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加藤典洋 11 ―中原中也(3)―

 1976年文芸読本「中原中也」には、先にみた大岡昇平の外、小林秀雄、安倍六郎、吉田秀和、河上徹太郎という中也と交友関係にあった多くの人の文章が載せられている。
 この一文は、加藤典洋という文藝批評家の思考スタイルを取り出すために、彼の若き日に濃い影を落とした中原中也という詩人に焦点を絞っている。だが、文藝読本にみられる貴重な思い出・感想・意見を横目でみて通りすぎるには惜しい気がするので、加藤に関連するものとして、幾つかここに採集して先を急ぐことにしたい。それは、加藤典洋という文藝批評家の独創と独自性をとりだし、現代に、これからの日本に甦らせたいとの一事からである。

 音楽評論家の吉田秀和の「中原中也のこと」には、中也と交友したことからの思い出が語られている。その文章はのっけからこう始まっている。
「私は、中原中也の弟子だったわけではない。それに、私は『詩人』についての思い出など、あまり書きたくない。(中略)。私が『詩人』について、特別な観念を抱いているからだ、という方が正確だろう。それは偏見かも知れない。しかし、私のその観念は、中原中也を知ったことによって、生れてきたのだ、とはいえる。(中略)彼の存在が私にあきらかにしてくれたことは、一口でいうと、何億という人間の中には『この宇宙の中で人間が生きてる』というー簡単といえば簡単な事実について、ある意味を、突然、私たちが日常生活ではあまり経験しないような形で、啓示できる人間がいる、ということである。」
「中原は、大変倫理的な人間だった。私はのちに、≪論語≫をよんで、『人生のくるは直ければなり』という句に接して、これは中原の信念と同じだと思った。この『直し』というのは、正義だとか真理とかいうのとは、ちょっとちがう。本居宣長の言う『清く明るい心』にずっとちかい。それは対外的、対人的あるよりも、まず、内的なもののあり方についてである。

  かくは悲しく生きん世に、なが心
  かたくなにしてあらしめな。
  われはわが、したしさにあらんとねがへば
  なが心、かたくなにしてあらしめな。

 こういった時、彼はヴェルレーヌに近いと同じくらい、古代中国の聖哲にも近かった。(中略)いつだったか、彼は阿部さんの家で、『ああ、俺は赤ん坊になっちゃった!』と叫びながら、急に畳の上に仰向けにひっくりかえってしまって、亀の子みたいに、手足をばたばたさせていた。いつもは蒼白な顔が真赤だった。(中略)正気の沙汰じゃないといえば、それまでだが、私は今でもやっぱり、彼はあの時、本当に赤ん坊になってしまったのだと思っている。
 そういう彼が喧嘩をするとすさまじかった。私のいうのは口喧嘩である。目の前の相手を、一語一語、肺腑をつくように正確に攻撃する。その烈しさは、意地の悪さなんてものを通りこしていた。

  風が立ち、浪が騒ぎ、
    無限の前に腕を振る。
                  (≪盲目の秋 Ⅰ≫)

ただ、中原の喧嘩というものは、実際は、誰が相手というのでなくて、もっと広くて大きなものに向かっての表現なのだ。(中略)生きるとは、赤ん坊であるか、無限を相手どって腕を振るか、どちらでしかない。いや、中原の場合、この二つは、しばしば同じでもあった。

  これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
  そんなことはどうでもいいのだ。
  人には自恃があればよい!
  その余はすべてなるがままだ・・・・
  自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
  ただそれだけが人の行ひを罪としない。
                (≪盲目の秋 Ⅱ≫)

「・・・けれども、彼の詩の一番本質的なものは、それをつきぬけて、『宇宙との交感』とこそ、呼べるようなものに達しようとしていた。そういう詩では、彼は、まるで生と死の中間の国にでもいるみたいに歌っている。
 彼の、いわば信条告白(クレド)の歌とでもいうべき≪いのちの声≫の最後は、それを、もっと昇華した形で歌っている。

  ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。

 彼は、自我の拡充ではなくて、むしろ、万有との一体に帰することを目指していた。ただ、それには、この詩人は自我から出発するほかはなかったのだ。
「・・・そんなおりに私は、何度か、彼のこの歌を歌うのをきいた。

  天井に 朱きいろいで
    戸の隙を 洩れ入れる光、
  鄙びたる 軍楽の憶ひ
    手にてなす なにごともなし。

  ひろごりて たひらかの空、
    土手づたひ きえてゆくかな
  うつくしき さまざまの夢。

 ・・・歌といえば、中原は、よくヴェルレーヌやランボーの詩を、ふしをつけて朗読してくれたし、そのほかにもバッハのあのすばらしいハ短調の≪パッサカリア≫が大好きで、よくあのバス主題を歌っていた。その中で、彼が私に最も好んで聞かせてくれたのは、あの百人一首の中にある。

  ひさかたのひかりのどけきはるのひに
    しづこころなくはなのちるらん

 の一首だった。これを中原は、チャイコフスキーのピアノ組曲≪四季≫の中の六月にあたる≪舟歌≫にあわせて歌うのだった。(中略)中原は、日本の俳句や和歌や近代詩について、『どれも叙景であって、歌う人の思いが入ってないからだめなんだ』とよくいっていたが、この和歌には、彼を通じて流れる宇宙の秩序みたいなものがあったのではなかろうか。
 詩とは、実に不思議な力をもったものだ。日本現代文学で目立つことのひとつは、多くの人に愛される詩人と詩に乏しいことだろうが、それは、現代日本人の精神と言葉とが、深い所で分裂してしまってる証拠ではなかろうか。それは、しかし、一国の国民が魂を失ったようなものではないだろうか。」(1962年5月) 

 加藤は「新旧論」の「中原中也ー言葉にならないもの」の中で、中也がその詩法に日本の「うた」の古さを意識的に導入したと論じていたことと、上記の文章は深く関連してくるのではなかろうか。最近ではNHKのテレビ小説で放映中の「ヒーロー」の主人公は、作曲家の古関祐而であり、西洋音楽の作曲を学び、長崎の鐘・君の名等、日本人の心をつかむ多くの幅広い作曲をおこなったことが思い起こされる。
 
 因みに、私は上記の音楽評論家を上野の東京文化会館の一階で見たことがある。この人は一番中央の椅子に座り、演奏が終わると走るように出口へ急いだ。朝日新聞の車が吉田氏を待っていて鎌倉へ送っていくのである。私はこの人から「セザンヌ」の若き日に描いた絵画の講義を、八重洲の「ブリジストン美術館」の地下ホールで聞いたこともあったが、吉田氏が座っていた椅子は上野の文化会館でも一等席であった。この席の切符を私はある同人詩誌の主宰者・詩人(蒲原有明賞受賞者、日本ショパン協会理事長?)から戴き、同人の女性と一緒に聞いたことがある。音が天井からシャワーのように降り注いできた。



2020中原中也




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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