもいいから借りたいくらいなところなのに」
 早口でそういうか早いか、柱の蔭に隠れるように耕三の視野のなかにもう女将さんの姿はなかった。その柱に隅がめくれあがったカレンダーがぶら下がっている。
 それが耕三に辛い思いをさせた過去の一ヶ月ほどの記憶を甦らせた。もうあんな思いはしたくはない。野良犬のように暮らす毎日だった。朦朧とした頭で線路をうろついたこともあったが、やはり死ぬほどの勇気はなかった。同じようなホームレス仲間の親切が、耕三をこの世にひきとめたのだ。生きてさえいれば、なにかいいことが巡ってくる。そんな頼りない希望が耕三を支えた。そのうち役人が来て耕三は施設に収容された。暖かい風呂に浸かり、それなりの身なりをさせてもらってから、また耕三は職安通いをして、やっとのことで今のタクシー会社の職を得ることができたのだ。
それどころか、あの夜いらいもう一人きりではない。時々でも一緒に居られ、秘め事とはいえ、お鈴さんという女性を耕三は知ったのである。ほんとうに生きてさえいれば、この世にはいいことがあるものだと、耕三は嬉しさを噛みしめるような気持になっていたのだ。
 だがそのお鈴さんが、耕三のまえから消え失せてしまうというようなことがあるのだろうか。
 この二ヶ月ほどの間の夜の一部始終を耕三はしつこいくらいに反芻した。お鈴さんのあのやわらかい乳房、小さいからだを抱くと聞こえてくる口から漏れる、喘ぐようでもあり、嬉しいようにも聞こえるあの絶え絶えの声、次第にたかまっていく淫らで獣じみた叫喚の後の、あの死んだような眠りと耕三へのやさしさ。そのすべてがお鈴さんから来たのだ。あの大胆で奔放というほどに元気でやさしかったあのお鈴さんが耕三のまえから消えてしまったということが、耕三はなんとしても腑に落ちなかった。それは耕三の身体から魂を奪うような打撃を彼に与えた。
耕三は酒場のいつもの隅で、粗末な丸椅子を後ろへ傾けて長い間じっとうつむいていた。目からこぼれそうなものを誰にも見られたくなかったからだ。
 その日、耕三はいつまで経っても椅子に座って飲みつづけた。もう誰の声も耳にはいることはなかったし、どんなに飲んでも気持がよくなることはなかった。それどころか、暗い井戸に落ちたように、深い底へ底へと沈んでいくような気がした。
「耕三さん、もう暖簾だよ」
 女将さんが眠るようにしている耕三に呼びかけた。その声が耕三には、井戸の上から自分を呼ぶお鈴さんの声に聞こえ、はっと身を起こした。急に椅子から立ち上がったその耕三に女将さんが吃驚したように、後ろに身を退いた。
「お、お女将さん、お、お鈴さんはほんとうにからだを、こ、こわして田舎へ、か、帰ったんだね。そ、それはほんとうのことなんだね」
 その不器用な切れ切れの声には、いまにもやりきれずに張り裂けるような悲哀がこもっていた。
「耕三さん、酔っぱらったのかね。お鈴さんは病気になって田舎へ帰ったと、さっきも言ったじゃないか」
 女将さんは耕三の哀しみの底に、自分へ襲いかかるような不穏な感情がおおきな火の玉となって落ちて来そうな予感に恐怖を感じた。立っている耕三の隅の薄汚れた壁に、大きな影が蔽い、その影のなかにいる耕三が別人のように見えたのである。
「お、お鈴さんがどこに居るのか、女将さんは知っているなら、お、おれに教えてくれんかい?」
「田舎へ帰ったということぐらいしか、あたしにだって分からないんだよ」
「その田舎ってどこなんだい?」
「九州の福岡って言ってたけどね」
「九州の福岡って町は広いのかい? それは九州のどの辺にある町なんかい? 女将さんの親戚と言うとったのと違うのかい?」
 耕三のどもることも忘れるほどの、しっかりとした淀みのない訛り混じりのことばが、女将さんの肩を掴みかからんばかりに、次々と追ってくる。
「さあ正直いってあたいにもよう分からない。親戚といっても、あたいは東北だしな。九州なんかは行ったこともないところだしね。もしかしてどこか、別の店にでも鞍替えしたのかも知れんしな・・・。耕三さん、もうそんな話しはよしておくれよ。あたしだって面白くもないんだからさ」
 女将さんは怒ったようにそう言い終わると、いつもと様子の違う耕三に恐れをなして、カウンターをくぐって店の出口へ逃げるように背中をこごませた。その後ろから耕三が女将さんの肩へ手を伸ばした。あたかも深夜の路上で、耕三の首へお鈴さんの両の手が絡みつくかのように。
 その直後から耕三の記憶はよれよれの襤褸切れのような状態を呈するようになったのだ。余りに大量の酒を疲れきったからだに流しこんだ後に知ったお鈴さんの失踪の衝撃が、耕三の肉体と精神を荒廃させたにちがいなかった。
 それ以後も、お鈴さんが店に姿を現すことはなかったが、耕三はお鈴さんのいない店に幾日も通いつづけた。いつかまたひょっこりとあのお鈴さんが店にきて、歩いている耕三の後から、
「耕三さん」とぶつかるようにして逢える日がくる、耕三はそんな甘い饐えたような夢をみながら、またいつもの店の隅の椅子に座り、町の人の四方山話が波音のように聞こえてくるのを、まるで眠るように頸を傾けて聞いていた。
 それから雨が降ったり、また晴れたりした不安定な日が続いたが、町の祭礼が始まったその日は朝からすっきりとした天気になった。
 例年のとおりその下町の祭りの賑わいに変わりはなく、大勢の担ぎ手にゆられた神輿のてっぺんで、金色の鳳凰はかすかな鈴音を鳴らしながら、青い空いっぱいに、大きな神輿はまるで波にうかぶように、右へ左へと町の路地筋に揺れて流れて行った。
 それから、三ヶ月も経たない夕暮れのことだった。耕三の部屋の窓をコツコツと叩く音がした。部屋で昼間から寝入っていた耕三は、その音の合間あいまに、どこかで聞いた女の声を耳にした。
 ドクンと心臓が音をたてるようだった。蒲団をはねのけ、耕三は窓へ転がるようにからだを近づけた。
「あなた、耕三さんていうんでしょう?」
 パジャマ姿の耕三は吃驚した。夢にまでみたお鈴さんがすぐ側にいるように思われた。
がそれは、お鈴さんではなかった。耕三は窓を開けた。そこにはお鈴さんによく似ている若い女性が、辺りを窺うように立っていた。
「あ、あんた誰?」
「あたしは鈴の妹。悪いけど中に入れてくれる?」
 耕三が玄関を開けると、ドアをすり抜けるようにその若い女性が入ってきた。上がり框に立ってはいたが、落ち着きのない目をして戸外に耳を立てている様子だ。声はお鈴さんとまるでちがわず、目鼻立ちも似ていたが頬がそげ落ち、お鈴さんより背丈も高いわりにはほっそりと痩せた体つきをしていた。
「お、お鈴さんの妹かい?」
「あなたが耕三さんね。姉さんから聞いてきたのよ。あたしはお光というの。いまは事情があって詳しいことは話せないけど、いずれあなたにお姉さんのことで是非にも手を貸してもらわなくちゃいけないことがあるのよ。いまは、あたしはくたくたで、ちょっと休ませてちょうだいね」
「ねェ、お、お鈴さんはどこにいる?」
「耕三さん、まずは部屋に入れて下さいな」
 人を食った物言をして、お光という女性は後手でドアをきちりと閉める自分がここに来たことを、誰にも内緒にして欲しいと耕三に約束させると、耕三の部屋の畳に早速にというように横になった。耕三はお鈴さんの妹だというお光と名乗る女性の顔をまじまじとみつめていたが、早くも横になり伏せっている躯の上に、自分の蒲団かけてやった。まるで他所の国かからやって来たような、粗末ななりをして、制服のような服装を身につけているお光という女性が、広くもない耕三の部屋を半分を占領したようである。
 よく寝顔を見れば見るほどに、お光さんの顔のうえに耕三はお鈴さんの顔を見ることができた。まるで耕三の思いが届いたように、お鈴さんの代わりに、耕三のところへお光さんが来てくれたような気がした。しばらくこうして寝かしておけばお光さんもやがて起きるにちがいない。起きたらお姉さんのことが聞けるに相違ないと、耕三はそう思った。
 そのうち、仕事で疲れていた耕三も寝てしまった。明け方恐ろしい夢を見た。その夢の中であのお鈴さんが数人の男に抱えられいた。羽交い締めにされ、身体ごと大きな袋に入れられて砂浜を運ばれていく。海辺の冷たそうな水が、船縁にあたりそのたびに縦に横に舟は傾いでいる。
「助けて!」
 と泣き叫ぶお鈴さんの声が耳に残り、目を覚ましてもその声だけは谺をしていたが、鈍い舟のエンジンの音にその声は直にかき消され、どこにもお鈴さんの姿を見ることはできなかった。もどかしい哀しみだけが耕三の胸に残り火のようにくすぶった。
 耕三は変な予感に駆られ、起きあがって部屋の中を見回した。どこにもお光さんの姿はない。耕三は玄関の扉を開けて外に出て辺りを探しまわったが、どこへ行ったのかお光さんは見つからなかった。
 秋風に吹かれた芒の穂が薄曇りの空のしたで揺れている。その土手の斜面の向こうに、背伸びをすれば、幅広の川の水面が窓から見えるのだが、それは満潮時のときに限られていた。薄着にはもう秋風は寒いほどの天気である。どうしてお光さんは突然に来て、慌ただしく去ったのであろう。
 耕三はお光さんの声を聞き、玄関の扉をすり抜けて部屋に入って倒れ込んだお光さんが、目を覚ますとどこにもいないことが不思議でならなかった。
 お光さんは自分がお鈴さんの妹だとまで言ったのである。耕三が見たその顔は、たしかにお鈴さんのようにぽちゃりとした丸顔ではなかったけれど、耕三の目にはお鈴さんの妹と見えたのだ。横たわったその丈高い細っそりとした身体に、自分の蒲団まで掛けてやったのだと、そう思い出して部屋の蒲団をみると、蒲団は耕三の寝ていた場所にいつものようにある。なにひとつ変わってはいない。ではあれは夢に過ぎなかったのであろうか。
 耕三は茫然とした。窓を叩く音はまだ耳に残っている。玄関の扉を開けたのも、耕三の脇をすり抜けるように部屋に上がり、倒れるように畳に横たわった女性が、自分からお鈴さんの妹でお光さんと名乗り、お鈴さんのことで耕三にいつか援助をもとめることをほのめかしたが、なにやら複雑な事情があるようなことも耕三はぼんやりとだが覚えていた。その顔を耕三はたしかに見たのだ。夢ではない。夢ではないと思いながらも、では明け方に耕三が見た夢の中に、助けを求める声だけが聞こえ、姿のないお鈴さんのことを、まるでうつつのようにはっきりと思い出されるのはなぜであろうか。耕三のあたまは混乱した。
「お鈴さん。お光さん」
自然に耕三の口から、二人の名前がつぶやかれた。その虚しい二人の名前を呼ぶつぶやきを、耕三はたしかに自分の耳で聞いた。その音が耳の奥でいつまでもこだまして、大きくなり小さくなって止むことがない。それから後頭部を叩かれたようなめまいがして、そのまま畳に膝を落として座りこんだ。両手を握りしめ、まるで祈るように額に当てたが、その両手は細い紐で括られてでえもいるように自由が失われていた。そのまま蒲団に突っ伏して耕三は昏々とした眠りにおちた。
 芒の穂を揺らし、秋の風が土手を越えて部屋の窓に吹きつけた。薄い窓硝子がコトコト鳴った。そのたびに、耕三は反射的に聞き耳を立てる習慣がしばらくつづいたが、やがてそれもなくなった。
 苛酷な勤務の日々が年齢以上に耕三から若さを殺いでいたとはいえ、まだ三十前の耕三の肉体は若さを湛えていた。依然、タクシー運転手の変則勤務の日々が続いていた。運転中はなにも考える必要がなかった。頭は秋の空のように空白であった。何ごとにも囚われることのない、その空白の時間が快かった。手を上げるお客を探し、見つかれば車をその方へ寄せていく。客から行く先を告げられれば、自分の頭に地図を広げ、分からなければカーナビを操作して確かめる。耕三はほとんど話しをしない。どもりながら話すと、自然にお客の方から話しをしなくなる。偶に機嫌の悪いお客に罵倒されるが、それは商売柄もう慣れっこになっている。時が経つにつれて、耕三はお鈴さんを知る前の耕三とはどこか違う自分になりつつあった。一枚皮が剥けたというより、この世の中のざらついた空気を、肌着に吸わせて一枚ぶんを身に着けたようであった。お鈴さんという女性を知っただけで、そのぶんだけ世の中に自分が馴染めたのか。それとも世の中がお鈴さんを通じて、耕三を馴染ませてくれたのだろうか。お鈴さんがいつまでも恋しく思い出されたのはたしかなことであったが、毎日の仕事に追われ、親しい同僚が多くなるにつれ、だんだんとお鈴さんの影は遠退いていった。なによりも耕三のまだ若い身体は、この世の中には他にも女性がいて、お鈴さんのように、耕三を受け入れ、二つの身体が一つになったような陶酔を味わうことを夢想をすることができた。お鈴さんのように耕三に近づいてくれる女性は現れることはないが、そんな夢想であっても、そこから女性の肌の匂い、耕三の身体が激しくもがけばもがくだけ、温かいやわらかい肌が耕三を抱きしめ、さらに奥へと誘い、息を荒げて小さな獣のような声で歓びに身体を戦かせる姿を、すぐそこにうつつのように想像することができるのだ。耕三は物陰に車を止めると、シートに座ったまま、盛り上がってくる自分のものを握ると、ズボンのジッパーを引き上げ、お鈴さんのからだを抱いた記憶を子供のような手つきでまさぐった。頭に恍惚の眩暈を走らせ、ほとばしりでる白く濁った液体は車のフロント硝子に飛び散った。それはしかし孤独な陶酔の嗚咽に過ぎなかった。その行為は空虚でさびしい歓びの独唱であり、心を許した他人と共に全身で感じる歓喜の合唱ではなかったのだから・・・。
 それから、寒い冬が過ぎ春がやってきたが、依然、耕三のまえにお鈴さんのような女性は現れることはなかった。アパートの近所にある公園のベンチに座り、子供連れの女性を見かけると、耕三はその姿にまたお鈴さんの幻影を見るようになった。あまりに自分を追うように見つめる見慣れぬ男に、女性は不審の目をむけると、子供の手を引いて逃げるように公園を後にするのが常であった。
 公園のところどころに黄色いタンポポの花が咲いていた。それは耕三に故郷の野山を思い出させた。むんむんと草いきれのする故郷の山里からすれば、公園は荒野も同然だった。遠くに潮騒の音まで聞こえた故郷は、いたるところに自然が溢れていた。耕三はその故郷を捨てるように、東京に憧れて出てきたのだ。それが今では、たとえ公園の隅にちらほらと咲く黄色い小さなタンポポの花でも、耕三の荒地にも等しい心を一時でも慰めてくれるに充分であった。
午前の陽射しをうけたタンポポの花は、こつぶだが金色の光りを放っている。耕三はその一本の茎を手でむしりとり、手の中の花を鼻に押しつけその香りを嗅いだ。小粒の花芯から強い香が鼻孔を刺激した。すると突然のように耕三の前に、飛沫を上げて打ち寄せる青い海がうかんだ。その砂浜に打ち寄せられた海草を手に掴んだ記憶が生々しく甦ってくるのだった。その塩辛い海の香りが烈しい懐かしさで故郷を思い出させた。しかし、そこに帰ろうという気にはなれなかった。東京には青い海も砂浜もないが、ひととき耕三を幸福な思いにしたお鈴さんという女性はいたのである。鬱屈した思いがまた耕三を悩ましはじめた。
 朝トイレに立つと、その矩形の二階の窓から耕三は背を伸ばした。それは耕三のいつもの癖である。部屋の蒲団に横たわると、ふと、川面の光りを見たような気がした。それで久しぶりに、耕三はアパートの錆び付いた鉄の階段を降り、足を引きずりながら、彼の視野を遮る土手を一歩一歩上りはじめた。ぷんと土の匂いが鼻孔に広がる。いたるところにセイタカアワダチソウの花が繁茂し、春の草花はあちこちの土から顔を覗かせている。土手に上がると、やはり川は満潮で水は岸に広がり乾いた土を濡らして流れていた。その水はこのところ降り続いた雨で濁っていたが、土はその濁り水をたちまちに吸いあげて川幅を土手すれすれに拡げていたのだ。
 その土手の上に、子供をまじえた数組の釣り人が早速に竿をかざして糸を垂れている。
 近づいて来た子供に耕三は声をかけた。
「な、なにが釣れるんかいの?」
「スズキとか、そんなもの。おじさんは釣りをやらんの?」
 子供は怪しみもせず、闊達に元気な声を返した。耕三はにんやりと笑うと、頭をかいた。
「お、おじさんは運転手だに、釣りはやらん」
 子供はきょとんとした顔で耕三の引き摺るようにして歩く足をちらりと見ると、仲間のいる別の釣り場へと走り去った。
 部屋に戻るとしきっぱなしの蒲団に横になった。目を覚ますと窓は薄暗くてもう夕暮れの時刻だ。外へ出ると、耕三はもう半年ちかく通っていなかった酒場へと、ふと足を向けた。
 川の土手下に添って歩き、最初の路地を曲がり公園を脇にみて広い通りに出る曲がり角に、いつものように提灯が灯っている。その公園の裏にこの町の神社があり、また去年のようにお祭りがある。もうどのくらいその酒場に行っていないか耕三はしかと思い出しかねた。この半年のあいだ、頭のなかは靄がかかったようにぼんやりとしていたのである。夕闇がたれこめはじめた公園には、二人の少女がしきりにブランコをこいでいた。その二人のスカートがめくれ上がり、夕顔の白い花のように、耕三の目に眩しく飛び込んできた。
「あら久しぶりじゃない」
 暖簾をくぐり戸を開けた耕三の顔を見ると、驚いた顔をして女将さんがそう言った。その女将さんの声が耕三の曇りがちの顔から屈託を拭ってくれるように思われた。
「ずいぶん来ないから、どうしているのかと、暖簾を出しながら、さっきそう思っていたのよ。そしたら、ひょっこりと現れるんだもの、ほんとに不思議なもんだわ」
 どきまぎとしながらも嬉しそうな表情の女将さんに、どう返事をしていいのか戸惑いながら、耕三はちょこんと頭を下げた。壁づたいにいつも耕三が座る隅の椅子に腰を下ろした。時刻はまだ宵の口であった。
「お、女将さんも、お、お元気そうで・・・」
 タイミングが外れ、照れくさそうにそう女将さんに言うと、耕三は店の中を見回した。まだ誰一人客の姿はなく、店はがらんとしている。
「あたしの元気は空元気だけど、それだけしか取り柄はないのよ。年ばかりは一人前にとっていくけどさ」
 たしかに女将さんはすこし老け込んだように見えた。耕三は椅子に座りこんで、だんだんと昔の気分が戻ってくるのを、ゆっくりと待つような思いでいたのだ。まるで川の水が岸辺を広げ、満潮の水位が土手の水草をその瀬に沈めていくように。ひとつの影が次第にその輪郭を現し、その声とからだが店のなかに蠢きだすのを、耕三はじっと待っているかのようであった。
 そのうち店の中は客で立て込み、見知った顔の記憶が一つひとつ耕三のこころを横切っていった。幾つかの声は昔と同じよう調子で耕三の耳をくすぐった。酔客の活発な話し声と笑いが、女将さんの声と一緒になって、耕三の身体を渦のように巻いて包みはじめた。その渦の中に耕三は浮かび漂い、大きく温かい酔いに身を任せることができるはずであった。だがその温かい酔客の合唱の合間あいまに、耕三はどこかで耳にした一人の女性の声が聞こえてくるような気がするのであった。
 突然、耕三の耳に「お光さん」と呼ぶ女将さんの声を聞いた。
 はッとして耕三はその声の跡をたどるように、一人の女性の姿を見た。ぼんやりとした記憶のなかから、そこにたしかに耕三の部屋の窓を叩き、畳に横たわったお光さんに似た顔を耕三は見たと思った。心臓がドキリと鳴った。
「お光さん」
 思わず耕三の口からそう呼ぶ声が漏れた。
だがその声はあまりに小さかった。広くもない酒場にざわめく酔客の騒音にかき消され、当のお光さんに届いた様子はない。なによりこの酒場にあのお光さんがいるなんてことに仰天したのは耕三なのだった。思わず声を発したものの、その自分の声に不思議な響きを感じずにいることができない。やにわに耕三の前に姿を見せ、朝、目覚めるとそのお光さんの姿は消えていた。夢ともうつつとも分からない出来事に、耕三はしばらく戸惑い途方に暮れていたのだった。それがどうしたことか、まるでお鈴さんの身代わりのように、あのお光さんが目の前にいるではないか。
女将さんが何気なく耕三の席に近づいてきた。
「女将さん、今、あの人を『お光さん』と呼んだね?」
「ええ、あの娘はお光さんという名前で、まだ見習いみたいなものだけど、手伝に来てもらっているのよ。お鈴さんの代わりだわね」
 女将さんはそういうと、奥歯にものが挟まったような物言いから、今度はからかうような表情で、耕三へ片目をつぶってみせた。
「あの女性はお鈴さんの妹さんかい?」
「えッ? 耕三さんはもう酔いがまわってきてしまったのかい。そう言えば、ちょっと似たところがあるからねェ・・・」
 女将さんはそう言って頬笑んだが、酔いながらも半分醒めているらしい耕三の目を見て、すぐに相好をくずした。
「耕三さんには、そう見えても仕方がない訳がおありなんだもんねェー」
 今度は物知り顔ながらも、すこし呆れた調子でそう言った。
「女将さん、お鈴さんはあれからどうしているんだろう?」
 耕三は女将さんにおちょくられた気持の行き場をもとめるかのようにそう尋ねた。
「田舎へ帰るって行ったきり、その後、なんの連絡もありゃしないのよ。二度ほどこちらから田舎のほうへ連絡をしてみたけど、田舎のほうへは帰っていないみたいよ。消息不明ね。拉致でもされたんじゃないかって馬鹿な冗談を言うお客さんもいてさ・・・。あら、ごめんなさい。わたし変なことを言ったかしら、まあ、お役にたたなくって残念だわ」
 女将さんは耕三を困惑させる謎めいたそんな軽口をたたくと、自分を呼ぶ客のほうへ顔を向け、背中をむけて離れていった。耕三は女将さんが自分へわざわざ謝る理由が直ぐには分かりかねた。「拉致」云々の暗示めいたことばは、そのとき耕三の耳を素通りしただけだった。
 それから暫く後に、お光さんからお鈴さんの身に起った事実の詳細と女将さんの在日における微妙な立場を聞くまで、耕三には何の関心もない無意味なことばにすぎなかった。
 狭い店が客で混んできていた。耕三のすぐ隣にも知らない客が、椅子を手前に引いて、耕三から離れて座った。耕三は顔をしかめて、その客の肩だけを一瞥した。見たことがない新客のようだ。
女将さんになにか言い含められたのか、お光さんと呼ばれた女性が、カウンター越しに耕三の前に歩み寄ってきた。
「お、お光さんだよね」
耕三はその一言に自分の思いの丈のすべてを託すかのように、はっきりとその名前を口に出し、お光さんの瞳をじっと凝視めた。そのお光さんの瞳に、その耕三の問いかけに応答しようとするかすかな反応を、耕三は確かに見たように感じた。それは錯覚に過ぎなかったにせよ、耕三の全身の勘が働いたのに間違いはなかった。歩道に歩く人間から車を呼ぶお客を敏感に察知する運転手のように。
 するとそこに、夢の中のお鈴さんが現れた。錯覚でもよかった。酒に荒んだ日々を過ごして濁った頭の中にそんな夢を描いてみたかった。
「ええ、あたしお光です。宜しくお願いします」
 そのお手伝いさんは、耕三がお鈴さんの妹だというので部屋に入れたあの女性に相違はないと耕三はこころの底で合点した。だが耕三の前に立つお光さんは、それを表に出すまいと仮面をかぶっていることが耕三には理解できない。耕三の胸のなかにぼんやりとだがある確信が、雲間から洩れる陽の光りとなって射しこんだ。それを口からことばに出せば、あの一夜の現実はたちまち夢となり耕三から遠くへ去ってしまうように思われてならない。耕三の前にいる女性はあのお光さんに間違いない。だがお光さんはそれを秘密にしておこうとしているようだ。今さっき耕三を見た瞬間、お光さんの瞳に走ったかすかに光る翳は、耕三にそんな想像を働かせた。耕三には窺い知れないなにかがそこにあるに違いない。耕三はそんな漠とした想像をしただけである。
 ただ耕三は、そのお光さんに向かって、一言だけでも声に出し呼んでみたい名前があった。
「お鈴さん!」
 耕三は虚しい夢を掴むように、またその声が自分の胸に響くのをたしかめる様にそう呼んだ。お光さんの両肩がその耕三の声に激しく動揺する気配を耕三はその全身で感受した。耕三の目にもはっきりとそれが窺え、お光さんの心臓が、川風に揺れて耕三の部屋の窓のコトコトと鳴る音のように聞こえるのだ。
 お鈴さんと呼ばれたお光さんは、まだ表情のない仮面のまま、耕三の顔をじッとみつめている。その目がなにかを語ろうとしながら、お光さんの中でそれを阻むものが何であるかを耕三ははかりかねた。だがお光さんが耕三へ問わず語りに伝えたいものがあることは、その目の動きで耕三は感じずにはいなかった。それからじっとお光さんは何事かを秘し堪えて、それを胸の奥底に蔵まったようだった。
そして、耕三を見る目を見ず知らずな他人を眺める、よそよそしい瞳に変えた。なぜかそうしなければならない理由があることを、次第次第に耕三の頭から濁った曇りを拭い去り、その背景について考えこませるちからとして働いた。
 耕三は後姿を見せて去っていくお光さんの背中に、お鈴さんの顔が映るのを見たような気がした。そのお鈴さんの顔は耕三になにかを訴えてかけている。
 やがて耕三の顔に、熾火が燃え上がり照り輝く光りが認められた。
「あれは夢でなんかではねえぞ。あれはほんとうのことなんだ!」
辺りに聞こえる声で、耕三の口からそんな声が呻くように洩れた。
 何事かと隣の客人は横目で耕三を盗み見た。
 耕三はコップ一杯の酒を片手で卓子から掴むと、喉の奥に一気に流しこんだ。そして腹の底から滾りたつ歓びを現すように、大きく深い息を吐くと背筋を力いっぱい伸ばし、今目覚めたばかりの子供の様に、両腕をひろげてその太く長い二の腕を天井に届くばかりに突き上げた。
 その耕三の太い腕の両掌が、頭の上に吊る下がった電灯の硝子の笠の二つにぶち当たった。笠は二つの鐘の様に揺れ動くとまた一つにぶつかり、鈴でも鳴らしたような音をたてた。
「まあッ、危ない!」
 女将さんが叫ぶ声が一瞬、耕三の耳を駆け抜けた。
 その女将さんの声は、未来に始まる耕三とお光さんのはかりごとに対する警告とも、二人の行動への正直な反応とも、どちらにも受け取れるものだった。だがその一瞬の声とともに、お鈴さんの悲痛な声が波と風の音に混じり、舟のエンジン音が慌ただしく岸辺から遠ざかっていく、どこかの海辺の光景がまるで以前に見た夢のつづきのように、耕三の目の前にうかんだ。
 酒場の壁に倒れた耕三の黒い影は、電灯の明かりの加減で、右と左に大きく揺れ動くと、やがて一点に静止した。硝子のコップはあまりに強く握られた拳のせいで罅が入り、酒がカウンターに溢れていることさえ、耕三が気がつくことはなかった。しかし、お光さんだけはその掌から血が滲み出ているのをじっと目の隅で見つめていた。秘かな不思議な微笑を隠しながら、耕三のからだに漲りだす自然という原初の無垢の力、それが計り知れない行動へと耕三を駆り立て変化させるある種の兆候を見届けるかのように。
 それから一ヶ月後に、酒場にお光さんと耕三の姿を誰も見た者はいなかったが、また、その行方は酒場の女将さんさえ知る由もまたなかったのである。




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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