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加藤典洋 6  ー三島由紀夫と中原中也の影ー

 中堅の文芸批評家が、その3年後に自刃をする作家の三島由紀夫氏へインターヴューをしたことがあった。その文芸批評家とはもちろん加藤典洋ではない。彼はまだ文学部学生で、その後文芸批評家となり私淑していく故人の秋山駿であった。
 某日某酒場。私はその秋山駿氏(当時「信長」がベストセラーになっていた)に、三島由紀夫氏との対談で三島氏を憤慨させたインターヴューの様子を窺いたいとおもった。だが場所がら、それができる雰囲気ではなかった。やむなく、「対談・私の文学」インタビュアー秋山駿とカバーにみえる講談社版(昭和44年10月発行)の本を参考に以下を記す。

秋山 ぼくは、三島さんの世界に、意識して近づかないようにしていたことがあります。というのはそのなかには、何か特別なもの、異常なもの、豹のように能力をもったものがあって、それが、人間の力は普通の行為を一歩一歩積み重ねることだという、自分の考えを混乱させるのです。ぼくは普通の人間です。そして三島さんは特殊な人間のように見えるものですから・・・。

三島 「太陽と鉄」を読んでくださったそうで、大変うれしかった。僕はあれを読んでもらえばいいんですよ。

 対談の冒頭にある二人の会話である。紳士であり大人である。戦前のひとの独特なおちつきがみられる。憤慨の箇所などはどこにもなかった。語り合うに相応する二人がたがいに尊敬の念を失わずにそこにいた。 
 昭和45年3月に虫明亜呂無氏の編集になる「三島由紀夫文学論集」の巻頭に「太陽と鉄」が載っている。対談のほうは、三島氏が疲れたのか、「どうですか、ここいらで」というほどに長い対談であった。三島氏は秋山氏へ自分の文学の急所を、おやと思うほどの率直さで披瀝していた。
 「「英霊の声」は「自己革命」で自分は救われた・・・戦前のように危険な言説を吐いていたら責任をとらなければならない。あれを書いて自分にも責任がとれるような気がした・・・。その見極めがつかなければあんなものは書けない。・・・僕は自分の本質がなにかということを考えることはやめたのです。・・・等々」で、三島氏の日本近代文学批判は強烈で、これは戦後の日本文化への嫌悪へと噴出していくものであった。

 三島氏はいのちを賭けた「文」から対極にある「武」へ軸足を移そうとの決意は、どうやらこの時点でできていたように思われる。

 加藤典洋はこの「三島由紀夫文学論集」について、「いまはいない人たち」(2016年「言葉の降る日」所収)の中に、『生の本』の手触りー三島由紀夫『三島由紀夫文学論集Ⅲ』」というタイトルで縷々言及している。その解説文の長い前置きに、自分と三島との時代への向き合い方から三島文学への感想の一文を添えている。
「なぜ、三島由紀夫にあるときからひかれるようになったのかよくわからない。以前は、そんなに好きではなかった。(中略)それがいつのまにか、だいぶ自分に大切な存在になっていた。きっと、この人の正直なところにひかれたのだろう。むかしはなんだか「チンケ」人だなあと思っていたのだが、ある頃から、自分の生きている戦後の日本という空間のほうこそ、「チンケ」だと思えるようになってきた。すると、このかつての「チンケ」な人がなんだかまともな人のように思えてきたのである。」
  加藤がいう「ある頃から」が特定できないが、たぶんそれはいわゆる「三島事件」以降からであるだろうと推測される。それは自作の「年譜」の簡単な記述「11月『現代の眼』の編集部の・・・・・氏から依頼を受け、評論を執筆中、三島由紀夫の自決にあう。この年、東大仏文の大学院の試験を受け落第」がみられる、たぶん「三島事件」は加藤の「落第」までその余波を及ぼす呈のものだったのだろう。坦々と書かれた年譜からの推測であるが、この「三島由紀夫の自決」は、加藤の内部にそれ以降、徐々に浸透して「戦後の日本という空間のほう」へ目をむけさせるようになったのに相違ないだろう。
 つづけて、10年前の「敗戦後論」に至る根拠を述べ、「自由と民主主義が欺瞞と詐術である」ことについての自分と三島の考え方の相違点を「英霊の声」と「憂国」における「戦争での死者たち」の目から解読している。また、70年の三島決起の行動の本質を「三島由紀夫文学論集」に収められた「古今集と新古今」の文章から解析し、三島文学への評価を変えたというところに、私の興味が惹かれた。
 そのポイントはつぎのところにある。
「先に述べてように私は長いこと三島のよい読者ではなかった。三島の小説は、余りに人工的で、薄っぺらい感じがしたからだ。しかし、いま私は、その薄っぺらい感じを、違ったふうに受けとっている。(中略)彼は、兵役をある偶然から免れたのだが、そのことを奇貨として、これをよろこび、そこから逃避した。しかし、このような彼の内心の傷、良心の呵責の根源についても、そこに卑小さがあることは認めるが、私はそれを決して否定しょうとは思わない。
 おかげで、戦争の死者たちが、自分たちとどういう関係に置かれているか、ほとんど死を賭して苦しむ人間(三島-引用者)が、戦後へもたらされた。卑小さと偉大さと、その両方が私たちには等価に大切なのである。」

 奥歯にものが挟まったような、この一見冷静な加藤の三島への評価(?)は、「古今集と新古今」の下記の三島の文章を逆手にとって、70年の決起の行動の背景にある理屈を整理しようとしている。
「それなら、行動と言葉とは、ついに同じことだったのではないか。力をつくして天地が動かせなかったのなら、天地を動かすという比喩的な表現の究極的形式としては、『力をも入れずして天地を動かし』という詩の宣言のほうが、むしろその源泉をなしているのではないか。
 このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化した。それはもっとも清純な詩ではあるが、行動ではなく言葉になったのだ。」
 この三島のあとに、加藤はつづけてこう述べている。
「ひとあたり読むと、わかったようなわからないようなはぐらかされた気分になる。しかし、よく考えればここで三島は、「力を入れても天地は動かない」のであれば、「力を入れるが天地を動かそうとは思わない」、つまり「天地を動かす」目的を凍結したまま、「力を入れる」、そういう行為が、いまや詩として成立する、というか、そういう世界では、詩は、このような形でしか、生きのびない、と自分は喝破したのだ、といっているのである。(中略)死力をつくす、しかし、結果はゼロでも一向にかまわない、それがこの敗戦後の日本という逆さまになった世界では、唯一可能な詩の理念の形なのだと、自分は思うようになったと、この「古今集と新古今」の論のなかで、三島は言っている。
 彼は、一九七○年十一月二五日に、自分の行動で何ほどかの変化が日本の社会に起こるとはとは思っていなかったろうし、そういうものを起こそうとすら、思ってはいなかっただろう。それではなぜそんな馬鹿げたことをするのか。変な言い方をさせてもらえば、戦後というこの世界が逆さまだから、こうなる。三島はそういうのである。」

 じつに「変な言い方」が気になる文章である。どこかにおかしなところがある。内部にある屈折を加藤は、三島の言葉を捩った理屈で抑え込もうとしているかにみえる。加藤が当時読み耽っていた中原中也は詩人であり、彼が書いた詩は三島のいう「詩」とは真逆なものであることは加藤には自明であったはずである。ならばどうして、三島の「詩の理念」に拮抗しうる中原中也の詩を対峙させようとしなかったのであろうか。戦後が「チンケ」であることを三島の命がけの行動から示唆されたのだろうが、加藤は自分の思考の礎石となり軸足ともなった中原中也の「詩と散文」を、三島の「詩の理念」に抗して、擁護しようとはしていない。その代わりに、文庫本『三島由紀夫文学論集Ⅲ』の解説に、『生の本』の手触りとしてつぎのような文章を書いている。
「この解説を書くため、三島の書いたもの、三島について書かれたものをいくつか、読んだ。数週間にまたがる期間だった。そのうち、一つの問いが私をとらえた。一九六九年、死の一年前という時期に、三島が、自分の文学論集を企画し、しかもその編集を、虫明亜呂無氏に依頼したのはなぜだったのか。その依頼者が、旧知の文芸評論家の奥野建男氏でも、友人の村松剛氏にでもなく、いわゆる純文学から遠い虫明氏だったのはなぜか、というのが疑問」を提示して、つぎのように推論している。
 加藤によれば、三島の死後、編集刊行された単行本がもう一冊あり、それが「蘭陵王 三島由紀夫1967.1~1970.11」と題された瀟洒な単行本であった。加藤は三冊の文庫のもとになったこの本の二冊を書架に並べて読んでいるうちに、三島が自分の死後、この後者の「蘭陵王」のような、死から逆照射して編まれる一冊が作られるだろうことを、予期していたのではないかという気がしたという。それが「純文学」の徒とは対極にある「生の批評家」としての虫明亜呂無氏への依頼となった三島の意図によるというのである。ここから、加藤は、文庫本『三島由紀夫文学論集Ⅲ』の解説に仮託して、『生の本』を遺そうとした三島を敢えて見ようとしている。三島の文学と自決死は、吉本隆明の追悼文に表明されているように、戦後を生きる文化的なもの一切に、その生死のリトマス試験紙を差し出していた。
 鋭敏な批評家の加藤典洋が、いわばその三島に戦術的な対応を強いられていた。その一面だけをみての即断は「チンケ」でしかないであろう。加藤が大いに影響をうけた吉本隆明は「追悼私記」で三島について書いている。「重く暗いしこり」(45・11・25ー46・1・13)。加藤はこれを読んでいるだろう。
 「三島の死は文学的な死でも精神病理学的な死でもなく、政治行為的な死だが、その<死>の意味はけっきょく文学的な業績の本格さによってしか、まともには測れないものとなるにちがいない」。

 加藤は、三島と同じ在り方を、一般的にはあまり馴染がない、ドイツの美術家アンゼルム・キーファーに見いだしているのだが、どうにも衒学くさくて分かりづらいのである。加藤が解説を書いている文庫本「生の本」のように、もっと、「都会的で、明晰で、平明で、おだやかな午前の光めいた精神」のなかに、「逆さまな戦後」のその逆さま加減を、これがそうだと見せてもらいたいと、思わず言いたくなるところである。つまるところ、加藤のわかりにくさの因ってきたる由縁は、中原中也をしかるべく自分の批評の空間に、導入してこないことからやってくるのではないか。裏からいえば、二十代のほぼ全期間を中原中也に入れあげていた加藤が、それをしない理由において明解さに欠けるといわざるえないのだ。
 
 秋山駿の三島へのスタンスはしっかりとしている。秋山と加藤がイコールというわけにはいかないだろう。中原中也は小林秀雄の対局にあり、三島もまた同質なものであったはずである。これは秋山氏とイコールのところだろう。だが、ある頃から、そうではなくなったと加藤は言っているのだ。そしてまた、太宰の最後の自殺の再考を促した動機にまでも、「中原中也の影」はのびていると推測されるのだが、加藤の批評からその部分がスッポリと抜けていることが腑に落ちてこない。さらに、「戦争の死者たち」は三島を通じて加藤へ入ってきた重要な認識であるのに、三島への姿勢にどこか木で鼻を括った感じを拭えない。いったい何故なのであろうか。どこかに不自然な「強ばり」のようなものが感じられてならない。
 
 加藤の「敗戦後論」についていずれまたむかいあわねば済まないであろう。95年、この論の読後の私のうけた衝撃は複雑なものであった。諾と否が交互にやってきた。思わず「戦後私論ー谷崎潤一郎」を書き始めたのはそうした事情からだ。私の左右の手に、吉本と三島が、その間に江藤等の諸々の人物が座っていた。私は誰からも自由な場所にいることを強いられていたのである。「私とは最大の虚構である」(「ヴァレリー素描」ー花の賦)は、そうした私に中天から吊されきた苦渋の遁辞(命題)であった。
 どうやら、冒頭の秋山と三島の対談に戻り、この対談に散見される大事な要をどこまで噛みしめることができるのか。恐らく加藤典洋も一人の文芸批評家として、自分へそのように問うたのにちがい。「敗戦後論」へいたる歩行はそこから開始されたのである。




秋山駿・対談 (2) 三島由紀夫文学論集



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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