加藤典洋 2 ーはじめにー
或る人間がどのような時代に生れ精神的に生き始めたのか。その人間がその時代をどのように感受して、そこに如何なる問題意識を育みに至ったのかは、看過できない重要な事項である。誰よりも本人がそのことに自覚的である場合、その人間の像へ光りとあてるには正面から向かういがい方法はないであろう。
「ぼくはぼくであることについてはたして自由だろうか?」
J.M.G.ル・クレジオ『物質的恍惚』
青年期にすでにこうした自問を抱懐している青年に、時代や社会などという外的環境が当の人間の思考に及ぼす影響を考慮しても無意味だろう。だが知的な構造だけがその人間の思考をつくるわけではない。いかなる知的な人間といえど、感性や感情に包まれ、またはそれを生涯に亘ってひきずっているはずだからだ。
だがこのル・クレジオのことばにあるのは、自己自身を白紙還元しようとする、はげしく根源的な意思である。まっさらに生まれ変わろうとする野性の本能の端的な表明である。これこそ嘗てフランスの詩人にして哲学の徒ポールヴァレリーが精神における第二の誕生と呼んだものだ。
「水の中で水が沈む。波がためらいながら遠のいていく。弱々しい水の皮膚を透かすと、ひとつの表情が、その輪郭を水に滲ませてぼんやり微笑んでいる。」(応募小説「手帖」銀杏並樹賞)
学生時代に書いた小説の冒頭である。すでに特徴ある比喩の多用が見られ、あたかもサナギがその幼虫の背中からおずおずと羽根を覗かせているような初々しい書き出しである。
偶々にも、文芸評論家になったともいうべき加藤典洋に窺えるものは、自己を白紙還元させよう、まったきの根源的な精神と思考の誕生、先鋭にして広闊な感性、好奇心溢れる柔軟なる感覚との類い稀な合金といえるものである。だがその青年が中原中也の詩的世界に没入している光景には、余人の容喙を拒む内密な精神の世界を窺わせるものだ。「最大不幸者にむかう幻視」に次いで、千枚を超える中原中也の草稿を紛失する事故に至っては、中原中也との運命的な交錯さえ予感させずにおかない。ここには青年期にありがちな反時代的な身振りは微塵もない。時代はそのとき三島の割腹自殺、連合赤軍の陰惨なる政治的な状況の渦中にあったからである。
1966年(昭和41)の19歳から1977年(昭和53)の29歳まで、加藤典洋の青年期はこうして過された。平凡といえば平凡、非凡といえば非凡な文学青年の10年である。後に、50冊ほどの著書にすがたを現わす二層構造とその逆説、反転に反転を重ねる渦巻、催眠状態への陶酔と覚醒、捻転の自覚と快癒の希求、こうしたアクロバットな逆立の精神の歩行は、加藤典洋なる特異の思考スタイルを特徴づけるものである。
そして、ここに「自分と世界と戦いでは、世界を支援せよ」(カフカ)という客観「世界」からの内的な要請を自己の課題としたとき、かれは頑健な文学の徒でありつつ、かつまた強い倫理感にあふれた文藝批評家となって、かれの71年の人生のアラベスクを見せてくれることになるであろう。
「ぼくはぼくであることについてはたして自由だろうか?」
J.M.G.ル・クレジオ『物質的恍惚』
青年期にすでにこうした自問を抱懐している青年に、時代や社会などという外的環境が当の人間の思考に及ぼす影響を考慮しても無意味だろう。だが知的な構造だけがその人間の思考をつくるわけではない。いかなる知的な人間といえど、感性や感情に包まれ、またはそれを生涯に亘ってひきずっているはずだからだ。
だがこのル・クレジオのことばにあるのは、自己自身を白紙還元しようとする、はげしく根源的な意思である。まっさらに生まれ変わろうとする野性の本能の端的な表明である。これこそ嘗てフランスの詩人にして哲学の徒ポールヴァレリーが精神における第二の誕生と呼んだものだ。
「水の中で水が沈む。波がためらいながら遠のいていく。弱々しい水の皮膚を透かすと、ひとつの表情が、その輪郭を水に滲ませてぼんやり微笑んでいる。」(応募小説「手帖」銀杏並樹賞)
学生時代に書いた小説の冒頭である。すでに特徴ある比喩の多用が見られ、あたかもサナギがその幼虫の背中からおずおずと羽根を覗かせているような初々しい書き出しである。
偶々にも、文芸評論家になったともいうべき加藤典洋に窺えるものは、自己を白紙還元させよう、まったきの根源的な精神と思考の誕生、先鋭にして広闊な感性、好奇心溢れる柔軟なる感覚との類い稀な合金といえるものである。だがその青年が中原中也の詩的世界に没入している光景には、余人の容喙を拒む内密な精神の世界を窺わせるものだ。「最大不幸者にむかう幻視」に次いで、千枚を超える中原中也の草稿を紛失する事故に至っては、中原中也との運命的な交錯さえ予感させずにおかない。ここには青年期にありがちな反時代的な身振りは微塵もない。時代はそのとき三島の割腹自殺、連合赤軍の陰惨なる政治的な状況の渦中にあったからである。
1966年(昭和41)の19歳から1977年(昭和53)の29歳まで、加藤典洋の青年期はこうして過された。平凡といえば平凡、非凡といえば非凡な文学青年の10年である。後に、50冊ほどの著書にすがたを現わす二層構造とその逆説、反転に反転を重ねる渦巻、催眠状態への陶酔と覚醒、捻転の自覚と快癒の希求、こうしたアクロバットな逆立の精神の歩行は、加藤典洋なる特異の思考スタイルを特徴づけるものである。
そして、ここに「自分と世界と戦いでは、世界を支援せよ」(カフカ)という客観「世界」からの内的な要請を自己の課題としたとき、かれは頑健な文学の徒でありつつ、かつまた強い倫理感にあふれた文藝批評家となって、かれの71年の人生のアラベスクを見せてくれることになるであろう。
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