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加藤典洋 13 ―三島由紀夫(3)―

 「言葉の降る日」という本は、政治・社会論集をあつめた「日の沈む国から」、文学・思想論集の「世界をわからないものに育てること」につぎ、近年亡くなった大切な人々についての文章を中心に編纂され、2016年(68歳)、この三冊が矢継ぎ早に出版されている。
 あとがきによると、当初は、2013年1月に死去した息子に関する文章を載せる予定が、果たせなかったとある。
「2011年の震災のあと、私の日々は親しい、大切な人々との死別で飛び石伝いに過ぎた観がある。吉本隆明さんが2012年3月16日に亡くなり、息子の加藤良が2013年の1月14日に事故で死に、その後をささえてくれた友人の鷲尾賢也(歌人の小高賢)さんが2014年の2月10日に急逝し、そして鶴見俊輔さんが2015年7月20日に亡くなった。・・・・」
 加藤はこの本の冒頭に「死が死として集まる。そういう場所」というタイトルで、柳田国男が昭和20年5月に書いた「祖先の話」をとりあげ、「どんな死も同じだという思い」で、「死が死として集まる」場所が、この国にないことの痛感を、そして、柳田の提案がピンとこなかったが、いま、柳田が戦争という大きな物語の渦中で、小さな物語を手放すまいとしていたことに驚嘆し、これを「英霊」信仰を無力化するものとしてその可能性を評価している。なお、この本には「太宰治、底板にふれるー「太宰と井伏」再説」と「死に臨んで彼が考えたことー3年後のソクラテス考」が収められている。
 さて、前章の続きである「いまはいない人たち」の「『生の本』の手触り」という三島の論考に戻り、話しを続けることにしよう。
 三島のラディゲ熱が三島をしてその文学理念の由来を第一次大戦後に求めたにしろ、「鏡子の家」の予期せぬ不興から、その文学の方向転換をしたかのような、三島の「英霊の声」を「1966年に書かれた日本の戦後にとってたぶんもっとも需要な作品の一つである」と加藤が評価したことは、前章で記した。
「『生の本』の手触り」は文庫の「あとがき」として書かれたのだが、その前書きで加藤はこんなことを記している。
「三島は死の直前に、こう書いている。
私の中の二十五年を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど『生きた』とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。」

 加藤はこれを受けて、「三島は、自由とか民主主義というものは、戦後の『偽善と詐術』の産物といっている。でも、だから、戦前の体制に戻れ、そちらのほうがよい、と主張しているのではない。そうではなく、戦後の日本人が、自由とか民主主義といった美名のもと、『偽善と詐術』になずんでいることが、イヤだ、耐えられない、といっているのである。」
 この後の論述は、「敗戦後論」を敷衍しているにすぎないので、これを省略をする。ただ上記の引用を踏まえ、では三島がどうしようと考えていたのか、私にはよくわからないと述べ、昭和天皇がその価値の源泉たる現人神の自分を取り下げてしまった時点で、論理的に帰るべき場所はなく、戦後はおかしいという論理をささえるのは、天皇に代わる、先の戦争で死んだ死者たちだが、誰一人、死者の代弁者にはなれない、という構造がでてくる。この主張は現実的な対案をもたないばかりか、主張の起点を「戦争の死者たち」の視点といういわば架空の場所にもつほかない、致命的な弱点がある。同様に、「英霊の聲」の三島が足場にする戦後の糾弾が、どんなに危うい構造を介してしか可能でないかと疑問を呈し、5年前の「憂国」の中では、彼自身と戦争の死者たちとの関係は、和解ないし連携の可能性はあったが、「英霊の聲」では、この両者の関係は、死を賭するまでに切迫した「うしろめたさ」の感情に気圧されたものになっている。戦後に生きてきた三島が戦争の死者を代弁することは、もうできない。なぜなら、戦後まで生きのび、そこで文学者として自己実現してきた者は、戦争の死者たちを裏切った昭和天皇と、同じ穴の狢となっているからであり、自己糾弾なしには、戦争の死者を代弁しての昭和天皇糾弾はなしえない。その自覚が「英霊の聲」を作っている。やがてある悲哀が加藤を領してきたが、そうなるにつれ、三島は戦後呪詛のディレンマを通じ、加藤にあるひとすじの「乏しさ」「惨めさ」「卑小さ」を伝えてきたと述べている。

 これが12年前の「語りの背景」にみた三島の「洞察」への応答なのであろうか、というのが筆者の感想である。
 そしてまた、以前の問いに戻らざるえない淵源は、果たして加藤にあるのか、それとも、「生の本」の主な解説で、その回答に代えたのであろうか。

 参考までに、以前の文章を以下に再掲して、この検討をつづけていきたい。

「先に述べてように私は長いこと三島のよい読者ではなかった。三島の小説は、余りに人工的で、薄っぺらい感じがしたからだ。しかし、いま私は、その薄っぺらい感じを、違ったふうに受けとっている。(中略)彼は、兵役をある偶然から免れたのだが、そのことを奇貨として、これをよろこび、そこから逃避した。しかし、このような彼の内心の傷、良心の呵責の根源についても、そこに卑小さがあることは認めるが、私はそれを決して否定しょうとは思わない。
 おかげで、戦争の死者たちが、自分たちとどういう関係に置かれているか、ほとんど死を賭して苦しむ人間(三島-引用者)が、戦後へもたらされた。卑小さと偉大さと、その両方が私たちには等価に大切なのである。」

 奥歯にものが挟まったような、この一見冷静な加藤の三島への評価(?)は、「古今集と新古今」の下記の三島の文章を逆手にとって、70年の決起の行動の背景にある理屈を整理しようとしている。

「それなら、行動と言葉とは、ついに同じことだったのではないか。力をつくして天地が動かせなかったのなら、天地を動かすという比喩的な表現の究極的形式としては、『力をも入れずして天地を動かし』という詩の宣言のほうが、むしろその源泉をなしているのではないか。
 このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化した。それはもっとも清純な詩ではあるが、行動ではなく言葉になったのだ。」

 この三島のあとに、加藤はつづけてこう述べている。
「ひとあたり読むと、わかったようなわからないようなはぐらかされた気分になる。しかし、よく考えればここで三島は、「力を入れても天地は動かない」のであれば、「力を入れるが天地を動かそうとは思わない」、つまり「天地を動かす」目的を凍結したまま、「力を入れる」、そういう行為が、いまや詩として成立する、というか、そういう世界では、詩は、このような形でしか、生きのびない、と自分は喝破したのだ、といっているのである。(中略)死力をつくす、しかし、結果はゼロでも一向にかまわない、それがこの敗戦後の日本という逆さまになった世界では、唯一可能な詩の理念の形なのだと、自分は思うようになったと、この「古今集と新古今」の論のなかで、三島は言っている。
 彼は、一九七○年十一月二五日に、自分の行動で何ほどかの変化が日本の社会に起こるとはとは思っていなかったろうし、そういうものを起こそうとすら、思ってはいなかっただろう。それではなぜそんな馬鹿げたことをするのか。変な言い方をさせてもらえば、戦後というこの世界が逆さまだから、こうなる。三島はそういうのである。」

 じつに「変な言い方」が気になる文章である。どこかにおかしなところがある。内部にある屈折を加藤は、三島の言葉を捩った理屈で抑え込もうとしているかにみえる。
 文庫本『三島由紀夫文学論集Ⅲ』の解説に、『生の本』の手触りとしてつぎのような文章を書いている。
「この解説を書くため、三島の書いたもの、三島について書かれたものをいくつか、読んだ。数週間にまたがる期間だった。そのうち、一つの問いが私をとらえた。一九六九年、死の一年前という時期に、三島が、自分の文学論集を企画し、しかもその編集を、虫明亜呂無氏に依頼したのはなぜだったのか。その依頼者が、旧知の文芸評論家の奥野建男氏でも、友人の村松剛氏にでもなく、いわゆる純文学から遠い虫明氏だったのはなぜか、というのが疑問」を提示して、つぎのように推論している。
 加藤によれば、三島の死後、編集刊行された単行本がもう一冊あり、それが「蘭陵王 三島由紀夫1967.1~1970.11」と題された瀟洒な単行本であった。加藤は三冊の文庫のもとになったこの本の二冊を書架に並べて読んでいるうちに、三島が自分の死後、この後者の「蘭陵王」のような、死から逆照射して編まれる一冊が作られるだろうことを、予期していたのではないかという気がしたという。それが「純文学」の徒とは対極にある「生の批評家」としての虫明亜呂無氏への依頼となった三島の意図によるというのである。ここから、加藤は、文庫本『三島由紀夫文学論集Ⅲ』の解説に仮託して、『生の本』を遺そうとした三島を敢えて見ようとしている。三島の文学と自決死は、吉本隆明の追悼文に表明されているように、戦後を生きる文化的なもの一切に、その生死のリトマス試験紙を差し出していた。
 鋭敏な批評家の加藤典洋が、いわばその三島に戦術的な対応を強いられていた。その彼の一面だけをみての即断は「チンケ」でしかないであろう。加藤が大いに影響をうけた吉本隆明は「追悼私記」で三島について書いている。「重く暗いしこり」(45・11・25ー46・1・13)。加藤はこれを読んでいるだろう。
 「三島の死は文学的な死でも精神病理学的な死でもなく、政治行為的な死だが、その<死>の意味はけっきょく文学的な業績の本格さによってしか、まともには測れないものとなるにちがいない」。

 加藤は、三島と同じ在り方を、一般的にはあまり馴染がない、ドイツの美術家アンゼルム・キーファーに見いだしているのだが、どうにも衒学くさくて分かりづらいのである。加藤が解説を書いている文庫本「生の本」のように、もっと、「都会的で、明晰で、平明で、おだやかな午前の光めいた精神」のなかに、「逆さまな戦後」のその逆さま加減を、これがそうだと見せてもらいたいと、思わず言いたくなるところである。つまるところ、加藤のわかりにくさの因ってきたる由縁は、中原中也をしかるべく自分の批評の空間に、導入してこないことからやってくるのではないか。裏からいえば、二十代のほぼ全期間を中原中也に入れあげていた加藤が、それをしない理由において明解さに欠けるといわざるえないのだ。
 
 秋山駿の三島へのスタンスはしっかりとしている。秋山と加藤がイコールというわけにはいかないだろう。中原中也は小林秀雄の対局にあり、三島もまた同質なものであったはずである。これは秋山氏とイコールのところだろう。だが、ある頃から、そうではなくなったと加藤は言っているのだ。そしてまた、太宰の最後の自殺の再考を促した動機にまでも、「中原中也の影」はのびていると推測されるのだが、加藤の批評からその部分がスッポリと抜けていることが腑に落ちてこない。さらに、「戦争の死者たち」は三島を通じて加藤へ入ってきた重要な認識であるのに、三島への姿勢にどこか木で鼻を括った感じを拭えない。いったい何故なのであろうか。どこかに不自然な「強ばり」のようなものが感じられてならない。
 それともこれが、加藤の「戦後」が要請した倫理の内容だというのであろうか。






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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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