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加藤典洋 Ⅶ -「批評へ」-

 「『終焉』すべき『人間』はあるかー『乱反射』匿名子に反論する」
日本読書新聞(1981.12)に載せた一文を、加藤は「批評へ」(「新旧論」)の本巻末に「こころ覚えのために」と掲載して、こんなことばを連ねている。
「1932年(昭和7)、二人の小林によって書かれた『Xへの手紙』と『党生活者』は、それぞれ自己意識、社会意識以外の何をも信じまいとした奇妙といえば奇妙な衝迫の産物である点、相似形である。ここでは『人間』という器がコワれている。ここには、モラルというものの場所がないのである。」
 加藤がこの「モラル」という言葉に何を託そうとしていたかを問うまい。それより、ここに「文学と政治」という古くて新しい問題の基本のスタンスが、顔をだしていることに注意しておこう。それより、小林秀雄の「自己意識」と小林多喜二の「社会意識」の両極を「相似形」と見る、モラルという背骨をもった「人間」を立てようとしていることを銘記しておきたい。
 さらに、この新聞記事の前段と結論に彼はつぎのように記している。
「『私』の社会化を主張したという通説を疑わずに、小林の『社会化した私』に『近代の文学主義』『人間中心主義』をみたうえで、これを『思考の停止』として否定した中上健次の説を、ぼくがどうもおかしいと書いたのも、また、『乱反射』子の忠告に、それと同じ感想をもつのも、小林はぼくの考えでは、少なくとも昭和初年代に『私』の無化などという地点までは、充分に届いていたと考えるからである。問題はその先にある。(中略)なぜ小林は、その無化した『私』でもって『戦争』にぶつかり、そのまま戦争を通過できなかったのだろうか。ぼくは、あのエッセイでそういうことを考えてみた。(中略)『乱反射』子は、もう少し、志を高くし、世界を広く、歴史を深く見るべきである。もしその『私』が、まだあるならの話だが。」
 加藤の批評の全体像をレリーフして、その思考の動態を再考するため、この一文はただの「こころ覚え」のためだけではなく、加藤が述べた先のフレーズとともに、ここに幾度も反芻してみる価値は十分にあるのではないかと思われる。
「小林はぼくの考えでは、少なくとも昭和初年代に『私』の無化などという地点までは、充分に届いていたと考えるからである。問題はその先にある。(中略)なぜ小林は、その無化した『私』でもって『戦争』にぶつかり、そのまま戦争を通過できなかったのだろうか。あのエッセイでそういうことを考えてみた。」

 加藤がいう「エッセイ」は、1981年初出の「新旧論―三つの新しさと古さの共存」(「早稲田文学」寄稿)のことで、そこで小林秀雄、梶井基次郎、中原中也の三人を取り上た文章のことである。
 加藤による初期のこの長い「新旧論」の詳細を紹介することはできないが、加藤が独自の考察から掴んだ要点を取りだして、その概要をここで掴みだしておかなければならないだろう。だが、加藤自身が「あとがき」で書いているように、「はじめてのやや本格的な文芸評論」となるこの「エッセイ」の中心が、小林の「私小説論」のこれまでの通説や誤読を匡そうとする野心的な意図から、率直にいって非常に解りづらいものとなっている。

「富永の一冊の詩集と、梶井の小説と、小林の「Xへの手紙」とのうちに、ぼく達は、日本近代文学の可能性の原点を見ることができる。しかし、その可能性をぼく達に引証可能なものとするために、ぼく達は、ぼく達のいまいる場所と、彼らの場所のディスタンスというものを、もういちど歩いてみなければならない。富永、梶井は、その可能性にみちた詩と小説とを残して、夭折する。ところで彼らは、時代の中に、社会の中に生きるという人間一般の問題にぶつかろうとして、文学の可能性と「社会」が衝突した時にどんな悲鳴が聞かれるか、という意味深いシインを実現しないまま、その直前に生の舞台から、退くのである。
 彼らの「新しさ」が、どのような根拠と、強さと、意義とをもったものだったか。この思想的な問いは、一人残された小林に、負託される。小林は、彼らの「新しさ」を受けて、それが「社会」、「人生」のなかでなにものであるかを、一人、ためされるのである。
 (中略)小林が、富永、梶井よりも思想的にすぐれている所以は、文学上の「新しさ」が、社会の中に生き、それに関与し、それから関与されるなかで、どこまで通用するかを身をもって示した点にある。これがこの問題に関するぼくの、基本認識である。」

 小林の著作を持ちながら、何ひとつ小林から学んでいない気鋭の批評家たちのナイーブさが自分を立ち止まらせるとして、加藤が引証するのが小林の「故郷を失った文学」(1933年)のつぎの数節である。
「私達が故郷を失った文学を抱いた、青春を失った青年達である事に間違いはないが、又私達はかういふ代償を払って、今日やつと西洋の伝統的性格を歪曲することなく理解しはじめたのだ。西洋文学は私達の手によってはじめて正当に忠実に輸入されはじめたのだ、と言えると思う。」

 小林のいう「私達」の自負の念は、梶井基次郎の発見なくしてあり得なかった。そして、ここに加藤は中原中也は入らないという。気鋭の批評家が、富永、梶井、中原の三人に、「日本の近代文学の現代文学化」(秋山駿)をみることはできないとする加藤の見方の根本にあるのは、「小林が夭折しないで生き残ることで、その『現代性』にどのような思想的課題を賦与することになったかを、見落としている」ことであった。
 加藤はその課題を「私小説論」(1935年)、「思想と実生活論争」(1936年)、「ドストエフスキイの生活」(1935年~1937年)を経て、「戦争について」(1937年11月)にいたる小林の思想経験のうちにみる。

 前述したように、この最初の加藤の「私小説論」の考察は「社会化した私」めぐるものだが、芥川の「自意識」と小林の「自意識」、芥川の「蜜柑」と梶井の「檸檬」の根本における相違点が剔出され、ジイド、プルースト、フロベール、ルソー等のフランス文学の耕地を分け入り、19世紀のベルグソンやヴァレリーまでも踏査して、「社会化しえない私」を加藤は取りだしている。これこそ小林が「人間性の再建」と「人間の内面の自由」の根拠」とするものであるが、ここに小林の主張の最も見えにくい部分があるのだ、と。中村光夫はこの小林の「社会化」のイメージの二重性を見落としている、とそういうのである。
 たしかに、加藤が小林の「私小説論」から、秋山達がみた「近代文学の現代化」の証しとみた「新しさ」の根拠である「社会化しえない私」は、「戦争について」に至ってはその面影をなくしているとの指摘は、そのまま加藤は自分たちに跳ね返ってくることを承知している。ならばその原因はどこにあったのかと問うて、それは彼らの「新しさ」が、彼らの「古さ」との接点をその身内にもたなかった。「新しさ」と「古さ」の共存の意味を、一つの思想経験、文学経験に鍛え上げることを、怠ったのではないかというのである。
 この初発のエッセイから、加藤典洋が辿った生の行程には、自身に誓った努力の跡が、船が曳いた水脈にように見えてくるのである。





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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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