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祖母遺文(1)

 手元に一葉の写真がある。それは四歳ごろの私が椅子に座った祖母の膝に左腕をもたせ、その腕を祖母の大きな両手が握るよう被さっている。祖母の右膝にからだを寄せかけ、私は写真機をながめている。春か秋の陽射しは左斜め前からさし、祖母の座った腰の背後に、鮮やかな大きな影が地面に落ちている。たぶん背景の一群の潅木から想像するには、この場所は私が生まれた静岡県掛川市の龍華院の敷地の一角ではないかと思われる。私はこれほどの穏やさと平安とに安堵した祖母の顔、これほどに品と威厳さえ漂よわせた祖母の顔を、私が成長してから一度も見たことはなかったように思われる。
 これから私がその文章を起こそうとするのは、この祖母が私が住み育った品川区西五反田の家で、秘かにノートに記したと思われる「ざんげろく」である。私は時折、このノートらしきものになにかを記している、腰を折り背中をまるめた祖母の姿を見たことがあった。それに気取られると、祖母は恥ずかしそうに頬笑い、そっと蒲団のしたにこのノートを隠した。このノートは永年、私の母が所持していたものだが、昨年(平成十八年三月)その母も永眠し、なぜか私の手元に残されたものである。
 平成十二年(二000)末、私は文芸評論家の加藤典洋の「敗戦後論」に触発され、「戦後私論ー谷崎潤一郎を巡って」と題した評論をある同人誌に書いた。それは作家の谷崎潤一郎論の「序論」のようなものであったが、その中で祖母が生まれた岡田の家系に触れたことから、どうした因果か私のもとにある祖母の「ノート」をここに書き起すことにしたのである。
 なお、八十を超えて書かれた祖母の文章は句読点もなく、老いての記憶による時間の倒置、また判読不能の個所、話しや表現の重複等のため、なかなかに読みづらいものであった。しかし、それにも係わらず明治から大正と昭和までを生きた一女性のほぼ一生のあらまし。その思い出の断片と悲喜こもごもの感慨が吐露された文章として、古い写真のように残しておきたい気がしたのである。それも原文のかたちをできるだけ損なわず、他方、読みやすいようにと最低限の手を入れさせてもらったことは、一言お断りしておかねばならない。
 家系や人物の名前等については、不明なところがあり起草の手をもつれさせもしたが、疑問の箇所、また起草上の誤りについては、近親等の読者からの指摘により、このノートの欠損を補完していただければ幸いである。

§

 私(祖母)は明治十三年生まれで岡田茂平の長女として生まれました。其の当時は村でも中流の農家の家庭で何不足なく育てられてきました。
 私が十五歳の高等小学校四年生の六月、母は三十九歳でお産を致しましたが、間もなく急にようだいが悪くなり、お医者さんが来る間もなく、どうすることも出来ない様な状態に成って、意識を失ったまま遂に帰らぬ人となって仕舞ました。其の時私達一家のなげきは全く言いようもなく、辛さ、悲しさの中で母の葬式を済ませたのですが、生まれた赤ん坊は丈夫でしたので、私は母親代わりに、出来ない乍らも世話をして暮らすより外に仕方がありませんでした。 そんなわけで私は学校どころではなく学校は中途退学致して、家事全般を私が致して暮らしておりましたが、神様のお助けか隣のおじいさんの世話で、新しい母が来ました。其の母というのが誠に気立てのよい人でございましたので、私達もほんとに助かったと思います。赤ん坊の方も村の内へ預けてありましたが、其の子供も引き取って育ててくれました。ほんとうに母がよい人でしたので赤ん坊も仕合わせだったと思います。
 赤ん坊の名前はまさとつけましたが、それから何事もなく成長し十九歳までに成りました。如何なる悪マのイタズラかと思いますが、まさが十九歳の夏でした。ヒドイ熱病に取りつかれ、話しもできないような病気で、お医者さんにもお世話になりましたが、私が見舞いに行きましたけれども、私にも口がきけなくて、一週間ぐらい病みましたが、遂に可愛そうに亡くなってしまいました。私は其の時のことを思い出すたびに悲しくて涙が流れます。
 まさのことについて、このところに一寸と記しておきたいと思います。思いますことは、明治二十八年十月のこと、赤ん坊のときのまさを預かった家は、昔は庄屋をしていた家でとてもいい家柄でしたが、その時にはあまり裕福ではなかったようですが、夫婦ともに気持のよい人でした。預かり賃は一ヶ月二円でよろしいと言われました。そのときの米は、一俵三円五十銭というのですから、いま思えば全く嘘のようなことです。
 一年半くらいそのお宅に預けておきましたが、それから間もなく、新しい母ができましたので、我々一家はおおきに助かりました。それから、その母の奨めによりて、掛川塩町倉真やという仕立て専門の家へ裁縫に通いまして、一カ年ばかりでとにかく和服を作ることも一通り覚えました。また、家にいて百姓仕事を手伝って二、三年経ちました。
 私もまごまごしてもおらぬ年頃にもなりましたのです。そのとき近所の人の世話で、掛川西町煙草製造業で、土山(治三郎)の家へ嫁ぐことにはなしが決まりました。私の父は悪い人ではないけれども酒が大好きでそのうえ勝負事が好きで、そのため田畑山林など大半は売り尽くし、それのみならずいろいろなことをやってみたいというような悪い癖がありまして、そのため損ばかりしておりました。そんなわけで、私も嫁に行くときなぞとても支度なぞできませんでした。私はほんの風呂敷包みと行李一個、それに夜具蒲団一組だけをどうにかとりまとめてお嫁に行ったので、誠に恥ずかしい思いで出掛けました。明治三十四年四月のことでありました。







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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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