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「死の勝利」ペーター・ブリューゲル

 巣ごもりから、テレビをみることが多い。「ゴッドファーザー」は何度、繰り返してみた映画だろう。シチリアからアメリカに移住し、裏社会の権力を束ねていくマフィアの家族を内側から近距離で描くことで、その盛衰の運命をみつめさせ、一家族の愛憎の諸相とアメリカ社会の裏面を映像にする手際は堂に入っている。ファミリーの保護と手段を選ばずその敵を抹殺する悪の所業に慄然としながら、この長い映画が観客を魅了するのは、いったい何処からやってくるのであろう。背後に流れる甘味であり暗く悲しい音楽。しだいに光りを絞られていく映像。終幕を告げる惨劇はパレルモのマッシモ劇場。ピエトロ・マスカーニのカバレリアルスチカーナの一幕物オペラが上演中のことである。舞台は昔の男とよりを戻した妻の浮気を知った夫が男とナイフで決闘をしている最中である。マスカーニの間奏曲の美しい旋律につれ、ゴッドファーザーの報復の銃弾が闇に炸裂する。マフィアの長い物語はここに至り、無法者達の末路に映像と舞台劇と音楽を見事に結婚させる三重の効果を一挙に実現させるのだ。かくして、総合芸術としての映画を華麗で荘重な終幕の緞帳で飾ることを忘れない。才能あふれるフランシス・フォード・コッポラ監督の映画の勝利ではないか。
 テレビの高校生講座で「ローマ帝国」を学んでみた。フランス旅行の途次にみた「ポン・デュガール」の建造物がローマのアグリッパという石膏像で知られた建築家によるもので、ローマの全盛が日本では弥生式文化時代だと知って、西洋と日本の歴史の懸隔に驚かされた。イタリアの旅行でポンペイの古代都市をみて、ナポリからシチリアへ訪ねたことがあったが、映画のマフィア達が暮らしていた町はもう存在しないとのこと。お隣の中国の歴史へ目を向ければ、始皇帝が中国を統一したのが、ソクラテスの死から200年後のことであった。司馬遷が中国の戦国時代を「史記」にまとめたのがBCの97年。こうした時間軸での歴史から、武田泰淳が「史記の世界」で掴んだ歴史は、世界を動かす人間を作用と反作用の持続の相の下、恒に人間の関係の全体を、世界の中心、その構造的な空間における、政治的人間として掴み出すことであった。
 テレビの録画は色々のジャンルを撮ってある。口直しにと、日本の池波正太郎原作の時代劇「雲霧仁左衛門」を観て、ホッと安堵の吐息を洩らす。ここでは、人間を追い詰めていく西洋的な論理が微塵もない、義理と人情のドラマがある。中国の時代劇も面白い。エントロの音楽と歌、その歌詞の語彙が漢字が全盛を極めた国ならではと、唸ってしまうほどに豊富に妖艶なのである。
 水泳選手の池江璃花子がプールに戻ってきた。パリの五輪をめざすとのこと。その初々しい若さがどん底をみて回復をしたのだ。その美しい姿に感嘆する。毎週土曜に放映される「イタリアの小さな村の物語」は、開始早々のやるせない歌の魅力もさることながら、素朴な村人のあたかも中世を思わせる古い小さな村、そこで営々とした暮らしぶりを眺めているだけで、じんわりと心を落ち着かせてくれる不思議な映像なのである。そして、日曜の全国のど自慢大会。地方の人びとの歌声から、この日本の連綿とつづく、変わりようのない哀楽の生活が忍ばれてくるのである。
 病院へ行かれない日々がつづいている。それで薬だけを貰いにいくのだが、その途中にハナミズキの花が、ひそやかにだが燦爛と咲いていた。季節は春、花々はなんという可憐な容姿を見せてくれるのであろうか。
 だがうち続くこの男の巣ごもりは、当然、精神の健康によくはないらしい。ストレスが凶暴の因子を育てているのがわかる。
 ネットで買い込んだ柊の植木鉢から、かたい棘をもつ葉が一斉に落ちだしていた。剥がされていく言葉のように。
   柊の葉やかさなり落ちて爪となり
 拙い不穏な一句が、胸に浮び流れていくのは、その故であろうか。どこかの家の中からDVでの子どもの悲鳴が聞こえてきそうだ。
 14世紀のスペインを襲ったペストをネーデルランドの画家、ペーター・ブリューゲルがテンペラで描いた「死の勝利」と題した絵をプラド美術館へ行きながら、どうしたわけか見逃したらしい。壮大なる地獄絵である。凄惨の極みである。「メメント・モリ(死を忘れるな)」と当時の人々の心に刻まれた恐ろしい情景を、ペーター・ブリューゲルの筆致は残酷かつ冷徹に描いている。これに比べて現代のコロナはやさしそうだ。奇妙に、だが穏当ならざる「平和」が、見えない塵のようにあたりを漂っている。これが21世紀の曲者の正体なのだ。コロナがしている透明なマスクがいつこの地球の口を塞ぎ、その凶暴な爪を露わにする日が来ないとも限らない。すでにわたし達はこの小さな天体を数え切れないほどに幾度も破壊する兵器をポケットに持っていながら、認知症のボケ老人よろしく、それに気づかないふりをするのにすっかり馴れてしまっただけなのだ。プラハで演説をしてノーベル平和賞を貰った人と、その後に続いた赤ネクタイと、どこに違いがあるというのだろうか。やさしい歌声と白い歯の微笑に剥かされてはならない。口を蔽い語ることのない大きなマスクこそ「死の勝利」の地獄絵が描かれる、夢想だにできない清潔な画布であることを、忘れてはならないのである。
 浴槽で開いた越後の漂白の俳人、井月の句集から一句をしたためておきたい。

  翌日(あす)しらぬ身の楽しみや花に酒



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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