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NHK「英雄たちの選択」

 6月10日、NHK「英雄たちの選択」という番組で「古関裕而と日本人」と題した放送がありました。「エール」という朝ドラをおもしろく毎日拝見して、主人公の古関裕而という音楽家に関心がありました。コロナ感染の影響で、オンラインでの討論会には、磯田道史、高橋源一郎、苅部芳則の三人のお顔が画面に出て、それぞれのお話しが興味が惹かれるところでした。
 古関裕而という人は福島の老舗の呉服商に生まれたそうです。子供の頃からお父さんが買ってきた蓄音機で音楽を聴いて育ったらしい。やがて楽譜をみて独学で作曲法を習い覚え、新聞の募集をみて応募した曲が入選しました。それで銀行で働いていた古関さんは英国へ留学することができそうになりましたが、昭和4年は世界大恐慌が吹き荒れ失業者があふれていた。やがてコロンビアレコード会社へ作曲家として入社しました。給料はなんと先生の4倍の200円だったとか。最初の作曲は竹久夢二が作詞した「福島夜曲(セレナーデ)」、つぎが「福島行進曲」でしたが、売れ行きが芳しいものではなかったとのことです。一方、古賀政男は「悲しい酒」が流行歌として華々しい活躍を見せていた。こちらはギターとマンドリンの庶民好みの曲風なのに、古関裕而の曲は西洋かぶれでお高くとまって庶民のニーズとズレていたのではないか。これは音楽評論家の片山杜秀の指摘でした。
 やがて日中戦争が大陸ではじまり、国民精神総動員令がでるころになると、古関は「露営の歌」を作曲した。これは明治の「戦友」に匹敵するいい曲だったそうです。この歌で古関は音楽と運命的な出会いをしたらしい。旅行中の汽車に乗っていてふと手にした新聞をみると、そこに「露営の歌」の詩が載っていたそうです。駅ごとに兵士を戦地へ送る大合唱が聞こえていました。古関は汽車の中で車輪の音を耳にしながら一気に作曲をした。それが戦時歌謡(?)との古関さんとの出会いであったと「鐘よ鳴り響け」という自叙伝に記されているそうです。なんとレコードは60万枚も売れたという。

「勝って来るぞと勇ましく。誓って国をでたからは。手柄たてずに死なりょうか。進軍ラッパ聞くたびに、まぶたにうかぶ旗の波。」

 ここでくだんの三人が各自の意見を言います。
高橋)軍歌って嫌いなのですが、彼は庶民の無意識をつかんだ人ではないでしょうか。万葉集の防人の歌なんかと同じだと思う。
苅部)本音と建て前を使いわけていた。そういう人柄でした。
磯部)犬死にを強いられていると知っていた。福沢諭吉の言う「一身にして二生を経る」という、違う世相を駈けぬけた人だ。

 古関は中国へ慰問へ行った。そこで現地の住民の姿をフィルムに収めています。上海市街地の様子、軍楽隊の演奏などを撮っています。
昭和16年に大平洋戦争が始まります。そこで作ったのが「若鷲の歌」です。

「若い血潮の予科練の 七つ釦は桜に錨。今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲がわく。」

 古関さんは、西条八十が長調なのに、短調で曲を書こうとしました。明るい歌ではないという考えではないでしょうか。
昭和19年になると、サイパンが陥落します。そして、比島決戦の歌を依頼されますが、ここで軍部と対立しています。
軍部は、敵将の名前を歌詞に入れろという。即ち、ニミッツ、マッカサーの二人を地獄へ逆落としいう歌詞を入れろと。だが、西条八十はそれは武士道に悖るのではないかと抵抗します。古関は西条八十に「ああいうときは、だまっていて聞き流していればいいのです」と言い、結局、古関は軍の要求に従います。軍に逆らえば、古賀のように冷や飯を食うことになる思ったのだと。
昭和19年3月、インパール作戦へ古関は派遣されます。そこで、火野葦平に遇い、悲惨な状況を聞きます。

ここで、軍の要求に従うかどうかで、例の三人に司会がそれぞれの立場を問いただします。

高橋)軍の要求に従います。庶民を見捨てられない。庶民と運命を共にします。
磯田)明治から昭和へと品が悪くなっていく軍には従えない。もう歌詞「勝ってくるぞ」は負けると入れるも同然なのですから。
苅部)従います。

比島はすでに特攻隊の出撃があり、先は見えてきていた。
昭和20年、広島、長崎に原爆投下。終戦となる。
昭和50年、古関胸を病む。多くの若者を死地へ追いやったと。
広島でテープ発見。「歌謡ひろしま」これは長調であった。復興と希望の願いが込められていた。
古関、「長崎の鐘」を作曲。「こよなく晴れた青空を 悲しと思う切なさよ・・・」短調から長調へ転調がある。

高橋)この人は職業作曲家でなんでもある。恣意性は排除して倫理的である。歌詞のない曲は意味をもたない。庶民のエモーショナルな普遍性に寄り添う、庶民のシンボル。シームレス。知識人より庶民の味方だ。昭和15年のオリンピックは中止。同じ施設で昭和18年、3000人の学徒出陣式は、音楽の祭典で「海ゆかば」の鎮魂曲までもあった。
磯田)比島決戦の歌は、進駐軍が意味が分らずに、歓迎した。非言語の音楽は、応援歌にもなり、人を殺す刀にもなる。なんでも あつらえる人だった。水のように生きた。ころっと変わることもできた。
苅部)戦時の応援歌を作った人だ。信用金庫の歌も作った。マーチに歌詞はない。

 昭和39年、オリンピックのマーチを作った時は、父は嬉しそうだったと、長男が語る。

海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草むす屍
大君の辺にこそ死なめ かえりみはせず   (大友家持)





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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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