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加藤典洋 16 ―日本風景論(1)―

 加藤典洋という文藝批評家は剽軽な一面をもった人であるらしい。自身が2000年に記した年譜に、五歳の幼稚園の入園試験に落第したと記載している。二十歳では大学院の試験に落第し、翌年は受けた出版社の就職試験にすべて落ちたと記している。筆者は加藤の失敗体験を特に拾い出しているわけではない。十三歳のときには、デュマの「モンテクリスト伯」を借りだそうとして間違い、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」に親しんだというから、どうしてなかなかの早熟な文学少年であったのである。それだけではない。数学の問題では教科書さえ学んでいれば、参考書などなくても解けないものはないとの明言がある。批評家になった後には、批評とは百冊の本の知識のある者に徒手空拳の者が勝負のできる世界だと見切ってもいるのである。加藤の批評文には、そうした独自の知力の動員が感じられることが往々にしてある。それが独自の直感によるユニークで独創的な批評の世界の提示に成功した場合があるのは確かだろう。だがその独自性に回転と跳躍が加わると、一般的な読者を戸惑わせるねじれた、一種難しい文章が現われることを否定できない。
「この『日本風景論』でわたしの批評の仕事のリズムは確立された」と「展開の起点」と題したあとがきに、加藤はつぎのような希望を述べている。
「いまも私の批評家の最良の像は、単独行で徒手空拳のままあっというまにエヴェレストの頂上を極め、下山する、あのラインホルト・メスナーという登山家である。」
 だがこの前段では、こんな呟きが聞かれるのである。
「批評とは自分にとって、徒手空拳で行うものという原則のようなものができた。でも、その代わり、落ち着いた、着実な仕事というものがそこからは出てきにくい、そういうことを知らされた最初の機会が、このはじめての連載でもあったのである。」
 この批評家の自意識は間違いなく自分の仕事の性格を掴んでいたようである。がこの批評家が生者の影に死者をその背後に透視する、そうした遠近と左右を同時にみる眼力の持ち主であることもたしかなことだろう。
 2000年に刊行されたこの本は、ほとんどが1988年と9年に書かれているもので、「『まさか』と『やれやれ』」「一九五九年の結婚」「新潟の三角形」「武蔵野の消滅」「『大』・『新』・『高』」「風景の影」の六つの小論からなっている。
 ここでは「武蔵野の消滅」だけを取りだしてみよう。
 これは、1894年に発刊された志賀重昂の「日本風景論」が「日本人自らの風景観」を「変革」したことを、詳細に分析することにより、あたかも明治4年の「廃藩置県」が権力の真空状態を生んだかのごとくに、その4年後にでる国木田独歩の「武蔵野」と同様の、「既知のうろこを剥がして未知のものとして現われる」その共通性を見ようとしたものである。勝つと思われなかった日清戦争の勝利が日本人の眼にみえる風景を変えたかのよう、この一書は日本人を変えたのである。
 さらに加藤は、それから四分の三世紀を経た1970年、国鉄のキャンペーンで始まった「デスカバー・ジャパン」が「ただの風景」の「探勝」化として日本人の景観意識を改変したというのだ。この成功を準備したものが東京オリンピック(一九六四年)であり、大阪万博(一九七0年)以降の高度経済成長であった。この「高度経済成長」は「日清戦争」が明治二十年代の人々にとってもった同様の意味を、一九六0年代の日本人にたいしてもっていたという。加藤はここで経済学者の都留重人の見解を紹介し、高度経済成長を戦後の日本復興の側面とみていることから、明治期の富国強兵政策が明治維新と日清戦争をつなぐように、戦後期の政経分離政策が敗戦と高度経済成長をつないでいるという考えを引き出してくる。敗戦から「デスカバー・ジャパン」までと、維新から「日本風景論」までとがほぼ25年であるとの指摘もある。こうした加藤の時代の出来事を見ていく、どこかジャーナリストを思わせる批評に物足りないものを覚え、やはり加藤自身が自覚しているように、仕事としては落ち着いた大きなものではないという感じがつきまとうのは正直なところであろう。だがここには、その後を予見させるユニークな創見があることも否定できない。そのシャープな歴史感覚を嘆賞し、体操選手のごときひねり技が入るところでは、やはり文藝批評家であるという至極まっとうな評価が訪れるからである。
 この一書は志賀重昂の「日本風景論」を単に解体することに主眼があるのではない。その魅力があるとすれば、加藤の「日本風景論」が書かれることなのだ。冒頭にあったそもそも「風景とはなにか」という根本的な問いに加藤が答えるところににあるのだが、その回答を見出すことはなかなか難しいのである。この解を得るために加藤は柄谷の「風景の発見」(「日本近代文学の起源」所収)に、さらにその先を促す見解を披瀝しようとする。明治の志賀の本や戦後から25年を経ての「ディスカバー・ジャパン」に現われている事態を、一言でいえばつぎのことではないかというのだ。
「『武蔵野』が『ただの風景』を発見しているとすれば、『日本風景論』が『発見』しているのは何か。『日本』。それは、これを日本風の横文字に直せば、明治期における『ディスカバー・ジャパン』なのである。」
 加藤の「風景」への着目は、それが装置として人にどのように働きかけるかというところにある。ここに加藤の特異な用法がでてきて分りづらくなっているが、これこそ加藤の思考の新基軸が動きだすところなのである。敢えていえば、柄谷行人が着地した場所そのものへの疑念の表明といってもいいのだろう。
「柄谷は、この作品(国木田「忘れえぬ人々」―筆者)から感じられるのは、『たんなる風景』ではなく『なにか根本的な倒錯』なのだ、という。それは『どうでもよいような他人に対して』『一体性を感じるが』、一方、『眼の前にいる他者に対しては冷淡そのものである』『内的人間(inner man)』の出現を意味している、というのが彼の考えである。しかし、ここにあるのはむしろ、『たんなる風景』の発見ではないのか。そして何か根本的な価値転倒がもしあるとすれば、それは、『内面』の発見というよりも、むしろこの『たんなる風景』の発見の先にやってくるもの、ではないのか。」
 ソフトな言い方だがこれは加藤の異論と見てさしつかえはないが、柄谷が多くの文献から導きだそうとした主旨からすれば、まだどうにも影がうすい感が拭い難いだろう。
 そこで、少し説明と解説を補助線のようにここに加えることにしておきたいのだ。
 この一文はすでに述べてように、先行する文芸批評家、柄谷行人の「日本近代文学の起源」(1980年)にたいする加藤の考えの相違を述べた文章である。日本の近代の文学史を批判するために書いたという上記の本の冒頭の一文「風景の発見」において、柄谷は夏目漱石の「文学論」の漱石にとっての意味を解明しようとした。「英文学に欺かれたるが不安の念」から出でたる近代日本の「文学」そのものへの根本から疑念を、「風景の発見」の「歴史性」にあるとみて、柄谷はそこに国木田独歩の「忘れ得ぬ人々」に現われた価値転倒(認識論的な布置の変化)を見ようとした。
 加藤はこれに対し、明治の「日本風景論」と戦後の「ディスカバー・ジャパン」の二つのものから、「既知と思われていたものがいつのまにか未知のものとなっている事態をとらえ、その既知の未知化、未知のものとして見えている既知のものを『風景』という装置を使って人々に知らせた。」
 このことから、
「『風景』とは、ここで何より、単なる未知のものでもなければ単なる既知のものでもない、未知と化した既知の『現われ』なのである。」と主張するのであるが、まだ、正面から柄谷に向かうわけではない。ここには賛意と不満が同居した分りづらいものがある。
「教えられて気づいてみたら、そこに江戸期とは全く違う『日本』という新鮮な国があった。同様に、教えられて気づいてみたら、そこに敗戦国日本と全く違う、何か異質な『日本』があった。そのことに、これらの二つの時期の人々は、驚いたのだったからである。・・・・・・・・・。人々が愕いたのは、外界が変わったことにたいしてではなかった。自分が、自分の気づかないうちに、深く変わった、そして全く異なる“眼”をもつようになっていた、そのことに気づかされて人々は驚いた。それ自体として何一つ変わらないものが、未知のものと見えはじめる。人々はそのことに気づかされて驚いているのである。
 ところで、これは『日本』がふいに『風景』に見える、そういうことではないのか。」
 加藤はこの転倒にあるのが、「人々自身の『自己の変成』(吉本隆明)」にあると、自身の見解の根拠を銘記までしている。
 さらに国木田の「武蔵野」についても加藤はこんな言い方をしている。
「人々は、たしかに『美しい風景』を求めて出かけたといってよいが、そこに『旅行者』としてではなく、『ただの人』として出かけることをこそ望んだのである。そのために、行先は『観光地』であってはならなかった。『美しい』ことがそこで必要十分な条件だったのではない。『美しい風景の中に無名人として立つこと』、なんの用事もなく、『ただの人』として赴くことが必須の要件だった。このことは、「変わってしまった自分』、自分の中の未知の自分が、まず人々に『ただの人』として現われたことを意味する。国木田は、自分の中に無名人(内面、風景としての自分)を発見して、その客観的相関物を外界に『武蔵野』という形で見出したといってよいが、ここでは逆のことが起こっている。人々は、まず『ただの風景』を探勝的風景として示され、それに感応する自分をつうじて、自分が深く変わっていること、自分の中の無名人を発見する。そこではいわば、自分のなかの無名人が、その存在を「風景」によって確かめられようとしているのである。」
 ここで加藤は普通の「風景」の用法を逆転していることが、ここでは重要なのであろう。
「なぜなら、『風景』とは、発見された未知の事態が必要としたところの呼び名(新語)であり、それは、それが制度化した途端隠蔽され、消えるものだから。国木田の発見したのはそのような風景だった。漱石の文学を第三のそれと仮に呼べば、国木田の風景もまた第三の風景でり、本来、風景の名に値いするのは、この風景、いわば『ただの風景』、『たんなる風景』なのである。」
 加藤はこのあたりから彼独特の内在的な思考を進めようとする。柄谷からさらにその先へいくとは、そういう意味なのである。
 さて、ここでもまだ読者は加藤が何を言いたいのか、なにか当たり前のことを難しそうに述べていると、首を傾げるかも知れない。
 長くなるがこのところをも少し加藤の文章から引用で補ってみよう。
「『風景』とは何か。『風景』についてはさまざまな議論があるが、ここではその客観的な議論には立ち入らない。どのようなものとして『風景』はぼく達に、何か名づけられない事態をいいあてる手がかりとなるのか、そのことについて書く。(中略)
 ぼく達は、ある景観、認識的な布置を前にしてこれを全面的に疑うことができる。その外側に“眼”の位置を据え、さらにその眼の周囲に自己を想定することもできる。その疑念には根拠がある。しかし、と同時に、自分の身体をこの景観の外側に持ちだすのではなく、その景観の前、その内側に置きつづければ、それは、そうした“外”の眼をもち“内”の身体をもった存在に、どのような『現れ』をもって見えてくるのか。
(ここに「内在的思考」の展開が見られる。そして加藤特有の比喩を用いた「八百屋の平台」の文章がくるがこれを省略する)
・・・・それは百円均一になる。ぼくとしては、この品物の百円均一化、それによって現われる『百円均一』の景観を『風景』と呼びたい。普通一般に、『風景』は、景観にそれぞれ五十円、三百円、八千円という値段の秩序が備わることとして理解されているから、ここにいう『風景』の用法は一般の用法と違っている。しかしぼくにいわせれば、一般の用法が間違っているのである。」
 ここで以前の引用の文へと繋がって行くのである。
「なぜなら、『風景』とは、発見された未知の事態が必要としたところの呼び名(新語)であり、それは、それが制度化した途端隠蔽され、消えるものだから。国木田の発見したのはそのような風景だった。漱石の文学を第三のそれと仮に呼べば、国木田の風景もまた第三の風景でり、本来、風景の名に値いするのは、この風景、いわば『ただの風景』、『たんなる風景』なのである。
 『風景』は、そこから逸脱し、あるいは排除されながら、しかもそこにとどまる者の眼に見えるものであることがわかる」

 かくして、加藤は1970年代の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンの後に、1980年代の「東京の発見」があるとして田中康夫の「なんとなく、クリスタル」(1980年)を、そしてそれに続くものとして「ただの人」の「ただの風景」となった東京の発見となる日野啓三の「夢の島」(1985年)を登場させるのである。
 加藤は日野が一旦頓挫した小説が「二重人格の女」を使うという作者自身が尻込みしていた構想から、再度に書き始められたきっかけに注目してこういっている。
「『夢の島』に出てくる『二重人格の女』は、この小説の中での異物である。しかし、ここに『二重人格』として現われているものこそ、おそらく日野が探りあてた「忘れ得ぬ人」の感触なのだ。ここに国木田における『忘れてかなうまじき人』と『忘れ得ぬ人』の共存が八十五年をへて、どのような形でいま掴まれうるかの一つの回答がある」のだと。
 そして、この小論はつぎのような唐突に、謎めいた含蓄のある文句で終わっている。
「人は二重人格、三重人格、スパイのような存在でなければ、いま『ただの人』でいることはできないのではないだろうか。そうでなければ、『武蔵野』のない世界に、『武蔵野』を見て生きてゆくことは、いま、たぶん不可能なのである。」
 読者はこの最後の数行に加藤から、すげない肘鉄をもらったような感触を得たことであろう。
「日本風景論」は、加藤が死にそうな体験をして、書かれた連作評論であったらしいが、これで加藤は「批評の極意」を掴んだという。たぶん、この現代批評の尖端を極めようとした加藤の批評文を理解するには、「日本風景論」のすべてを読む必要があるであろう。少なくとも「武蔵野の消滅」は「風景の影」と一対になっているからである。

 加藤が「敗戦後論」(1995年)を以上のような「日本風景論」と無関係に掴もうとしたわけではないはずである。日本の「戦後」の総体の風景を一変させようと九十五年を経て、日本国民の眼に見せようとしたそれは、国木田の「武蔵野」の新たなヴァージョンであったのにちがいない。江藤淳は井伏鱒二の「さざなみ軍記」を読みながら、ふと「日本が負けたのだ」と思うと自然に涙がながれてくると述懐していたことがある。加藤は隠蔽して消えたと思われた制度化された日本を、根本から裏返し転倒することで、そのねじれた姿を晒してみせようとしたのである。自作年譜に幼稚園や大学院、そして就職試験の失敗という負け点まで記載したのは、筆者が言った「剽軽」にあるわけではない。日本の敗戦という大きな負債を一度前面に引き出し見せることによって、その零点から出発するしか、日本がその道義的な底板から再生する道がないことを、柄谷とは別事の方法で示したのに相違ないのである。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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