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映画「母と暮せば」

 原爆の映画は多い。映画「黒い雨」は井伏鱒二の原作に添っていたせいか、いい出来にはならなかったようです。山田洋次監督の「母と暮せば」は井上の小説が未完のため、映画がその空白を自由に補い、なかなかの佳品となっていることと対照的です。井伏が文学でやったことは被災者の日常をひたすら追うことで、兵器という用語さえ使わず大きな災害の被害者の物語りにしたことでした。夙にこのことは指摘されていますが、「山椒魚」の哀しみをとぼけた味わいに仕立てた井伏文学ならばできたことなのでしょう。山田洋次監督は「寅さん」で実証済みのことでした。
 この映画が胸に沁みてくるのは、すでに死んだ息子が母には見えて、母がその息子と会話することで架空の生活を送るところです。母との暮らしがファンタジーの映像として平和に坦々とつづくところです。闇屋が横行する「不正義の平和」は「正義の戦争」よりいいに決まっています。被爆した母が死者ではなく、生前の息子を相手に、世間話をし、笑い、互いに気づかう、こころ暖まるシーンこそが、母が元気に生きられる支えとなっているのです。息子が泣くことが禁じられていますが、死者でありながら母と暮すことが可能であるこの規制が、この映画を惨禍の過去からの解放を、ただひたむきに前をみて生きる人々の日常を映画として撮ることに成功しています。息子の恋人の婚約もきまり、やがて母の死も近づいてきますが、まるでそれを待っていたかのように、母は病床からはっしと起き上がり、喜んで息子に抱えられてあの世へと旅立ちます。このとき初めて母は息子と肌を接するので、それまではこうした場面は見られません。 
 愛情と同じように、悲しみは相手のからだへ接触することから、感情の距離をゼロとすることによって生れます。息子が母を前によくしゃべるのは、日常の言語というものが悲しみの感情を抑制してくれるものだからです。音楽が人間的な感情から離脱して自由な夢の空間の響きとなりえるのと、それは原理的には同じです。坂本龍一の音楽がささやきとなり、メンデルスゾーンの西欧音楽がとりわけ大きな音を奏でるのは、この長崎の惨事が日本的な鎮魂を儚げに示すほかに有り様がないからです。映画では長崎のほんのりと茜色に染まり、うっすらと虹がかかった空の美しさは喩えようもないものでした。
 息子の浩二を演じる二宮和也も, 黒木華の可憐さもよかった。
 吉永小百合は、むかしの「夢千代日記」からひと肌もふた肌も脱し、円熟した演技をみせてくれました。「母」になったのですね。嬉しいことです。

 「母」という詩で、詩人の吉田一穂は詠いました。

   ああ麗しい距離(デスタンス)

   常に遠のいていく風景






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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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