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加藤典洋 10 ―中原中也(2)―

 2004年に発刊した「語りの背景」の「意中の人びと」9人の中で、加藤はこの中原中也と三島由紀夫の二人を論じている。ひとつが「一本の蝋燭―中原中也」であり、ふたつめが「その世界普遍性―三島由紀夫」である。
 「一本の蝋燭―中原中也」はたった単行本4頁の短文である。これに引き替え、「新旧論」の「中原中也―言葉にならないもの」は47頁と12倍の量、そこに「『うた』の古さ」「モノの否定」「『下手』のさへ」と三項目からなる考察が行われていた。最初の「新旧論」から23年後の加藤の中原中也は、単行本「語りの背景」では「意中の人びと」の一人となり、「その世界普遍性―三島由紀夫」他の論考と同様に、各人4頁づつと凝縮されたわけである。逆に言い換えれば、23年を経てもなお、加藤のなかに残り充分な根を下ろして存在してきたと考えるほうが妥当であろう。冒頭の八行を引用する。
「中原は、大学の四年目の頃、突然わたしの中に入ってきた。きっかけは、はじめて見た一篇の詩の、さらにその中の一部分、言葉のリズム、口調、そんなものの向こうにほの見える表情だった。そして、その後、二年間の大学生活の間、彼の言葉は、わたしのほぼ唯一の世界との窓口となり、そこを通じて、かろうじて、食べ物が外から、差し入れられるという状態が生れた。その状態は、少しの拡散と収縮を繰り返しながら、わたしが出版社の就職試験に落ち、大学院の試験に落ち、かろうじて入ることのできた国会図書館の雑誌貸し出しの係に職を得る中、それだけが生きる支えといった感じで、睡眠時間を削って書いたかなり多い量の原稿がひょんな偶然からなくなる三十歳の時まで、八年間ほど、続いた。」

 加藤はこの時、すでに五十六歳。その彼が二十五年まえの過去の一事を回想した文章である。「それだけが生きる支え」とは大袈裟ではないかと思われるかも知れないが、赤裸々で切実な口吻がここにこもっていることは確かに感じられる。
 小林秀雄のランボー論はⅠ、Ⅱ、Ⅲとそれぞれ時を経て書かれているが、最後のエッセイに至って、平明で落ち着いた文章となっている。同様に、23年前の「新旧論」の中原中也への三つの視点から、熱意あふれた詳細にして長い論考と比べると、中也の核心だけが一本の蝋燭のように、すっくりと加藤の中で収まり立っている。それがこんな言葉でここに置かれているのだ。
「わたしは、たしかその頃、なぜイエスをはじめ、多くの宗教者が、四十日間も砂漠で断食を続け、試練にさらされた後、「悟り」を開いてしまうのか、自分にはそれが不満だ、というような意味のことを書いたのをおぼえている。もし、ここに四十日間、いや、四百日間、砂漠で断食を続け、試練にさらされ、不毛な努力を続けた上で、何の悟りも得ないで、帰ってきて、それまでと同じ生活をする人がいたら、そのような人のうちにはもっと深い宗教性があるのではないか、というよりその時もうそれは宗教性というものですらなくなっているのではないか。そんなことを、漠然と、考えていた。」

 こうした言葉の後にカフカの「変身」等の文学がぼんやりと浮びあがるが、いまはそれについては触れまい。加藤はどこからみても不毛としか思われない生活の中に、「言葉にならないもの」があり、その「言葉にならないもの」の前に、それをめぐる不毛な努力がありうること、だがその不毛な努力のうちに、詩作の努力の核心があることを、中原中也の散文と詩の言葉から啓示されたことを、吉本隆明の「言語にとって美とは何か」の文庫解説に書いたと述べている。
 前段の「宗教性」の文章と呼応して、加藤の思考の中心にこれらの言葉が落ち着いてきているのは、56歳という年齢の故からもあろうが、加藤自身が中原中也の読書体験を思想として肉化しようと払ってきた、23年という不毛な努力の結果であったのにちがいないのである。
 同文にやはり、25年まえの回想がみえる。就職したての国会図書館でのことだ。
「雨が降っていた。わたしの職場の机から国会議事堂の北の壁面が見えたが、そこには雨が降ると、少し黒ずんで雨の痕が同じ形で窓の下につくのだった。自分の生が、無意味な、反復だけの労働で何年も何年も消え、すり減っていく。そしてそのことに何の意味もない。その思いを形にすると、それがいまの自分の目の前にある景色になるとわたしは思った。そういう時期、つまり、大学を終え、就職し、結婚し、子供が生れるといった時期、わたしに読めるものといっては、中也のこうした日記、書簡の言葉、詩、散文くらいしか、なかったのである。」
 さてここで、加藤の中原中也からいったん離れてみることにしたい。

 たとえば戦後まじか(1949.8)に大岡昇平が書いた「中原中也伝―揺濫」(文芸読本「中原中也」1976年所収)に目を戻してみたいのだ。なんといっても小林秀雄と大岡昇平等は、詩人の中原中也に、言葉だけではなく、その肉体に直接触れた人物達であるからである。
 大岡昇平の先の「中原中也伝」は文芸読本「中原中也」の冒頭に掲載されている。こんな文章で始まっている。
「昭和22年1月の或る朝、私は山口線湯田の駅に降りた。小群で満員の山陽線を捨て、支線の列車が緩やかにふし野川の小さな谷に入っていくにつれ、私は名状しがたい歓喜を覚えた。それは不眠に疲れた私の眼に、窓外の朝の光の中を移る美しい谷間の景色の与える効果であったか、それとも亡友中原中也の故郷の家を見るのが、あと一時間に迫ったという興奮であったか、私にはわからなかった。」
 読み出したとたんに私にやってきた感銘は、規矩正しいその堅実な文章からきたものであった。そのしっかりとした杖を手に歩くことができるという安心感であった。それは詩を謝絶した散文家の意識化された文章であった。ニーチェは「ひとが立派な散文を書くのは詩に直面したときだけだ!」と、どこかで書いていたことを思いだす。
 さらに大岡は書いていた。
「(中略)私も私で忙しいことがあるつもりであった。もっとも何のため忙しいか、中原が何のために自分が不幸であるかを知っていたほどには知らなかったのであるがーそして彼の死後十年経った今日、私に彼の不幸の詳細を知りたいという願いを起こさせ、私をこうして本州の西の涯まで駆るものが何であるか、それも私はよくは知らないのである。
 しかし私も四十をすぎて、自分を知らないことがあまり気にかからなくなった。例えば前線で死に直面しながら、私は絶えず呟いた。『未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや』。こういう不安定な心掛けで、私が戦場をくぐり抜けて来られたとすれば、どうして現在平穏な市民生活をそれでやって行けないことがあろう。あとはすべて思想の贅沢である。」
 ここには、復員兵くずれの世間への斜に構えた態度と嫌みのようなものが窺えるが、「あとは思想の贅沢」とはなんという批評のやすりがかけられた、潔い言葉であるだろうか。これが小林をそして中原中也を、今の流行のことばで言えば、ソーシャル・デスタンスを持って交わった散文家・大岡昇平でなければ、口から出てこないものであることはたしかなのである。







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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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