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加藤典洋 12 ―三島由紀夫(2)―

 加藤典洋にとり三島由紀夫とはいかなる作家、いや存在であったのか。それを語る文章がふたつ残されている。
 ひとつは「語りの背景」(2004年)における「意中の人びと」であり、あとひとつは「言葉の降る日」(2016年)の「いまはいない人たち」である。このふたつは表と裏、生の顔と死の顔をもっている。

 最初に「意中の人びと」を取り上げてみよう。たった4頁の短文で題名は「その世界普遍性―三島由紀夫」となっている。
「三島由紀夫の作品はなぜ多くの外国人読者をもっているのか。彼らを目当てにしたエキゾチシズムによって書かれているからだ。これまでわたしはそう思ってきた。でもいまはそう考えていない。ではどう考えるのか、そんなあたりのことについて書いてみる。」
 こう書き始めた加藤は、日本の戦後に書かれたたぶん最も重要な作品として「英霊の声」(1966年)を取り上げ、こういっている。

「この作品で三島が言うのは、自分のために死んでくれと臣下を戦場に送っておきながら、その後、自分は神ではないというのは、(逆接的ながら)『人間として』倫理にもとることで、昭和天皇は、断じて糾弾されるべきだということ、しかし、その糾弾の主体は、もはやどこにもいないということである。戦争の死者を裏切ったまま、戦前と宗旨替えした世界に身を置き、そこで生活を営んでいる点、も同罪である。糾弾者自身の死とひきかえにしかその糾弾はなされえない。そういう直感が、この作品の終わりをこのようなものにしている。」

 ここの「彼」を虚構上とみるか実在の者とするかは読者の自由であろう。ともあれ、加藤の文学的な直感の働きは非常に犀利なものであることは、他の文学作品、たとえば村上春樹その他についても証明済みとみて差し支えないだろう。このことは文学作品がその時代と密接に関係していることに、加藤がいかに敏感な触覚をもっていたかの証左ともなるといっても過言ではない。いま具体的な事例が挙げられないのが残念であるが、武者小路実篤の一作品がいかに重要な位置を占めているかを論じた文章に出会って、思わず息をのんだことがあった。
 さて、本論にもどるが、先の文のあとを加藤が、つぎのようにつづけていることには一目すべきだろう。

「ところで、わたしは、日本の戦後に三島のような人間が入れくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、日本の戦後の意味は、大違いである。その考え方には、誰もが、もしどのような先入観からも自由なら、こう考えるだろうというような普遍的なみちすじが示されている。三島は、日本の戦後のローカルな論理、いわばその『内面』に染まらず、普遍的な人間の考え方を示すことで、はじめて日本の戦後の言語空間がいかに背理にみちたものであるかを、告知している。これは、旧ドイツにおけるアンセルム・キーファーなどとほぼ比較可能なあり方であり、もし三島がいなければ、日本の戦後は、一場の茶番劇になり終わるところだった。」

 このたった4頁の「その世界普遍性―三島由紀夫」と題された文章の一節は、およそ10年まえに「敗戦後論」を世に問うた加藤を考えると、一瞬、奇異な思いに捕らわれかねない。ここにはなにか危うい誤解が生じかねないようなものがある。それはこの一節に微妙なねじれがあるからだが、そのねじれを元にもどさないと率直に読めない文章になっている。この一文がたぶん無意識的に象徴的なものとなっていることに、加藤自身は気がついていないことだろう。

「ところで、わたしは、日本の戦後に三島のような人間が入れくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、日本の戦後の意味は、大違いである。」
 この出だしの冒頭から、
「もし三島がいなければ、日本の戦後は、一場の茶番劇になり終わるところだった。」
と着地する文章のうちに、体操の競技に喩えれば、難易度のあるひねり技が効いている。それはすでに「わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからない」というすこし後にひいた逡巡にあらわれてもいるが、加藤にそれを強いているのが、三島由紀夫という作家の存在であることは重要である。そこから、この最後の一文は、三島がいたので日本の戦後は一場の茶番劇に終わらずに済んだと、率直な読解ができるようになる。ここにはあるイロニーがうっすらと伏在しているのだが、これは加藤の無意識の領域にある。このときふと思いだすのは、かつて浅田彰と加藤が小さな論争をして、そのとき、浅田が加藤の「ねじれ」た文章へ皮肉をいれたことがあった。浅田といえば加藤の言葉を借りるなら、三島と同様な「日本の戦後のローカルな論理、いわばその『内面』に染まらず、普遍的な人間の考え方」を示す傾向のある人物であったろう。それはともかく、加藤はこうつづけている。

「たしかに彼の作品は、化粧タイルのような人工的な文体を駆使して書かれている。『内面』をもたず『深さ』を欠いている。でも、そのことが、三島の小説を世界の文脈でみた場合の、「世界の戦後」性にたえる制作物にしている。わたしの考えでは、彼の作品は、そのエキゾチシズムによってというより、その考え方の普遍性、そしてまた文体、作品の人工性、深さの欠如という現代性ゆえに、多くの外国の読者をとらえ、離さないのである。」

 この文に含意されているのは、三島文学批判であると同時に、加藤の鋭敏な時代感覚の両義性であろう。三島の「世界の戦後」がいかなる認識に由来したかを加藤は注意を向けさせ、つぎのようにいっている。

「三島は戦前、レイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』に夢中になる。でもそのラディゲの作がすでに第一次世界大戦の戦後文学だった。その最も深い理解者は、あのジャン・コクトーである。その心理小説に心理がなく心理の剥製があること、しかしそのことこそがその第一次世界戦の戦後文学でめざされていること、そしてそのようなものとして、それが三島の戦前と戦後の指標たり続けること。つまり、人工性はここでは、世界性、現代性の明らかな指標なのである。」
 
 そしてつぎのように、加藤自身の位置を確認するのである。

「『世界の戦後』とは第一次世界戦の戦後のことであり、『日本の戦後』とは第二次世界大戦の戦後のことである。この二つは同じではない。簡単に言うなら、前者の戦後で、人と世界は壊れ、後者の戦後で、人と世界は自分を修復している。サルトルの『嘔吐』は第一次世界戦の戦後文学であって、そこで彼は人が壊れたこと、そこからの回復にはアヴァンチュール(芸術と犯罪)による特権的瞬間しかないことを述べている。しかしその彼が、第二次世界大戦の戦後になると、アンガジェマンによる人間の回復を唱える。三島は、戦前のサルトルに似ている。わたし達は、ここでは、そこに二つの戦後の重層(ズレ)があることに自覚的であるべき、『遅れてきた青年』なのである。」

 加藤は自分たちを「二つの戦後の重層(ズレ)があることに自覚的であるべき、『遅れてきた青年』なのである」規定している。
『遅れてきた青年』とは大江健三郎であり、加藤の戦後はこれに属し、三島の「戦後」ではないことをここで表明しているのである。
 だとしたら、冒頭ちかくで引用した加藤のいささか大げさな三島への視線はどう理解すればよいのだろう。茶番劇はおまえ加藤にあると逆転しかねないからだが、「敗戦後論」を読むかぎり、そうした茶々は消えることになる。
「ところで、わたしは、日本の戦後に三島のような人間が入れくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。(中略)彼がいるといないとでは、日本の戦後の意味は、大違いである。(中略)三島は、日本の戦後のローカルな論理、いわばその『内面』に染まらず、普遍的な人間の考え方を示すことで、はじめて日本の戦後の言語空間がいかに背理にみちたものであるかを、告知している。(中略)もし三島がいなければ、日本の戦後は、一場の茶番劇になり終わるところだった。」

 そしてカデンツに入るのだが、この「茶番劇」の由来を加藤は三島自身の文章の引用で終えている。

「ラディゲからの影響を受けてゐた時代はほとんど終戦後まで続いてゐた。そうして戦争がすんで、日本にもラディゲの味はつたやうな無秩序が来たといふ思ひは、私をますますラディゲの熱狂的な崇拝者にさせた。事実、今になつて考へると、日本の今次大戦後の無秩序状態は、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の無秩序状態よりも第一次世界戦後の無秩序状態に似てゐたと思はれる。
     (「わが魅せられたるもの」一九五六年) 

 こういう洞察がなぜ当時、三島だけに可能だったか。そういうことをわたしとしてはいま、改めて、考えてみたいと思っている。」

 最後の2行でこの論考は終わっている。中途半端という感が拭い難いところだろう。なぜこれだけ大事なことを、「いま、改めて、考えてみたい」などと書いているのか。こうした疑問が筆者に湧いてくるのを押さえ難いのである。最初の加藤からの引用を、今一度、拳々服膺してみよう。
「ところで、わたしは、日本の戦後に三島のような人間が入れくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、日本の戦後の意味は、大違いである。・・・・」
 ここで加藤は三島のお陰で、戦後の言語空間がいかに背理にみちているかを告知されたと言っていたのである。ここには看過できないほどに、重要な事柄への、正直な言及が記されていたのだ。それは「戦後」という時代認識に関わることで、加藤の「敗戦後論」は言うまでもなく、その認識の布置の上に為された論考であったはずで、そこに三島の存在が大きな影を落としたことを述べていたのである。

「ただ一人読める日本語の書き手としては中原中也の詩と散文を読みつぐ」とあり、「11月『現代の眼』編集部の○○氏からの依頼を受け、評論を執筆中、三島由紀夫の自決にあう。・・・」
 年譜は加藤が病に伏した3月に病院で記されたもので、5月に不帰の人となった。先に引用した三島に関する論考における大仰な文章からすると年譜の「三島由紀夫の自決にあう」は、いかにも抑制されたという感は拭いがたい。

 その12年後、加藤は三島を再度論じている。それが冒頭で紹介した「言葉の降る日」(2016年)の「いまはいない人たち」である。そこに所収された文の題名は「『生の本』の手触りー三島由紀夫『三島由紀夫文学論集Ⅲ」である。
 そこで筆者は改めて、真摯で正直な加藤という人間をみることになった。加藤はここで正面から三島の自決と彼の戦後の25年についての感慨を非常につめた論理をもって述べていたのである。ここにまた、冒頭の一文を写しておくことにしよう。加藤はこの3年後に生を終えている。

「なぜ三島由紀夫にあるときからひかれるようになったのかはよく分らない。
以前は。そんなに好きではなかった。その小説にほんとうに引きこまれたことは、1966年だったかに、『文藝』巻頭に載っていた短篇『仲間』を読み、余りに気に入ってその頁だけをはぎ取り、いつも持って歩いていた。そのときの一度くらいしかないような気がする。
それがいつのまにか、だいぶ自分に大切な存在になっていた。
きっと、この人の正直なところにひかれたのだろう。昔は、なんだか『チンケ』な人だなあと思っていたのだが、ある頃から、自分の生きている戦後の日本という空間のほうこそ、『チンケ』だと思えるようになってきた。すると、このかつての『チンケ』な人がなんだかとてもまともな人のように思えてきたのである。                                                   戦後の日本が『チンケ』な空間だというのは、こういうことである。                                         先の戦争で、日本人は、アジア全域での白人欧米諸国による植民地支配はおかしい。その体制を終わらせようと、と言って米英に対して宣戦布告した。むろん、そこには多くの嘘があった。しかしその多くは戦争が終わってから国民の一人一人に知らされたことである。その戦争の意図のどこが悪かったのか。なぜ悪かったのか。それについたは何も検討されないままに、日本人たちは、自分たちの考えを捨ててしまった。そして、敗戦国になり、かつての敵国であるその白人欧米諸国を主とする連合国の軍隊(実際は米国の軍隊)に占領されると、そこがよくわからないのだが、いともすんなりとそのかつての敵の考え方を自分のものとするようになった。でも、そこにはもっと、考えるべき問題が含まれていた。いまの9.11、イラクにまで、それはまっすぐに続いている。
 これって恥ずかしいことではないのだろうか。(中略)
 そういうことを、あるときから、私は思うようになったが、そう思って目を上げると、そんなことを言っている人は、この人(三島ー引用者注)ぐらいだった。ほかに絶無ではないとはいえ、そういう声は、ほとんどないのだった。」

 加藤はたぶん自分のいのちの蝋燭はあとわずかしか残っていないことに気づいていただろう。ここに響いてくるのはそうした批評家の声である。






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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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