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加藤典洋 5  ー三島由紀夫歿後50年ー

 作家の大岡昇平は、死後、自分は中原中也の紹介者として名前を残すだけであろうと言ったことがある。その詩人の中原に後に批評家となった加藤典洋が、二十代のほぼ全期間に没入していたことに注目しないわけにはいかない。青年期の加藤をそれほどまでに熱中させた中原中也という詩人とは、加藤(以後「彼」)にとっていったいどのような存在なのであろう。この問いに対応する彼のことばが発表されていないーその可能性も少ないー現段階で、詳しく知ることは難しい。
 彼が記した二つの「年譜」から推測されることは下記のようなことである。
「一九七七年(昭和52年)29歳 10月長男良誕生。中原中也について書き続けている間生れた子どもの誕生日がそれぞれ中原の亡児文也の死亡の日(11月10日)、誕生の日(10月18日)と重なったことに因縁を感じる」
 加藤は完本「太宰と井伏―ふたつの戦後」文庫(2019年3月)の自作の「年譜」にこう書きつけていた。もう一つはそれ以前の「日本風景論」(2000年1月)の「年譜」に以下の複数の記述をみるだけである。
 1970年(昭和45年)22歳 ただ一人読める日本の書き手として中原中也の詩と散文を読みつぐ。
 1972年(昭和47年)24歳 はじめて妻と中原中也の生れた山口県湯田を訪れる。
 1975年(昭和51年)27歳 中原中也論の執筆に没頭。12月「変蝕」第6号に「中原中也の場所について」を発表。中原中也論の 執筆を継続。
 1977年(昭和52年)29歳 完本「太宰と井伏―ふたつの戦後」文庫(2019年3月)同文。

 これらから、「生れた子どもの誕生日が中原の亡児文也の死亡の日、誕生の日と重なったこと」に感じた「因縁」と記す彼のうちに、中原中也がどのような心的な刻印を残したのだろう。
 「小林秀雄」で群像新人賞をうけた秋山駿には、「知れざる炎―評伝中原中也」(1977年10月)がある。これは私の独断による推測であるが、彼は秋山のこの評伝を読んでいたに違いない。これ以後、彼の「年譜」から中原中也の名前がぷつりと消えるのでそれはわかる。それだけではない。秋山の「評伝中原中也」に共振する自分を感じたはずであろう。この私の推測は「空無化するラディカリズム」(1991年 加藤典洋の発言1)における、秋山駿との対談と「話しの場」と題された「あとがき」を読めば、自ずから証明されることだろう。
「秋山駿氏はわたしの若い頃からの敬愛してやまない批評家で、昔文藝評論などとうものをまったくと言っていいほどに読まなかったわたしがそれに手を染めることになったのは、秋山氏の書いたものを読んだことが大きく影響している。(中略)わたしは小林よりは中原中也にひかれる人間だった。そういうわたしが批評を書くには、秋山氏のような人がいることが、必要だったのである。」

 「『アメリカ』の影」には、庄野潤三の「夕べの雲」を読解するところに、彼のこんな文章に出合う。
「自分が何者であるかを知るのに、大浦は『天』を必要としない。彼は全く異なった仕方で自分が誰かを知る。彼の前には『子供』達がおり、それを彼をー孤独も糞もないー『父』にしているのである。」
 この度の再読で、この文章に私の目が止まったのは言うまでもなく、先の「年譜」を思いだしたからである。彼が息子(良)を事故で失ったのは、2013年(65歳)のときであり、同年2月に三鷹で「太宰治、底板にふれるー『姥捨』をめぐって」の講演をしている。翌年7月、父加藤光男、死亡。またその翌年(2015年)鶴見俊輔氏が死去。同月、「毎日新聞」に「『空気投げ』のような教えー鶴見俊輔さんを悼む」を寄稿(筆者注:「空気投げ」とは合気道の対手の軸をくずす典型的な一技)。9月に「すばる」に「死が死として集まる場所」を発表。同月6日、義母が死去等・・・。
 人間が齢70の前後になれば、近親縁者の訃報に接する機会が増えることを、当然の世のならいであることは誰でも知っている。だが、そうした人生の経験とそのことを文学にすることでは、どうにも分明のしようもない間隙がある。たとえば、死すべき定めをもった人間をトルストイのごとく「イワンイリッチの死」のような小説として表現すること、または、人間の老いゆく様を日々感じていることと、それをチェーホフのごとく「退屈な話し」のような小説のかたちにすること、そこには千里の径庭があるだろう。
 彼も息子の死の体験から、以下のような文学的な変容を遂げていくには、それなりに過ぎた時間、過去の偶然の出会い、その準備の期間が当然に必要だったのである。
 一口で言って彼は解りづらい思想家である。彼の直感は素晴らしく、真摯で誠実な思考を文章に綴る人である。であるが故にと言おうか、彼は暗中模索をする。その思考の歩き方は特異であって、都会的なスマートさを見せることには含羞をもったことだろう。天才的な思考力は瞠目すべきで、その一端を見せる一例として「死に臨んで彼が考えたことー三年後のソクラテス考」(「新潮」2016年-「言葉が降る日」所収)がある。素朴で依怙地なほどの信念において、彼は現代のソクラテスの一人なのかも知れない。
 秋山駿との対談は、互いに波長が合ったのか、読んでいて楽しさが伝わってくるものだ。ここで、後の彼の後期の思考に明らかに明示される注目すべき科白があるので、それを記しておこう。
―「アメリカの影」を書いたでしょう。そのとき民主主義を書いたでしょう。ほんと思い出したんですよ。何で俺、民主主義なんてこと、あの本で言ったのか。自分の中のラディカリズムを殺すためだったんだと。
―否定性を浮かべていた水がもうなくなって、豆腐が焦げ始めたという感じですね。(こういう比喩に加藤の独特な感性がある)

 先に触れた「太宰と井伏」の単行本のあとがき「生きている人間の場所」から、彼がまさに秋山駿との対談において、「ある結晶作用が起こり、わたしが、なるほどとある合点をして、『空無化するラディカリズム』についてとうとうとしゃべっているからである。(中略)この命題は、その後、『回収されない否定性』の否定という形で、日本のポスト・モダン期の後期にあたる時期、わたしの主要な関心対象となる。わたしは秋山氏にさまざまな意味で多くのものを負っている。」

 ふり返れば、2019年は「『アメリカ』の影」から45年ほどの歳月を経ている。「敗戦後論」からは25年である。この時点に立って彼はつぎのように述べる。
「前の著作『敗戦後論』での立場に比べると、だらけた、世間的な考えに近づいている。(中略)自分もいつかは死ぬ、と思ったら、この生きている世界がいとおしく思われるようになった。筆者はだらしない人間として、この本を書いた。しかし、だらしない人間にも存在理由はある。近代文学というものが、いつまでもしっかりとした若者の文学というのでは、悲しいではないか。」
 という彼自身が言う少し変わった角度から、つぎの位置への彼の姿勢の変化について、看過することはできない彼の認識をみるので、ここで再び確認しておくとしよう。

「27歳の人間の回心を描いた『姥捨』を、筆者は、夏目漱石の『私の個人主義』の脇に置いてみたいくらいに高く評価するが、なぜ、そこまで行けた小説家が、戦後、再び追いつめられなければならなかったのか。そのあたりに、ひとごとではない、いまに続く戦後の秘密が、隠されているように思う。」下線-引用者
 このとき、「『アメリカ』の影」で「夕べの雲」を読解していた時にいた長男は他界してすでに無く、「父」であった片腕を彼はもぎ取られている。彼は文字通り江藤のいう「寄る辺ない個人」となっている他はなかった。
 そして、彼が亡くなった2019年の3月の「文芸文庫本あとがき」の「著者から読者へ」では、つぎの一文が記されるのである。
「2013年1月14日私は35歳の息子を不慮の事故で失っている。それから一ヶ月足らずで講演を行うのは、どう考えても無理だと思ったが、2月6日に行われたこの三鷹市主宰の太宰をめぐる講演を、当時、断るすべがなかった。その結果として、大げさに言えば死ぬ思いで、苦しいなか、もう一度、太宰と向き合い、数日間準備することを余儀なくされた。そこから生れたのがこの講演だったのである。
 さて、私はいま、都内のある病院に入院中であって、自分の病室でこのあとがきを書いている。」

 この「あとがき」に続いて、彼による指名で面識もない與那覇潤という若い人の解説文が載っている。「ねじれとの和解の先へー敗戦後論・後の加藤典洋」というタイトルがついている。
 私はこの彼が面識もない若い人に依頼した解説文の最後に、「情熱=受苦」という漢字の四文字をみたとき、彼がさらに先に進もうとした道にほんのりと見えた風景のなかに、彼は狂うことのない明察で、自分が初期に書いた「新旧論」のバトンを、次の世代へ渡そうとする手が伸ばされているのをみた気がした。そこにはまぎれもなく、三島由紀夫の「太陽と鉄」からの題辞の一行が目にされ、その内容には新世代らしい斬新な洞察と認識が認められた。「日本人の自画像」を特に評価している慧眼には期待が持てる若者だろう。彼は一時息子を亡くして失意に沈んだが、ここに新しい時代の思考がはじまる未来の胎動が窺われる。そんな気配を看取した。

 3月31日の朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」に「現代文明 かくも脆弱」という佐伯啓思という人の「異論のススメ」が掲載されている。この時点で世界の惨たる事態を、いちばんまとまった一文として整理してあると、感心して読んだものだ。それを部分的に書き写させていただこう。
「ここで論じてみたいのは、現代社会もしくは現代文明に対して、このウイルスがもっている意味である。今日の事態を少し突き放してみた場合、このコロナウイルス騒動は、見事に現代文明の脆弱さをあらわにしてしまったように見える。
 現代文明は、次の三つの柱をもっている。第一にグローバル資本主義、第二にデモクラシーの政治制度、第三に情報技術の展開である。それらは、人々の幸福を増進し、人類の未来を約束するとみなされてきた。だが、今回のコロナウイルス騒動は、この楽観的な将来像に冷水を浴びせかけた。(中略)
 ところでパンデミックとは、ギリシャ語の「パン(あまねく)」と「デモス(大衆、人々)」の合成語である。パンデミックとは、あまねく人々の上に関わってくる、というわけで、これは「デモス」による政治であるデモクラシーをも揺るがしている。」
 「騒動」という表現が使われているが、カミユの作ったかしたコントに、ホテルのバスタブで釣糸を垂れている人がいて、通りがかりの客がそれを指摘すると、「分っているよ」と答えが返るものがあった。不条理のシチュエーションとは、カフカの小説のように、笑いから「声」が消失した世界に似ている。都会はじつに静かになった。と、そう思われる。
 さて、今年2020年は、三島由紀夫歿後50年であった。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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