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加藤典洋 Ⅲ

 林芙美子が最晩年に書いた小説「浮雲」の終わりごろに、病床のゆき子が「東京裁判」に思いをよせるくだりがある。
「その、小さなラジオを眼にとめて、富岡が、ダンズ曲でも聴かせてくれと云ったが、ゆき子は、わざとダイヤルを戦争裁判の方へまわしたものだ。二世の発音で、
「貴下、その時、どうお考えでしたか?」
 といった丁寧な言葉つきが、ラジオから流れると、富岡は、そんなラジオは胸が痛いから、アメリカのジャズでも、聴かしてくれとせがんだ。ゆき子は、むかっとして云った。
「私や貴方もふくまれているのよ、この裁判にはね。―私だって、こんな裁判なンて聞きたくないけど、でも、現実に裁判されている人達があるンだと思うと、私、戦争ってものの生態を、聴いておきたい気がするのよ」
        (「浮雲」63章)

 「敗戦後論」を書いた加藤典洋が、林芙美子の「浮雲」についての感想を記したことがあるだろうか。日本の敗戦による「ねじれ」を問題にした加藤が、戦前と戦後の小説家や思想家の変化と動向にむけた鋭敏な注意を、もし「浮雲」という小説に集中させて論じていたなら、どのような文章を綴ることになったか、これは非常に興味を惹かれる想像である。
 なぜなら、1995年(昭和60)に発行した第三詩集「カモメ」の「あとがき」で筆者はこう記していたからである。
「戦後50年というらしい。敗戦小説の傑作「浮雲」のなかで、林芙美子は『みな、いきつく終点へ向かって、人間はぐんぐん押しまくられている。富岡は、だが、不幸な終点に急ぐことだけは厭だった。心を失う以上は、なるべく、気楽な世渡りをしてゆくより道はないと悟った。』
 これが過去のまた現在の日本における生活者の感慨である。これ以上なにを語る必要があろう。」
 「浮雲」の登場人物である「富岡」は戦前から戦後を生きていく日本の庶民の典型であろう。だがその富岡から離れられない「ゆき子」は屋久島の病床から「東京裁判」のラジオに耳を傾けながらも、
「私や貴方もふくまれているのよ、この裁判にはね。―私だって、こんな裁判なンて聞きたくないけど、でも、現実に裁判されている人達があるンだと思うと、私、戦争ってものの生態を、聴いておきたい気がするのよ」
 と、ダンス曲でも聴きたいという富岡へ反論するのである。死の淵に喘ぎながらもロマンチックな過去へのノスタルジーを捨てることもできず、「東京裁判」の被告達に自分たちも含まれていると揶揄ともとれる一言を放つゆき子には、作家林芙美子の戦後の時代認識が投影されている。
 加藤の批評の立場からすれば、富岡は高度経済成長を遂げるまでの昭和の戦後を逞しく生き抜いていく日本の大衆の一人、20世紀の文明を世界にもたらしたアメリカ(対話集「アメリカが見えない」青木保・対談)に無意識の深層まで浸透され、加藤の説くジキル氏とハイド氏という二人の人格に自己分裂している私たち日本人の大多数にほかならない。富岡に批判的な態度で接するゆき子は、戦前の日本への憧憬をひきずりながらも醒めた目を保持している。この男女の戦争体験の微妙な陰影の相違のうちに、加藤の戦後批評の磁場そのものの反映をみることができるといってもいいだろう。敗戦により生じた「ねじれ」は、メビウスの帯のように表は裏と反転が可能な構造となっている。ゆき子の反面は富岡の反面と交換が可能なのだ。「浮雲」の男女二人の腐れ縁の関係は、加藤の批評の両義的な構造を鏡にみるごとくに映している。昭和の作家林芙美子の真価は、加藤の説くところの「ねじれ」を、男女の肉感的な関係性として描きえたところにある。林が前年に書いた短篇「下町(ダウタウン)」は、シベリアから帰る良人をまちながら、下町で茶を行商するりよという子連れの女をスケッチ風に描いているが、一夜懇意となった鶴石という男が工事現場の事故であっけなく亡くなってしまっても、「鶴石を知ったことを悪いといった気は少しもなかった」とりよに言わせて憚らない。敗戦後の「下町」の短篇に比較を絶する熱量をもった長篇の「浮雲」が「敗戦小説」の傑作である所以は、戦争の総体を男女の恋愛という「対幻想」(吉本隆明)で描ききった作家の圧倒的な力量にある。短命に終ったとはいえ、林芙美子は、大岡昇平同様に「戦後を敗者として生きた」一人の作家であり、「ねじれ」を最後までもちこたえた女性にちがいない。加藤の「敗戦後論」の軸となる倫理の基底を食い破りかねない熱量が、この作品に生彩あるエロスの輝きを放ってその魅力ある文学的な地歩を獲得している。「浮雲」の登場人物である二人の男女の関係には、加藤の「敗戦後論」のモチーフを喚起する格好の舞台であり、加藤の戦後批評の考察対象として、立派な補助線となり得るものがあった。そこから、上記のような想像が誘発されてくるのだ。
 そしてここから、加藤がなぜ最晩年に太宰治が「底板」を踏み破り、最後の自死にいたる一押しとなった戦前の作品「姥捨」に注目するその理由が、「浮雲」のゆき子と富岡両人の背後からせり上がってきたはずであろう。
 さらにまた、前述の仮説から、姜尚中との対談(「敗戦後論」とアイデンテティー1996年)における加藤の発言に注目をむけざるえなくなるのだ。
「日本の戦後にはあるねじれのような構造がある。それを本当に解決したならば、『一人の死者を弔うことによって三百万の死者の枠をくぐり、二千万の死者に直接届く』、そういうあり方を編みだすことができるかもしれない」(下線-引用者)
 これは「敗戦後論」発表の渦中にあった加藤が対談のさなかに洩らした夢想の断片だが、後述する「完本『太宰と井伏ーふたつの戦後』に関わる大事なメッセージと思われる。なぜなら対談中に加藤の脳裡を擦過したこの夢想は、病床にあった加藤に本格的によみがえり、熟考を促してその再説の力を奮い立たせるものとなるからだ。
 加藤は戦前・戦後の小林秀雄の批評から多くを学んでいる。敢えて戦後の批評の課題をさらに深掘りして考察しないではいられなかった。初期に書いた「新旧論」に顔をのぞかせていたものはまさにそれであった。加藤自身が「私の原論」と称した「日本人の自画像」が小林の「本居宣長」を読み破る体の真剣な情熱の持続に貫かれているのはそのためだ。さらには戦中派の江藤や吉本という二人の批評の意味をも吟味しなくてはおれない時代の要請がこれに続いた。デビュー作「アメリカの影」が尊敬をしていた江藤批判になったのはその故だ。特に、吉本の「共同幻想論」と「存在の倫理」(対談)思想から示唆され、そうした場所で展開された加藤の戦後批評の位置からすれば、完本「太宰と井伏ーふたつの戦後」に最後の一考察を加えないでいられない使命の自覚が、加藤を動かさないではいなかったのである。
 それが太宰が故郷から東京へ連れてきて、弊履のように捨てた一人の実在の女性である初代であった。このとき、加藤の関心はつぎのようにその立ち位置を変えているのだ。
「その足場を一言で言うと、生きている人間の場所、ということになるだろう。あるときから、生きている自分が、自殺することを選んだ太宰や、三島由紀夫にあんまり共感するのは変だよ、と思うようになった。そこから考えていると、どうも自分が苦しくなる」(単行本「言葉の降る日」あとがき 2016年9月)。
 この加藤のつぶやきには、近代文学に対する注目すべき変化の眼差しがあり、「もうすぐやってくる尊皇攘夷の思想のために」(2017年)の思考に先立つものだが、ここでは論を先に進ませてもらうことにする。
 加藤が最後に執った筆が、現実の戦争下に青島で孤独のうちに死んだ実在の女性を浮上させ、太宰にとっては過去の腐れ縁でしかなかった初代という女が、戦前における太宰の4回の自殺未遂以上に重い存在として、戦後の太宰その人にのしかかった倫理的な拘束となったこと、そのことを独自の直感で掴みえたとするならば、加藤典洋が展開した戦後批評における看過しえない業績としてこれを認めねばならないからである。
「日本の戦後にはあるねじれのような構造がある。それを本当に解決したならば、『一人の死者を弔うことによって三百万の死者の枠をくぐり、二千万の死者に直接届く』、そういうあり方を編みだすことができるかもしれない」という加藤の夢想の一瞬は、太宰治の実存の底からじわじわと戦後の太宰に浸透し、これを包み込んだとみえたのだ。
「この小山初代の蘇りは、「純白」の心からする(戦争の死者たちへの)後ろめたさを凌駕しただけではない。『姥捨』の、人間は『生きていさえすればよいのだ』という実存の底板をも、踏み抜いている」(文庫本「太宰と井伏」再説 2019年3月)。
 これは太宰治という作家のこれまでのステレオタイプの見方を転換させるほどの重要な指摘ではあるまいか。
 ここに、加藤典洋という人間が戦後の太宰治の自殺に掴んだ、「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」との宣明、その「世界」からの新たなメッセージ、「生きている人間の場所」というこれまでと違った角度から、「戦後の未来」へ向けての真率な提言が為された由縁のものなのである。





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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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