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アリア「エックス・プロバンスの空と大地を」

 オペラ「椿姫」にはアリアの名曲が幾つもある。私がいつも心を打たれるのは父がパリにいる息子を思って歌う一節。「エックス・プロバンスの空と大地を」のバリトンのアリアだ。

プロヴァンスの海と大地を/誰がお前の心から消したのか?
故郷の光り輝く太陽から/どのような運命がお前を連れ去ったのか?
ああ、苦しんでいるとしても思い出してくれ
そこでは 喜びがお前に光輝いていたことを/そして 安らぎは向こうの土地にだけあり/お前に 再び輝くのだ/神のお導きなのだ!
ああ、お前の年老いた父親が/どんなに苦しんだのかを お前は知らないのか/お前がはなれてから、家は悲しみで覆われたのだ
だが、最後にお前に再び会えたなら/私の中で 希望が失われていなかったなら/名誉の声が お前の中に 完全に消えていなかったなら
神は 私の願いを叶えてくれたのだ!

 この父の心情がフィッシャー=ディースカウでも誰でもいいのだが、バリトンの声で奏でられると、私の胸がふるえるのはいったい何故だろう。かつて私は子でありいまは老いたる父である。息子もいるが幸いこうした窮状にいるわけではない。だがこのアリアを聴くとエックス・プロバンスの海と大地が現われるらしい。そこから綿々たる悲しみに溢れた父の歌声が聞こえてくるのである。それは日本ではない。どうしてもエックス・プロバンスでなければならない。南仏のそこへ行ったことはない私が、光りに満ちたその海と大地を知っているわけではない。そこは私の胸のうちに現われる想像の世界なのである。音楽の調べにのった詩の魔法がもつ摩訶不思議な力だというほかはない。
 数年まえ、私はフランスにいる娘の懇切な援けうけ、一人プロバンス地方を杖をひいて旅をしてきた。たしかニースの空港からタクシーにとび乗り、アンリマテュスの作品がある礼拝堂を目指してヴァンスへ行こうとしていた。車が走りだすとタクシーの運転手が遠方へ顎をしゃくって、エックス・プロバンスならこちらにあるのだがと言われた覚えがあった。駅からタクシーに乗るとき、私は娘が作ってくれた地図を示し、ヴァンスへ行きたいというと「エックス・プロバンス?」と聞き返された。「ヴァンスだ」と運転手へ念を込めて言った。「ヴァンス?」。そうだマテュスの礼拝堂があるところだと、私は繰り返した。たぶん歌劇「椿姫」のエックス・プロバンスへ行く外国の訪問者が多くいるのに相違ない。ヴァンスは山のなかの小さな村にすぎない。だが私が一番に行きたいのはそこなのだ。後で知ったことだが、英国の作家のD・H・ロレンスが晩年、病期療養にこのヴァンスに来て亡くなっていた。マテュスがこの村に礼拝堂をとの村の依頼に協力し、晩年の作品を描き遺して光りあふれた礼拝堂がこのヴァンスに建ったのである。礼拝堂のテラスから遠くに地中海を眺めることができた。
 私がアンリマテュスの絵に出会ったのは22歳の通勤途上のことである。地下道を歩いている私の足が止まった。行き惑い途方に暮れた足が目にした本屋の店頭によろめいた。そこにファブリの大判の画集があった。偶然に手にしたマティスの絵に私は救われたのだ。以来数十年、彼の「画家のノート」は私のそばから離れなかった。
 三日間、ヴァンスのホテルで過し、それからバスでニースへ戻り、四日間、雑踏の街中のホテルで過した。ニースはコート・ダジュールの中心の都市で、海岸まで歩いて出てみたが、ザワザワしていてあまり魅力を感じなかった。歩いていける近くに国立マルク・シャガール美術館があったので行ってみた。さすがマルロー文化相がシャガールのために建てた美術館らしく、作品は充実しているのに驚いた。この時ばかりは、正直いってマティスよりもシャガールの絵に惹かれた。マティスの美術館へ行こうとしたが、誰に尋ねても要領が得なかった。そのうち雨が降り出したので映画館に入ったがほとんど寝ていたようだ。夕食はホテルの近くにある中華屋で済ました。スマホでの通信機能はこのあたりから故障したらしい。ニース駅から、アルベルト・カミユの墓地があるルールマランへのプロバンス地方奥地への難儀にみちた、だが楽しい旅がはじまったのである。
 どうして、オペラ「椿姫」のアリアの話しから、画家のマティスへ飛んだのか、私にもわからない。


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DSC06359_convert_20200726115926.jpgニースの夕暮海辺





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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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