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小説「羽衣夢譚」

 冬の朝はまだ暗かった。耳につく雨の音で目覚たらしい。
「亮ちゃん」
 どこかで母の呼ぶ声がした。それとも雨の音が過去の記憶の糸をたぐり寄せ、そこから母の声が聞こえたのだろうか。
母が亡くなったのは何時のことだろう。亮二はそれを思いだそうとしたが、はっきりとしなかった。
 妻の文子なら、覚えているかも知れないと、遠慮がちに尋ねてみた。
「あらいやだ。自分の母親がいつ亡くなったかを覚えていないなんて」
 文子は少しばかりの嫌みをまじえ、あきれたように亮二の顔をみつめた。
 母の葬式を主宰したのは兄の良一と姉の夫美子であったせいか、次男の亮二は母の葬儀の事をはっきりと覚えていなかった。
 文子は箪笥の引き出しから緑色の表紙のノートを取り出してきた。そこに詳細な過去の記録が記され、弔慰金の額までも載っていた。
「平成十七年の三月二十日よ。前年の九月に弥生子姉さんの娘が交通事故で亡くなったのよ。けれどそのことはお母さんには内緒にしておいたんだわ」
 亮二はふと添えた妻の言葉から、次姉の娘がトラックに轢かれた事故のことを思いだした。
 妻と二人で駆けつけた病院でのことが、なぜか鮮明に思い出された。地下に安置されていた貴子(その名付け親は母であった)の、凍えたような死顔は少しの損傷もなく、頭にだけきれいな包帯が巻かれていた。その顔は生きている時には見られない荘厳な美しさを湛えていたのだ。
 看護婦になろうと国家試験を目指していた姪が急に車庫に入ろうとしたトラックにバイクごと巻き込まれてしまった。それは彼女が結婚したばかりの幸福のさなかの出来事であった。うりざね顔の可愛い顔をしていながら、伝法な物言いで周囲を笑わせていた明るいおちゃめな姪だった。
 亮二はまた夢の中から響いてきた母の声から、過去のある日の夕べの一時を思い出した。
子供の頃、日が落ちてあたりが暗くなるまで、寒い戸外で遊んで帰ってきたときのことだ。母は台所で夕餉の仕度をしていた。
「亮ちゃん、この中に両手を入れてごらん」
 母は亮二を呼んでそう言った。台所へ行くと流しに置かれたボールの中に、湯気をたてた緑色のお湯がいっぱいに注がれている。
「そこで両手を温めてごらんよ」
 それはほうれん草を茹でたあと、そのまま流しに捨ててしまう熱湯であった。
 亮二は言われるまま、お湯の中へかじかんだ両手の先だけをお湯に浸した。最初は熱いと感じたお湯だが、だんだんと冷たい両手はちょうどいい湯加減で手になじみ、なんだか身体じゅうが温かく包まれてくる。
 窓の外は既に闇、隣りに母がいた。身体じゅうが溶けていくような、幸福な気分が満ちてくる。子供の頃のそうしたひと時を、白い割ぽ着すがたの母とともに、亮二はいまでも思い出すことがあるのだった。
   白粥に 梅ひとつおく 春の朝
 老人ホームの朝の食事を詠んだ一句が、母の最後の句作となったが、それはまた亮二に祖母が作った皺くちゃの風呂敷を思い出させた。
 祖母は息子の忍伯父さんの家に帰ると一年も経たずに亡くなった。嫁さんから辛い目にあわされ、自分から食を絶ったのだと聞いた。祖母は自分で持っていた日の丸の国旗をまめ絞りに染めて風呂敷をこさえたらしい。
 祖母が作ったその風呂敷を葬式に、亮二は母から見せられた。それは、忍伯父さんの家の庭に植えられた鶏頭の花が、真っ赤に咲いていた真夏のことであった。
          
 母は晩年には長姉の家の近くの老人ホームに入って過ごしていたが、その母がまだ元気なうちにと、兄弟姉妹五人が顔を揃え、母が生まれ育った静岡県の掛川市へ、母を連れて一泊二日の家族旅行をすることになった。子供たちの養育から手がはなれ、多少自由になったとはいえ、こうした旅行で高齢の兄弟姉妹が一堂に会することは、めずらしいことであった。
 杖をついた母を二人の姉が抱えるようにして、東京駅から電車に乗り、静岡県の掛川駅に家族のみんなが降り立った。
 夏の日差しを浴び、二台のタクシーに分乗して、祖母のりう婆さんが眠っていた先祖代々の墓に詣でたのである。四基の古びた墓は一列に西に向かって並び立ち、その西の方角に掛川城の天守閣が甍を光らせて聳えていた。
 八十二歳の母は強い日差しに、皺だらけの細い手をかざしながら、
「掛川城は立派になったらしいねえー」
 とつぶやくように言った。
 すると芙美子姉さんが、合唱団で鍛えた声で、
「お母さん、天守閣が新しくできて、とても立派になったの。連れて行きたいけれど、お母さんをおんぶしてお城にのぼることなんて、とても無理だわ」
 いかにも残念そうに、そう声を張り上げた。
 隣にいた兄の良一が母を慰めて、
「後で、タクシーで通るから、そのときに城内に入れば、それでいいだろう」と言い足した。もう兄弟の誰も母を背負う体力のある者はいない。
「お母さんはきっと天守閣に登りたいのよ」
 と下の弥生子姉さんが、母の耳には聞こえぬ小声で、長姉と兄のあいだに立ち、何やら話しこんでいる。
 弟の茂三は墓地の中ほど入りこみ、幾列にも並ぶ墓石に彫られた名前を目にしながら、あちこちと歩き回っていた。一歳でこの地を離れた末っ子の茂三には、この場所には何の記憶もなかった。
 亮二と茂三はこの寺の敷地にあった家で生まれたが、亮二の方は五歳まで小高いこの丘の上で育った。
 亮二はむかし妻の文子と二人でこの寺に訪れたとき、この墓場の墓石に乗って、和尚さんの奥さんにこっぴどく叱られた頃の体験を、文子へ面白おかしく話したことがあった。小山のいただきに夏の日がじりじりと家族みんなの全身に当たり、じっとしていると顔から汗が滴りおちた。
 
 小高いこの山は、むかし、掛川城を攻めようとした徳川家康が陣地を構えたところで、江戸時代に日光東照宮に似せた三代将軍家光公の霊廟が建てられた。この建物はいまでは県の重要文化財となって、明治の初めまでこの山は女人禁制の場所だったのである。
 戦時中のある時期、この寺の敷地の一角に川崎大師から疎開して家族が移り住んだ。その木造の家屋は既に影形もなく、雑草が丈高く繁茂し、その面影を知るすべはない。ただ家族が住んでいた家の屋上まで枝をのばし生い茂っていた椎の巨木は、昔と変わらずに黒々と枝葉をひろげ、いまも青大将が太い蛇のからだを這わせてでもいるようだ。その大きな樹の陰にあった家の跡地だけが、草いきれがする鬱蒼とした草木に覆われている。
 あれはいつのことであったろう。亮二が芭蕉の「幻住庵の記」を読んでいたときのことであった。
先ず頼む椎の木も有り夏木立
この最後の一句を読み終わったそのとき、亮二の頭に青空を背にしたこの龍白寺の椎の木が、はっきりとした輪郭をもって顕れたのである。幼年期の幻影のような記憶の突然のよみがえりを、亮二は不思議な体験として忘れることがなかった。
 疎開先であったこの龍白寺で生まれた亮二は五歳まで城下町のお寺の一隅に住み、木立に蔽われた丘のような場所で育ったのだ。                            夏の青空に丈高く背を伸ばした椎の木、兄や姉が樹の枝に吊したブランコを大きく揺すり、兄と一緒に蝙蝠や蝉を捕って遊んだ幼年期は、亮二の記憶に自然と一体になったような、平穏で明るい印象を残していたのであった。
 もし死後の魂というものがあるのなら、魂はこの場所へ必ず帰ってくるにちがいないと、亮二は秘かに考えないわけにはいかなかった。彼が妻とわざわざこの龍白寺へ訪れたのは、自分の生誕の地へ案内しておきたいという気持ちの底に、そんな死後の空想が絡んでいたからであった。故郷といえるほど長く居たわけではないが、東京へ出てくるまでに過ごした幼年時代が亮二には懐かしく思えてならなかったのだ。
 家族の皆は寺の新任の住職に逢い、お茶を啜りながら雑談を交わしていた。座布団の傍らに杖を寝かせ、腰を屈めた母はお茶を飲みながら、
「この静岡のお茶はほんとうに美味しいことね」
 と言っては、和尚へしきりと話しかけている。
 祖母のりう婆さんが眠っていたお墓に花と線香を供え、久方ぶりでむかし暮らした場所を訪ねることができた喜びが、母を元気づけその華やいだ声が部屋に響いて、今回の家族旅行を楽しいものにしているようだった。
 新しく築城された掛川城の天守閣はその小山から望めたが、母を連れて歩く距離にしてはあまりに遠かった。
 兄の良一が呼んだタクシーが、龍白寺のある坂下から小山へのぼり門前に着いたということで、家族一同が和尚さんとの別れの挨拶をすると、二台のタクシーは家族を乗せて、なだらかな山の斜面をおりて行った。
 木立のあいだを透かし、車の中から多くの墓石が林立している光景が亮二の目に飛び込んできた。
「あッ! 人魂が飛んでいる。恐い! 恐い!」
 そうした兄や姉たちの幼い亮二を怖がらせようとして、囃したて面白がる声に、必死になって長い階段を駆け上った記憶が、まるで昨日のように眼前によみがえった。
 そして、祖母のお骨が納めれられていた岡田家の墓がちらと目に入ると、亮二は祖母と自分が写った一枚の写真を思い出すのだった。
 それは暖かい日差しを浴びた椅子に座った祖母の膝に、照れたような顔をした幼い亮二が首を傾けて寄りかかり、円い眼鏡をかけた祖母の顔は穏やかな笑みをうかべて、いかにも戦後の平和のひかりが満ちているような写真であった。
 祖母は明治に生まれ、小さな頃には日清戦争の勝利のお祝いで、提灯を下げ旗を振って街を歩いたことがあると、亮二は母から聞いたことがあった。
 二台のタクシーが掛川の城下町のある場所に来たときだった。兄の良一の一声で旧い大きな建物の前で車は止まった。入り口の両側に石柱の門が立っていた。
「これがお婆ちゃんの親戚の人が建てた、大日本報徳社だよ。姉さんは覚えているでしょう?」
「そう、そう。ここの二階には広い集会室があった。そこに岡田良一朗さんの大きな肖像画があったわ」
「あの肖像画は明治の画家の黒田清輝が描いたものだよ」
 と以前にここを訪ねて知ったかで、タクシーの窓から首をだして、亮二がそう言うと、
「へエー。そうだったの。あなたはよく調べたのね」
 姉は感心したようにつぶやいた。
 亮二は祖母が亡くなるまで、蒲団の上で記していた「ノート」を母が亡くなると引き継ぐように姉から渡されたのだ。祖母によって記されたその「ノート」を、亮二は妻に手伝ってもらいパソコンで起こし直した。そこには祖母の記憶の断片が「ざんげろく」と銘打って記されていたのである。
 「ノート」はつぎのように始まっていた。
 「私は明治十三年に岡田茂平の長女として生まれました。其の当時は村でも中流の農家の家庭で何不足なく育てられてきました。」
 亮二はその「ノート」から祖母が生まれた岡田家へ関心を惹かれ、少しの調べもののため、この大日本報徳社へ一人で訪れたことがあった。
 門の陰になって見えないが、二宮金次郎の銅像が立っていることを、亮二は声にだそうとして言い淀んだ。そこに日本で最初の二宮金次郎の銅像があるなどと、声にだすことに何だか照れくささを感じたからである。
 玄関の石の門柱には、右が「道徳門」左が「経済門」と彫られているのが、古びた石の表面に読むことができた。
 報徳社は二宮尊徳の思想を受け継いだ弟子たちによって、全国に創られ、経済と道徳との調和による相互扶助精神に拠って立つ社会福祉の運動となって全国に広まった。その活動は特に飢饉に苦しむ東北の農村へ、尊徳の思想と共に裾野をひろげたらしい。祖母の本家からでた岡田良一郎という人は、その尊徳の高弟だったのだ。
 祖母は岡田家の分家に生まれ、嫁いだのもだいぶ遅れていて、夏には倉見川で泳ぐのが好きな、明星派の影響をうけた読書好きな文学少女であった。
 東京へ出て暮らすようになったあるとき、大学生の亮二の部屋に来て、トルストイの「アンナ・カレニーナ」(りう婆あさんはそう発音した)を読みたいので、貸しておくれと言われたのを、亮二は思い出した。八十に近い祖母が、わざわざ亮二の部屋にまで来て、そう言ったことには驚いた。そのときの祖母の顔にはうっすらと紅をさしたような、含羞の表情が浮かんでいた。歳をとっても祖母の頭はとてもしっかりしていたようで、畳に敷かれたままの蒲団の上で、腰を折り曲げてよく本を読んでいたことを亮二は覚えていたのだ。
 その亮二が面白半分に貸した「親族法」などという法律書まで、祖母は読んだらしく、
「変わった世の中になったもんだねぇー」
 という祖母の感想に、亮二はびっくりしたことさえあったのである。
 
 やがてタクシーは掛川城の門前に止まると、家族全員は砂利道を進んで城を仰ぎ見た。
「ほら、お母さんこれが新しくなった掛川城よ」
 芙美子姉さんは天守閣を見上げて母を促した。母は杖を支えにして、身体をのけぞらして空を見上げた。
「これかいのー。ずんぶんに立派になったものだぇー」
 母は手をかざしてお城の高みへ目を向けながら、しきりに感心している。その城の近くを川が流れ橋の赤い欄干がみえた。母が生まれた邸はこの川を遡った上流にあったのだ。
 母の話だと、徳川家に仕えていた先祖が将軍徳川慶喜公と江戸を離れ、駿府に下ったときに一緒に従い、今の退職金にあたる俸禄を貰い、それを元手に煙草業を営んだらしかった。それが面白いようにあたって、ずいぶんと豪勢な邸を構えて住んでいたらしい。邸の廻りに細い堀を廻らし、夜は用心に橋を上げなくてはならず、庭には縁側の下まである大きな池に、たくさんの鯉が泳ぎ、グミなどの庭木は季節ごとの花を咲かせていたという。しかし、明治政府は煙草業の経済的な成果に目をつけると、それをたちまち国有化して、民間から取り上げてしまった。それからは、煙草業は個人経営として成り立たずに坂を転がり落ち、とうとう立派な邸は売り払わなければならなくなった。
 祖母の実家の本家からは、大日本報徳社を起こし、また日本初の信用金庫の創立者でもある良一郎、その息子二人は大臣にまで立身していたというのに、祖母は気難しい夫と母を含む子供三人を連れて、川崎大師へ引っ越しをせざるを得ないことになった。
 母は幼年時代の豊かでのんびりとした生活と、それとは一転した倹約生活の厳しく余裕のない、光りと影の表裏の人生を送ってきたらしかった。そのためであろうか、母のなかには優しさと冷淡との両面があり、それが一種、屈折した表情をみせるのだった。
 東京の官庁で働いていた父の正三は、掛川の家には偶にしか顔を見せず、幼年期の亮二は父をほとんど知らずに育った。そのうち弟の茂三が生まれると、父の愛情はこの末っ子に向かい、母は疎開先というどこか居づらい生活のなかで、五人の子供たちの世話に忙しかったにちがいなかった。
 亮二は自然と祖母の膝に寄り添うような子供として、幼年期を龍白寺のある丘の上で過ごしたようだ。明治生まれの祖母の夢見がちでのんびりとした性格と、母から受け継いだ一風変わった屈折した性格の、両面を亮二が合わせもっていたとしても不思議ではない。
 母も祖母からの血筋か、無趣味な夫とは違って、俳句を詠み南画風の墨絵を描く趣味をもっていた。そのせいで、亮二は小さい頃に母から百人一首を暗記させられたこともあったのである。
 母が林芙美子という往時の流行の女性作家のファンであったことから、上の姉の名前に芙美子という名前を、下の姉に弥生子という名前をつけたのにはそれなりの理由があったのに違いない。
 兄の名前を良一にしたのも、祖母の本家の岡田良一郎からとってきたのであろうと思われた。
 母は自分の父方の祖先が徳川家に仕えた武士であることに誇りを持ち、自分の母の祖先からは兄弟で二人の大臣が出ていることで、ようやく自分の豊かな幼児期とそれ以降の下降時代との釣り合いを保ち、なんとか自分の血筋に一縷の望みを託していたらしい。しかし自分の夫が平凡な逓信省の官吏でしかないことに不満を懐いていたが、母の揶揄や皮肉にもかかわらず、夫は無神経なのか無頓着なのか、まったく気にしている様子はなかった。江戸から続く、下町育ちの父の正三にはそんなことはどうでもよかったのにちがいなかったのだ。

 母を乗せた二台の車は、掛川城下を一巡りしてから、掛川市から奥に入った祖母が生まれ育った倉見へとひた走っていた。倉見はむかし掛川では一番広い村であった。この村の庄屋の岡田家から、後に明治維新の地租改正で、政府を批判した自由民権運動の壮士を先頭に、一揆にまで拡大しそうになった紛争を仲裁したのが、岡田良一郎であった。
 まだ生まれていなかった亮二は知るはずもないが、倉見は祖母が生まれたところでもあり、戦時中には、家族が疎開していたところでもあったのである。
 亮二は以前に、祖母が生まれこの倉見というところがどんな場所で、家族が疎開していた村の様子を一目見たいと、妻の文子を連れてこの倉見の旅館へ泊まりに来たことがあった。
 旅館の女将に岡田家の名前を洩らし問わず語りに聞くと、
「岡田さんは昔は偉い人ということは、知っておりますが、今はどうなったかのー・・・・・・」と口を濁した。
 タクシーの運転手に同じように聞いてみると、
「岡田良一郎さんを祀った神社がありますから、ちょっとそちらへ行ってみますか。いまはもうだいぶ古びていますがなあー・・・・」
 そう言って、車が止まったところで、亮二と妻が運転手が言った社を見ると、汚れて埃だらけの建物はどうにかやっと立っているというありさまで、亮二は身の置き所を失った。
 今ふたたび家族が乗った車が倉見に入り、亮二が運転手へその神社を訊ねると、そうした事情にはまったく疎い様子で、別の運転手も何の反応も示さない。亮二は車を降りて辺りを歩いて捜してみたが、もうあの社は幻影のように消え失せてどこにも見つけることはできなかった。
 二台の車が畑の中に延びた真っ直ぐな細道へ入ると、その突き当たりに「倉見館」の玄関が見えた。
 旅館は新装されて、高級そうな店構えに変わっていた。亮二を先頭に家族の全員が玄関に入ると、若い女将さんが顔をだした。
 亮二はその女将さんへ以前にこの旅館に泊まったことを話し、玄関に立って皆で中を眺めさせて貰った。だがむかしの面影はどこにもなく、いかにも現代風な内装に様変わりして、亮二を幻滅させた。
 あのとき、亮二夫婦は二階の一部屋に泊まった。夕食を部屋で食べながら辺りを眺めると、外はいかにも掛川の奥座敷の風情を漂わせ、田舎というより広い邸の庭という感じで、闇が辺り一面をすっぽりと包み、遠くの田圃から蛙の鳴き声がにぎやかに聞こえてきたのである。
 亮二はこの蛙の騒がしいほどの鳴き声を、自分が幼少に慕った祖母もきっと耳にして育ち、成長してきたのにちがいないという、ほのかにこころ温まる安らぎを感じたのだ。近くのせせらぎで泳ぎ、年頃になっても嫁がずに、「アンナ・カレニーナ」を読み耽っていた文学少女の祖母がいたことを、そのときたしかに感ずることができたのであった。
 だが今回改めて家族とともに母を連れて、祖母が育った場所までわざわざと来てみれば、もうそこには祖母がいた記憶を思い起こされるものはなにもなかった。ぷっつりと懐かしい過去は断ち切られ、新品なだけで無惨な残骸が、目のまえに立ちはだかっているだけなのである。
 老いた母はぽかんと口を半分開けて、辺りを見廻してたが、そのまま固まったように肩を落とし、杖で身体を支えてようやくのように立っている。
「亮ちゃん、もういいよ・・・・」
 二人の姉も兄も、来ても甲斐ないところへ来てしまったとでもいう、虚ろで呆けた様子を夏の光りの中に晒していた。
 祖母が育った倉見の村はもうどこにもなく、一時、姉と兄たちが母と共に疎開したという場所がどこにあるのか、母にもまるで検討がつかないのだ。
 兄がこの疎開先で畑の肥だめに落ちたという場所は、この倉見であったらしいのに、その疎開先の家がどの辺にあったか、その記憶は曖昧模糊としていたことといい、亮二はなんとももどかしく、不甲斐ない思いをしたのであった。
 交通事故で亡くなった弥生子姉さんの娘の法事で、兄の良一が宝くじで大金を当てたという話しに、茂三が良一兄さんは肥だめに落ちたことで、「それで運がついているんだ」と冗談を言ったことがあった。倉見の村はそうした兄良一の滑稽ともいうエピソードを思い出させる場所でもあったのである。
 あの十数年まえに、亮二が「岡田家」の名前を出し、そのときそれでなんとか反応してくれた女将さんは、もうどこにもいない。あの朽ち果てた神社へ連れて行ってくれたタクシーの運転手も、もうこの世の人ではないのであろう。
 亮二夫婦が一泊したむかし、翌日の午前の朝食を摂ったあとのことだった。旅館の女将さんがどこからか現れた年寄りの女性グループ数人と共に、亮二夫婦を近くの山へ案内してくれたことを、亮二はふと思い出していた。
 道端にコスモスの咲く畑道を歩き、二人は女将さんの後を就いて行った。高い山ではなかったが、細い山道のところどころに地蔵が並び立っていた。女性たちは地蔵の前に来ると、供物をだして拝んでいるのだった。そうした光景が、恰も夢のように亮二によみがえった。
「この村から戦争へ行って帰ってこなかった霊を迎えるために、むかしこの村の小山に、こうして地蔵さんをつくったんさのー」
 そう説明してくれた女将さんの声までが、亮二の耳の奥から木霊してくる。
 あのとき、亮二は祖母の古里へやって来た甲斐があったと安堵したが、それはどうしてなのだろうか。祖母とその先祖が女将さんを介し、あの山へ亮二を呼んだのかも知れないという想像が亮二に沸き起こったためでもあろうか。
 女将さんが近くの山に行くが、よかったら亮二たちも一緒に行かないかと誘われたそのとき、亮二の中に祖母の記した「ノート」に、祖先の岡田良一郎が生前に、倉見村にある「淡山」という山を愛し、号を「淡山」としていたという記述があったことが、頭に浮かんだのだ。女将さんの誘いに逡巡することもなく、妻と不思議なそのグループに同行をしたのはそんなノートの記述が彼の脳裏に過ったからであった。
 後年、その話を亮二が兄にしたところ、兄はやはり母の弟の忍伯父さんに誘われて登った俗名「淡山」へ、倉見に疎開していた頃に行ったことがあるという話を亮二は聞いたことがあった。兄の話しではその山の上で、忍伯父さんは大声で何事かを叫んでいたそうだ。十年前に岡田良一郎の神社だとタクシーの運転手に案内された神社が、「淡山神社」という名前だったことを、亮二はあらためて思い出して不思議な因縁を感じたのだ。
 伯父さんは七つも離れた母の弟であった。プロテスタントの伯父さんは、いつも聖書を小脇に抱えていた。青年時代に内村鑑三にいたく傾倒していた伯父さんは、牧師に成りたかったらしい。それを父をはじめ家族そろって反対されると、ある日家を出たまま行方知れずになった。大学を七年もかかって卒業し、ようやく父のツテで大手の鋼管会社に勤めだしたというのに、突然、辞表を出された会社も驚いたようだ。一番に怒ったのは父の正三だった。それから七年ばかしが経ったある日の夕暮れ、伯父さんは祖母のいる母の家の前に、ぼんやりと立っている姿を、母が偶然に見つけたということだ。
 母の話しでは、そのときの伯父さんは乞食同然の風体だったらしかったが、痩せ細ったその顔は、まるでキリストのように苦悩に捩れながら、なんとも言えない威厳と美しさを湛えていたらしい。母はその変わり者の弟を黙って我が家に受け入れた。しかし、内心はそれほど穏やかなものではなかったのだ。
 時あたかも日華事変から本格的に中国との戦争状態になったが、その中国から東アジア全域に戦争が拡大する一方であった。その戦争もだんだんと雲行きがあやしくなりだしたころで、まるで伯父さんが帰ってくるのを待っていたかのように、召集令状が壮年期にさしかかった伯父さんにも届いたのであった。痩せこけた忍伯父さんが重たい銃を担ぐ姿は誰にも想像することができなかったほどなのに、伯父さんはまるで聖書にあるあの十字架を担ぐイエスのように、その命令を受け入れ従容として朝鮮に渡ったという。
 亮二の父の正三も軍隊に召集された。だが一冊だけ残ったアルバムに写っている正三は白い医者が着る上っ張りで、内地勤務のため日本から外地へ赴くことはなかった。母から聞いた話しでは、軍医の真似事のようなことをしているうちに、戦争は終わってしまったというのだ。さすがの父の正三は、このときばかりは自分の妻の弟の忍伯父さんへの同情を禁じえなかったらしい。
「あいつは大学へ七年も通い、いい会社へ就職させてやったのに勝手に辞め、こんな時期になって、外地の戦場へ行くなんて、自分から死ににいくようなものじゃないか。ほんとうにあいつはバカな奴だ」
 外でご馳走になりながら、帰宅してまでもまたお酒を飲みだしながら、父は母へそう言った。
 気の強い母はこれには腹を立て、自分の弟がコケにされたと思ったためか、
「外で飲んできて家に帰ってまたお酒を飲むのは止めてください。わたしの弟はあなたから見ればバカにみえるかもしれませんが、小学校では級長で通した子だったの、大学で本ばかり読んだせいで変人になったんです。ナントか鑑三かジンゾウか知りませんが、その人がいけなかったのですよ。酔った勢いでつまらぬことを言わないでください」
 と大声を張り出して涙を拭った。その突然の母の様子に酔いがすっかり醒めた正三はしゅんと黙ってしまった。

 この実子の忍伯父さんを、幼児のごとくいつまでも溺愛していたのが祖母のりう婆さんであった。
 敬虔なプロテスタントの忍伯父さんが、家を出てから何をして暮らしていたのか、祖母や母が訊いても答えはなかった。ただ放浪癖のある忍伯父さんは、九州の島原半島まで行ったことまでは覚えていたが、防波堤で寝ているうち、波にのまれそれからの記憶がまるでなくしてしまったらしい。七年ほどのあいだの記憶のない忍伯父さんが、以前の記憶を取り戻したのが、やはり島原の海辺であったのは、単なる偶然の一致というものなのか、不思議でならないと、その話しを伝え聞いた兄の良一は幾度も首をひねっていた。その後も忍伯父さんの聖書を抱えての放浪癖は、アメリカやインド、そしてヨーロッパの世界中に及んでいたらしかった。
 亮二と弟の茂三は、小さな頃からこの伯父さんが、分厚い英語の聖書を小脇にかかえ、食事前に何やらムニャムニャと言うのが面白かった。胸の前で手を十字に切る仕草は、まるで忍術使いのようにみえた。伯父さんの名前は「忍」と書いて「しのぶ」と読んだのだが、二人は子供の頃から、この伯父さんをニン伯父さんと呼んでいたのであった。
 母が亡くなってから、このニン伯父さんも、母を追うように鬼籍に入ったが、どうにもこのニン伯父さんの人生行路は、謎につつまれ理解することが難しいところがあった。
その忍伯父さんが朝鮮から裸同然の姿で内地に帰ってきたのはまるで奇跡としか思われないものだった。

 ニン伯父さんが亡くなった数日後のある夏の日、亮二が自宅の階段を降りた所で、玄関を開け放って夕風に涼んでいると、ニン伯父さんが亮二の傍らに立ち、ニタリと頬笑む顔と姿を見たのだった。青白く細いネオンの管を身体中に光らせて自分を窺うその異様な姿に、亮二は気味悪くなりキッチンにいた妻の文子の名を呼んだ。するとニン伯父さんの姿は消えていた。そんなことがあった。
 
 タクシーで掛川市に戻ると、家族一同は掛川城を望む大きな料理店の二階で食事をとった。座布団を並べ、母を横たえさせ、皆しばしの休息をとった。母の眠り顔が祖母にそっくりに見えたのには、亮二はおどろいた。
 父が他界してから、退職後に父が郊外に建てた家に母はひとりで住んでいた。一時は兄夫婦のところで一緒に暮らしたが、幼少の頃の我が儘いっぱいの性格は、兄嫁との共同生活をうまく運ばせなかったようだ。
 それでふたたび父が亡くなった後も、独り長い間暮らしていた家に舞い戻った母はそこで近所の友人たちと、百人一首をとりあったり、南画を教え俳句を詠み、けっこう晩年のひとときを楽しんでいた。そこに突然予告もなく、扉が開いて母の弟の忍伯父さんが訪ねてきた。驚いた母はストーブの上の煮たったヤカンに、服の裾をひっかけてしまった。倒れた母のうえに煮え湯がかかり、大火傷をした母は救急車で入院した。あわやというところで一命は取り留めたが、以来、一人で生活していくことはできなくなった。それ以来、忍伯父さんは母のまえに姿を現すことはなくなったのだ。そんなことがなくても、母は忍伯父さんが戦争中、母が大事に甕に入れて庭に埋めておいたアルバム数冊と誉伯父さんの遺していった遺品を、わざわざ外へ出してしまったために、空襲の火事でその全部を焼いてしまったことから、忍伯父さんを恨んでいたようだ。そのアルバムにはお婆さんの祖先の面々の写真やら遺品がたくさん仕舞われていたらしいのである。
 掛川にあった邸の写真はもとより、岡田良一郎とその息子たちも、そして鳥羽伏見の戦いに参じた祖先の写真もあった。それらのすべては灰燼に帰してしまった。母の嘆きはそれだけではなかった。子供の頃から周囲を驚嘆させたほど、あらゆる才能を見せながら、二十代の若さで夭折した母の兄の写真もそのアルバムにあったのだ。落ちぶれたとはいえ、徳川家に勤めた祖先の内には、日本画の芸術院会員から、内務省参事までの錚々たる人達がいたという。大事なアルバムはそれら一人ひとりを指呼することができたものであった。それを乞食同然の風袋で家に戻った忍伯父さんのせいで、何もかも失ってしまったのである。
 高齢の祖母が、法律書から戦後の変わりようを得心した背景には、母みつの深い喪失感と表裏の関係があったのに違いなかった。だが明治生まれの祖母には、夭折した長男以外に惜しまれるものはなにもなかった。祖母の綴った「ノート」には、誉という名前のこの長男がいかに優れていたかが面々と記されていた。このところだけは祖母にしてはめずらしい筆遣いが為されていたため、それだけ印象的な記述になったのだろうと、亮二には思われた。
 誉伯父さんは忍伯父さんとは月とスッポンほどの違いがあるというのが、母みつの決まり文句であった。忍伯父さんは大学に七年も通ったが、心臓病だかで死んだ誉伯父さんは、独学であらゆる分野の知識を自分で学んだらしい。日本が泥沼の戦争を東アジアではじめたが、その惨めな敗戦を早くから予想していた。また祖母譲りの文学的な才知を発揮し、全国の詩人たちを糾合する詩誌の主宰者でもあったらしい。そのうえ泉鏡花の影響の色濃い、浪漫的な文飾でお能の創作もしていたようだった。それは自分の夭折を予感した者にしか書けない霊妙な筋立てであった。

 誉伯父さんは独学でフランス語を身につけ、中江兆民が訳したルソーの「社会契約論」を原書で読み、自由民権運動の研究家との交流もあり、そうした縁からフランスのさる人との文通でのやり取りもしていたようである。
 その人はガブリエル・ロワイヤルというフランスの歴史学者であった。ガブリエルという人は、フランスの東アジアでの植民地の研究をしていたが、傍ら日本の歴史と文化にひそかな関心を寄せている人でもあったらしい。
 パリ発祥のシテ島に館を持っていたある貴族のサロンで、詩人のイエーツが自身で書いた「鷹の井戸」というお能の創作の話しを聞いたガブリエルは、日本への好奇心も手伝って是非それを読みたいと矢も立ても居られなくなったらしいのだ。早速、その本を手に入れると読み始めた。いかに日本文化への好奇心があるとはいえ、日本人でさえ歌舞伎と較べると、それほどに大衆化されていないお能という舞台芸術が理解されるわけではなかったのだ。
 ガブリエルから、日本にいる友人の誉伯父さんへ分厚い手紙が届けられた。伯父さんは日本中世の歴史の背景から、日本の伝統芸能一般をさらりと説明した後、お能の概要を述べ、フランス語に訳した「羽衣」の原稿と実際の演舞の写真を添えて、異邦の友人へ送ったという。
 このガブリエルには息子がいた。長じて外交官となった息子クロードが日本へきたのは、第一次世界大戦が終わり、パリ講話会議後、日本が満州へ進出する頃であった。父の影響から息子クロードも知的好奇心が強かった。外交官であったクロードは日本の対外進出の情勢を探るという外交任務から、時の枢密院議長の一木喜徳朗と一夜懇談のときを得たらしかった。一木は欧州への留学経験からフランス語が話せたのである。この一木は祖母の本家、岡田良一郎の次男で一木家の養子となった人である。時あたかも天皇機関説問題で紛糾していたが、美濃部達吉にそれを鼓吹したのは行政法の泰斗であったこの一木喜徳朗に他ならない。後に、二・二六事件が起きると、昭和天皇からの信任の厚かった一木は一時、内務大臣を拝命されたということだ。
 クロードには故国フランスに十歳になる一人娘がいた。この娘の名前はエミールといった。エミールは幼少からクラシック・バレーを習っており、祖父のガブリエルの感化もあって、日本文化へひそかに興味をもっていたらしいのだ。誉伯父さんが送った「羽衣」の諸資料は、偶然にも祖父のガブリエルから父のクロードを経てその後舞踏家になったエミールの手に渡ったのだ。エミールは東洋、特に父が赴いた日本への憧憬を強めていたのである。その後、マルセル・ジュグラスなるまだ若い外交官に是非にと求められて、エミールは結婚したが子供はなかった。エミールは、有名なイサドラ・ダンカンの弟子となり、絵や音楽、舞踏や劇、また、パントマイムまで勉強していた才女であったらしい・・・・。

「さて、そろそろ出発しますかね」
 という兄の一言で、家族一同は休息をやめて起きあがった。近くの逆井川の川音が聞こえ、そこから吹いてくる涼風が全員の気持を活気づけたようだ。
「どこへ行くんですか」
 母はまだ眠りから覚めていならしく、はっきりとしない声を出してそう言った。
「お母さん、これから暑いけど、お婆さんのお骨が入れられているお墓を見に、袋井へ行き、今日の夜はみんなでホテルに泊まるのよ」
 上の姉はそう言うと、気の強い母はすこし皮肉まじりに、
「はい、はい、老いては子に従えというからね」
 よろよろと母は杖を支えに立ち上がった。小さくなった母の黒いワンピースを着た姿はあたかも羽根をふくらませた雀のようである。
 兄はタクシーを呼んで、皆が料理屋をでると、夏の日差しはまだ弱まることもなく、ジリジリと皆の肌を灼くようであった。
「さあ、さあ、タクシーに乗って乗って」
と、兄と姉は皆を急き立て、二人の姉は母を連れて車の中へ姿を消した。その後に、兄と亮二と茂三の三人がもう一台のタクシーへ乗り込んだ。
 車の中は冷房が効いて快適だった。
「お母さん、よく見ておいて下さいな、掛川城はこれで見納めですからね」
「そうね。山之内一豊さんがいたお城だったわね」
 母は祖母に似て普通は忘れてしまう固有名詞をよく記憶していた。やはり頭はしっかりしている血筋だったのである。
 運転手が気転を利かして、車を城がみえる場所へ寄せた。
 天守閣と太鼓櫓、西の方角には二の丸御殿が見えた。
「ああ、この二の丸ではよく遊んだものだ」
 兄が感に堪えぬように嘆息した。
 市は天守閣を中心に城の修理を終えると、城下町の環境保全のために電信柱を埋設する工夫を凝らしたようで、城下は昔の風景を残しているのだった。
 少し走ると、運転手の声がした。
「左手に新しい図書館ができたんですよ」
 亮二はすぐこれに反応を示した。たしかにそう高くはないが、立派な建物の側面が目に入った。
 このとき、亮二の頭を過ぎったのは、大日本報徳社を訪ねた昔、すぐその近くにあった市立の図書館を訪ねたときのことだった。その図書館は殆ど粗末な建物であったが、隅のコーナーにずらりと背表紙を並べた「二宮尊徳全集」を見たのである。亮二は予想もしなかったその光景が忘れられなかった。その尊徳の高弟が祖母の本家筋の祖父、岡田良一郎であったことが、報徳社の二階の大広間に見た肖像画と共に、改めて眼前によみがえる心地がしたからだ。
 兄良一の話しだと北九州にある福沢諭吉記念館に、岡田良一郎からの手紙があるとのことであった。幕末から明治の時代という一国の変革期には、立志伝中の人物が互いに親交を重ねていたという、現在では想像できない熱い時代があったことを、こうした一事から知らされる思いがした。
 東京へ帰った亮二は、掛川市長宛に手紙を書いた。その内容は、市の図書館の建て替えと、二宮尊徳全集の保全を訴えたものであった。やがて、亮二の元に一冊の本と手紙が送られてきた。その市長からの本類はどこかへ散逸してしまったが、亮二の訴えは車の中から見える新築の図書館によって、市長へ届きその功を奏したことが証明されたように思われ、亮二を喜ばせた。
 家族を乗せた二台のタクシーはさほどの時間もかけずに、袋井へ到着した。墓所は小山の前にひろがっていた。まだ墓もない空き地が、直射日光を浴びて乾いた地面を晒している。
 忍伯父さんが様々な苦労の末に建てた墓石は、黒い御影石で作られて潅木の間にひっそりと立っていた。
「これよ、お母さん」
 芙美子姉さんが母を呼んだ。日傘を弥生子姉さんが持ち、母の頭から夏の容赦ない光りを防いでいた。皆は一様に額の汗を拭きながら、黒光りした墓石をただ茫然というように眺めている。
 その黒い墓石をみながら、母と共に家族のそれぞれがなにを思ったのだろう。こんなにも緑の少ない、ただ広いだけの墓地の片隅に、まるで丸裸にされたように立つ墓石に祖母の骨は入れられてしまったのかという、なにか荒涼とした気持ちだったのにちがいない。
 掛川の龍白寺は鬱蒼とした緑の小山の上にあり、本家の墓と並び立っていたのに、この袋井の墓地は平坦な敷地で、素っ気ないような孤立感が漂っているだけであった。たとえ死者とはいえ、すこしでも見晴らしのいい場所がよいのではないだろうか。ことばには出さないが、それが家族一同のこころに過ぎった感慨であった。
 みなの沈黙へどこからともなく、蝉の啼き声が響きわたっていた。
 そのとき、一匹の揚羽蝶が白い羽根をひろげて、墓石の上をひらひらと舞って、母の目の前で墓石の角にとまった。まるで扇を開いたような大きな蝶であった。
「こんな揚羽蝶は見たことがない!」
 良一は驚いて叫ぶような声をだした。むかし昆虫採集に余念のなかった兄がそう言うのだ。たしかに黒い羽根の揚羽蝶なら、いくらでも見ていた亮二と茂三も、その良一の訝しげな声に反応して、白くて大きな揚羽蝶をみつめずにはいられなかった。
 すると更紗のような薄い羽根を透かし、青空を映じた羽根を衣のように翻して、アッというまに蝶は宙空に飛び立ち、大空に吸い込まれるように姿を消した。
 母は手をかざしてその後を目で追った。
「いま来たのはりう婆さんだわ」
 母はまるでその墓石のうえに、お婆さんを見たかのように、妙なことをひとり呟いた。
 龍白寺からこの袋井の墓所へ、祖母の先祖代々のお骨が移ることについては、それ相応の理由があるに違いなかった。いや岡田家だけではなく、龍白寺の檀家たちはそれぞれが、新しい墓所へ引っ越しを余儀なくされていたのだ。
 母はそうした背景となった理由を知って憤慨していたが、それは既成の決定事項であった。それを漏れ聞いた姉たちは家族一同の意見を集約して、住職に掛け合うようなことをしたが、新任の若い住職は一向に、耳を傾ける気配もなかった。この件では一番苦労したのは忍伯父さんだった。
 高齢の母は遠くから弟である忍伯父さんに、すべてを託していた。
というより祖母の先祖代々の墓所について、その責任者は忍伯父さんしかいなかったのだ。その忍伯父さんは敬虔なクリスチャンであった関係で、忍伯父さんの戸惑いは一様のものではなかったらしい。
 檀家たちの意見もまとまりもないまま、時が過ぎるにつれてそれぞれの家は見切りをつけて、新しい墓所を探すしかなかった。また、天台宗の総本山では、寺の采配は住職任せの態度であり、住職の方針は変わらなかったのだ。忍伯父さんも龍白寺から出て、お墓の新しい移転先を袋井に決断することになったらしい。
 広い丘陵は夏の日差しに炙られ、陽炎が立っているのか、さして多くない墓石は、潅木のあいだに揺れて漂いだしていた。家族の一人ひとりが、口をきく気力もなく、とだえた風と大地からの熱気に、意識は朦朧として来ていたのであった。
 その白昼夢のような墓所で、亮二は母とは違った思いで、死んだ祖母の姿を見たような気がしたのである。その思いとは、祖母が家族と一緒に官舎住まいをしていたある初夏の庭での記憶が亮二にまざまざと甦ったことにあった。
 母が庭で洗濯物を干していた。その傍らで、腰を曲げた祖母が佇づみ、紋白蝶が一匹飛んできて、しばらく祖母のまわりでひらひらと舞っていた。やがてその蝶はうつむいていた祖母の背中に羽根を休めるように止まったのだ。祖母が庭を歩いても、初夏の日差しをうけた蝶は、そのまま祖母の背中の上にとまったまま、じっとして動かなかった。そうした亮二の子供の頃の記憶が、いま現実のごとくに亮二の目の前に映っている。
「お婆さん」
 思わず亮二は声にだして、祖母を呼んだ。祖母は亮二のほうへ顔を向けるとにっこりと頬笑んだ。相変わらず母は洗濯物を干すのをやめない。その母の横顔が見え、ほつれた髪がかすかに風に揺れている。
 祖母は庭に背高く生えた枇杷の樹を見上げて言う。
「ほう、こんなによく育ったものだ」
 その枇杷の樹は、祖母が掛川から東京へ引っ越して来たときに、まだ小さかった苗木を持ってきて植えたものだった。その枇杷の下に亮二は中学生の頃に小さな池を作った。その池の水面に赤い金魚がぱくぱくと口を開けて泳いでいた。兄が拾ってきた黒猫が、池の縁でその赤い金魚をじっと目で追っていた。
「クロ! 駄目だぞ! そいつはおまえの餌じゃないぞ」
 亮二がそう言った光景を思いだしたそのときだった。
 みんなが休んでいる木陰の、墓地の細い道のあいだを一匹の黒猫が走り、大きな墓石の陰に消え去った。
 そして、祖母の背中にとまっていた蝶が羽根をひろげて飛び去り、真夏の空のかなたへ吸い込まれたのを見たのである。
「どうしたの?」
 傍らにいた弥生子姉さんが、亮二を訝しげに見やっていた。
名前を呼ばれて、亮二は初めて我に返ったかのように、現実に引き戻された。
「兄さんには、クロがみえましたか?」
「ああ、さっき墓石のあいだを走っていった猫だろう。あいつはわたしが拾ってきたクロ、長い尻尾といい、金色の目までもまったくそっくりな奴だったなァー」
 兄は遠くをみるような眼差しで、懐かしそうに言った。
「祖母もいた・・・」
 そう口に出しそうになって、亮二ははじめて自分が見た祖母が、幻想の風景に存在していたものと知って、奇妙な心持ちになったのである。

 家族はみな陽炎の立つ暑気に、ぐったりとした顔をみせていた。
「さあ、お母さん、これでいいでしょう。みんなも帰ることにしましょうか」
 芙美子姉さんの一声で、日差しを避け陰を捜して散っていた一同が、母を中心によろよろと集まって動き出した。
 だが亮二は家族一同の後ろからゆっくりと歩いていた。
 そして、一、二度と祖母をみた墓所のあたりを振り返り、一本の高い潅木の上にひろがる中空へ目を注いだ。もしかしたら、もう一度あの白い衣を翻すように、大きな羽根をもった揚羽蝶をみることができ、腰を曲げてゆったりと庭を歩く祖母に逢えるかも知れなかったのだ。
 
「亮ちゃん、ここで少し休ませておくれ」
 お婆さんは先を行く亮二にこう言って、立ち止まらせた。
「また休むの、もう三度目だよ。お婆ちゃん」
 子供の亮二は不満気に、後ろを振り返ってそう言った。祖母は自分で自分の不甲斐なさを嗤うかのような微笑を、皺くちゃな顔の高くて大きな鼻によせて、亮二を仰ぎ見ている。
 瓦礫の石のうえに腰をおろし、杖を立ててその頭に両手を重ねてのせていた。指の長い大きな手だった。骨が浮き出た指も皺がいっぱいだ。祖母はあのとき、どこへ行こうとしていたのだろう。
 官舎を出てから写真屋の角を曲がり、亮二が小学校へ通う道の途上だった。まだ東急目蒲線の駅に至るまえの路上であった。そこをまっすぐに駅を渡り終えると不動前銀座商店街に入るのだ。銀座商店街と言っても、六メートルばかりの幅、道の両側には乾物屋や雑貨屋、果物屋やパン屋などがひしめくように並んだ曲がりくねった道路が二百メートルほどつづき、ちょうどその真ん中辺りに亮二が通った小学校の裏門があった。
 ある日、小学生の亮二が日曜日であるにもかかわらず、この校門をよじ登って越えていく姿があった。カバンを背負って家の玄関を出る亮二に家の誰も気づいた人がいなのも可笑しなことだったが、亮二はその日が学校が休みであることをすっかり忘れていたのである。それは高校の体育のバスケットの授業で、敵のバスケットへボールを投げ入れようとしてクラスの失笑を買ったことにも窺える、どこか忍伯父さんに通じる亮二の特異な性格に相応しいエピソードであったろう。
 その商店街が尽きるところで、かむろ坂という名前の坂道と交叉していたが、さらに道なりに進んでいけば、目黒のお不動さんへ行くことができた。毎月二十八日がお不動さんの縁日であったが、不思議にこの日になると雨が降るのだった。その縁日の通りを亮二と弟の茂三が遊びに行く途上、両足を失くして路上に伏す両眼に白いガラス玉を入れた傷痍軍人を見かけるのだった。兄の亮二も弟の茂三もできるだけ見まいとしながら、怖いもの見たさで彼等から目を背けることが出来なかったのである。バンドネオンから聞こえる物悲しい音曲がそれに拍車をかけて来るのである。このお不動様の縁日で黄色い羽根のひよこを数匹買ったことがあったが、朝になると目を白く瞑った小さな死骸を見つけて幾度悲しんだことだろう。
 ある日のことだ。トイレから母親の絞り出す声が聞こえてきたことがあった。傍らに、ズボンやパンツを脱がされ、泣きべそをかいている茂三が立っていた。なにやら大きいものを漏らしながら、ランドセルを背負って家へ帰ってきた茂三のからだはそこらじゅうが汚物で汚れていた。母は悲鳴と怒りをまじえた嘆き声に喉をつまらせ、それに啜り上げる茂三の泣き声とがいっしょになり、廊下にまで聞こえてくる。そんな光景が、また思い出された。
 三つ年下の茂三は、亮二が遊ぶときとなると邪魔くさく面倒でならなくなるのだった。
「もうおれの後ろから、ついて来ないでくれ」
 そう言いながら、亮二は茂三を睨んで小石を手にした。だが茂三は兄のいうことを聞こうとせずにいつまでも亮二にまとわりついた。癪に障った亮二が当たるまいとヒョイと茂三へむけて投げた小石が茂三の顔へ命中してしまった。これには亮二も驚いた。小石は茂三の前歯の一本を欠けさせてしまい大人になってからも茂三の前歯の端っこにその痕跡が小さな穴になって残ってしまった。
 弟を連れて多摩川に釣りに行ったときには、兄の亮二は弟の茂三が川に落ちるのではないかと気が気ではなかった。だがそんな兄の心配が弟に通じるはずもなかったのである。
 五人の兄弟姉妹は、互いに睦み合いながら、喧嘩もよくしたのであった。
 兄の良一と長女の夫美子のそれは、兄に突き飛ばされた夫美子姉さんが尻餅をついた丸い卓袱台が二つに割れる大騒動であった。
 亮二は兄の良一とも取っ組み合いの喧嘩をした。とても広いとも言えない官舎が九軒並ぶ五反田の家からは、芙美子姉さんの泣き喚く声が、隣近所に響き渡って聞こえていたものだ。

「お婆ちゃん、どこへ行くのさ?」
 また、杖をついて歩き出した祖母に亮二は訊ねた。
 祖母はなにも言わなかった。その瘤のような背中に、また白い紋白蝶がとまっていた。祖母は黙ってその腰をのばして空を仰いだ。紋白蝶はその空に舞い、高く上がって消えていった。祖母の顔にかかった眼鏡の丸い硝子に青空が映り、青い空には昼の月がぼんやりとうかんでいたのである。

 車の中にいた母も祖母と同じような杖を前に立て、その柄に両手を重ね、頤をもたせながら、
「どこへ行くんですの?」
 と母は芙美子姉さんへ訊ねた。
「簡保の宿へ、これからみんなで行くんですから、お母さん、もうすこし辛抱して下さい。直に着きますからね。着いたらお風呂に入ってからだを休めましょうね」
 母は黙って頷いているようだった。目を閉じてもう半分眠っているのかも知れない。
 宿泊先は焼津港を見渡す高台にあった。夏の海が太陽に燦めき、地平線は遠く霞み、一艘の巨船がゆったりと水平線を移動していた。
 広いガラス窓をのぞいてみると、眼下で波がしらが岩礁に砕け、青い海に白い泡を溢れさせている。
「なかなかの絶景じゃないか。子供に見せてやりたかったな」
 茂三がガラス窓に額を寄せて、いかにも残念だというように言った。
「ほんとうに素敵な眺めね」
 弥生子姉さんが賛同したように言った。

 四歳年下の茂三が、龍白寺の家光霊廟まえにひろがった野原に座っている一枚の写真があった。あたまの大きい弟の一歳ほどの顔が両手を叩いて笑っている。弟が座っている足元に、木製の電車の玩具が置かれていた。
 たった三年のあいだに、日本の復興はすさまじく、東京で父はその玩具を買い、一番末の茂三の土産にと掛川へもってきたのにちがいなかった。
 亮二はそのおおきな玩具をまえに喜んでいる弟への嫉ましい気持ちを、じっと我慢をしていた。そして三十年ほどの後、こうして意識の海の底に沈んでいた記憶が、ひょっとした拍子に浮かびあがることがあるものなのだ。
 それは七十を優に超した母がある病院へ入院中の出来事だった。亮二はその母を見舞った。が病院にいるはずの母がいない。近くに住む茂三へ携帯の電話を入れると、母は茂三の家に引き取られていたのだ。
 やがて新品の黒いワゴン車が亮二が待つ病院へやってきた。
「どうしておれに、母は病院にいないと知らせてくれなかったんだ」
 茂三はそれには答えない。早く車に乗ってくれと言わんばかりの無愛想な様子だ。そのうえ、新車が汚れるといけないので、靴を脱いでくれというのであった。
 亮二は母を盗られたような憤りに心おだやかでなかった。そのうえに、亮二が買ってもらったこともないあの大きな玩具のように、茂三は母から新車のワゴンまで買って貰ったのだ。茂三の家に入るなり亮二の怒りは爆発した。
「まあ、どうしたの? そんなに怒って」
 と隣の部屋で蒲団に横たわっていた母が亮二を慰めた。いつしか亮二の両の目から止めどなくあふれだすものがあった。
 母はなにを思ったのか、泣きじゃくる子供をあやすように、亮二を自分の蒲団へ誘う仕草を見せた。とたんに三十数年の歳月を飛びこえて、母は亮二のまえに女親として現れたのである。亮二にすげなくしていた母の愛情の代わりに、亮二が祖母へともとめたものが数十年の歳月を隔てて、想像するも恥ずかしい仕草に現れたことが、亮二には滑稽であり、怺えがたい悲しみでさえあったことなど、老い衰えた母にわかるはずはなかった。
 あの激しい亮二と茂三の兄弟喧嘩は、いつのことであったのか。もう二人の記憶からは遠いものになってしまっていただろう。だが亮二の茂三への遙かむかしの妬みの記憶が、どんなきっかけで甦ってくるものかそれは誰に分かるはずのものではなかったのである。

 部屋の中を、芙美子姉さんの声が、まるで母の声を思わせる湿りけをおびた響をもって聞こえてきた。
「こうやって家族のみなが元気なうちに顔を合わせることなど、これから先ないかも知れなくてよ」
「おふくろが静岡に来るのもこれが最後だと思うな」
 耳が遠くなっている母に、兄の良一の声は聞こえることはない。
 母は座布団を枕に横になって目を閉じている。祖母に似た大きな耳だが、もうほとんど用を為していないのかも知れない。
 祖母のノートによると、母の実父は掛川の邸を手放してから、途端に倹約家になったらしい。それで母の兄の誉伯父さんは、学費を出して貰えずに大学へ行くことができなかったのだ。祖母の「ノート」には、そのことを悔やんだ文章が綿々と綴られていた。
「お兄さんが生きていたら・・・・」
 母も兄の誉伯父さんの夭折がとても口惜しかったのは、祖母と同様だが、兄と妹では自ずと違っていた。
 誉伯父さんには岡田家の血筋が濃くながれていたようだ。詩人でもあった誉伯父さんは独学の勉強家で、独りでいろいろな知識を身につけ、時代をよむ先見性もあり、豊かな感性と明敏な知性も持っていたらしい。だがそれらを証するすべてはアルバムと共に戦火に焼かれて消失してしまったのだ。それらは母の誇りと虚栄心を満足させる拠り所であったが故に、母には大層口惜しかったにちがいなかった。
 また祖母の「ノート」には、誉伯父さんが子供の頃に、物まねをして、近所の人たちを驚かせ喜ばせたエピソードが幾つか記されていた。
それにしてもなぜ祖母のノートが「ざんげろく」と題されているのか、そうした疑問が亮二の胸を横切っていった。祖母は兄の誉伯父さんに何一つしてやれなかった代償に、一人残った弟の忍伯父さんを溺愛し、その忍伯父さんから祖母はキリスト教徒の懺悔というものについて、学ぶことがあったのだろうかと、亮二はひそかに想像した。

 その忍伯父さんのせいですべての遺品を失くしたが、その中で唯一残ったものがエミール・ジュグラスの手に落ちた、フランス語に訳された「羽衣」の謡曲本であった。だが、祖母も母もそのようなものがあることさえ知らなかったのである。また知ったとしても何の関心も示すことはなかっただろうと、亮二には思われた。

 朝のホテルの部屋で母は起きがけに夢のなかで誉兄さんに遭ったと、おかしな声でつぶやいた。母の話しでは、それは富士山を仰ぎ見る松林のなかであったそうだ。母は夢をみるとはっきりと覚えていて、それを朝一番に話し出す奇妙な癖があるのだった。
 母の話す夢の中では、誉兄さんはお能の舞台に立ち、しずかな佇まいで仕舞いを舞い終わると、銀白の蝶になって青空へのぼっていったという。
 その母の荒唐無稽な夢の話しを聞きながら、亮二も祖母を夢にみたこと話せずに黙っていた。亮二の夢はあまりに現実的で、母の夢のようなロマネスクなものに欠けていた。
 それは東急目蒲線の不動前駅前のメガネ屋で、亮二が祖母のための新品のメガネを買っているところであった。亮二は会社から貰ったボーナスで、祖母になにかの贈物をしたかったのだ。祖母がかけているメガネのツルはあまりに古びて壊れかけていた。祖母が「アンナ・カレリーナ」を読んだその眼鏡は、既ににしめたような黄土色に変色していた。亮二が贈った朱色の新品の眼鏡をかけると、祖母は鏡に自分の顔を映して、ニッコリと頬笑えむ顔がみられたのだ。
 その笑顔は亮二が幼いときに、祖母の膝に寄りかかっている一枚の写真を連想させた。祖母の座った椅子は午後の太陽に当たり、背後に濃い影を曳いて茫々と広がっているのだった。その影のなかに、杖をつきながら駅のほうへ、腰をまげて歩いていく祖母がみえた。
「お婆さん、どこへ行くの?」
 と訊ねる子供の亮二が、また、そこにもいたのである。

 朝食は部屋の食台をみんなで囲んで摂った。翌日も昨日と同じ真夏の天気になりそうであった。
「今日はみんなで日本平へ行き、そこからロープウエイで、久能山の東照宮へ行く予定です」
 兄の良一がそう言う側から、芙美子姉さんがつけ加えた。
「久能山の東照宮は、徳川家康さまへの参詣のためね、それからお母さんが小学校の遠足に行ったという、三保の松原へ足をのばしてから、今日中に東京へ帰るのよ」
「そんなにたくさん行って、お母さんは大丈夫なの?」
 弥生子姉さんはなんやら心配そうだ。膠原病という難病を患っている彼女はそのために痩せ細っていた。体力がないのでからだにあまり自信がなかったせいかも知れない。その後数年経って、長女がバイクでトラックと衝突事故で亡くなってしてしまうと、その失意から身体を余計に弱らせた姉は、肺にまで転移した癌の病で長女の後を追うように亡くなった。だからこの家族旅行がほんとうに、家族一同が顔を合わせた最後になってしまったというわけであった。
さんさんと夏のひかりを浴びた焼津港は、昔の鮪の漁港としてのにぎわいはなかった。あのアメリカの核実験での被爆事故からこの漁港は以前の活気をなくしてしまったようにみえた。あるいはそうした事故の記憶がそのような印象を与えたのかも知れなかった。

 青い駿河湾の海を眺めながら、家族一同は一路車を日本平へ向かって走らせた。
 誉伯父さんと夢で再会した母は、幸福な一晩をぐっすりと眠ったせいもあり元気を取り戻していた。そして誉兄さんがどんなにか秀才であったかを、繰り返して話しだすのだった。厳父から突き放された誉伯父さんは、妹であった母にはやさしい兄であったようだ。その誉兄さんは昼の勤労で疲れて帰宅し、夕食の食卓を前に、そっと箸を卓袱台におくと、胸に手をあててそのまま不帰の人となった。
 母も祖母に似て文学少女の時期があったせいで、話しをするのがとてもうまかった。だが母が話しだすと、誇張や脚色がまじるので、用心が必要なのだ。いつのまにか、事実は母の夢のなかでふくらみ、夢想とけじめがつかなくなることがあるのだ。五人の子供たちはそういう母を知っていた。ともかく、祖母に似てあまり惚けないのを子供たちはよろこんでいたのである。

 母が、六ヶ月も胃癌で入院中の父正三の看病に献身していたことがあった。毎日のように入院中の父の元へ日参し、最後の二ヶ月ほどは病室に簡易ベッドを入れて、母は二十四時間父の面倒を看ていた。逆にこの母を心配した子供たちは、代わり番こ父への介護の手助けをした。
 二度も胃の手術をうけた正三は、最後は胃の全部を取られてしまった。自分の胃は人の二倍も大きいのだと自慢し、そのせいで晩年までよく食べ酒を飲むことができた正三であった。
「おれが酒を飲めなくなったら、もう終わりだな」
 と正三は言って憚らなかった。高血圧やらで多量の薬を飲み、退職後はテレビでの相撲観戦を楽しみながら、現役中と同じように晩酌をつづけていた。
 ある年の正月、亮二が父へ酒をすすめると、父は杯に口にすこし含んだだけで、お猪口いっぱいも飲もうとしなかった。その年の五月に正三は突然に、近くの病院へ入院した。
「親父が入院した。癌でもうだめらしい」
 そう弟の茂三からの電話をうけた亮二は、会社の窓硝子に明るく反射している五月の日光と、窓をとおしてみえた、あまりに明るい青空を忘れることはなかった。
 五人の兄弟姉妹の全員が父の病院へ駆けつけた。
 ベッドの上で胡坐をかいて座りお腹をさすっている正三がいた。彼はまだ告知をうけていなかった。お腹を手でさすりながら、子供たち全員にみつめられた正三は照れくさそうに微笑して見舞いに来たみんなを見回していたが、もう往時の勢いをそこにみることはなかった。
 夏の終わり頃に一旦回復したようにみえた正三の病状は、そのまま下降線を辿るだけだった。胃を全部切除され、ベッドにチューブだらけの身体を仰向けて、よく晴れた晩夏の空をみつめて、ポロリと言った正三のことばを亮二は覚えていた。
「ああ、冷えたビールを飲んで、都々逸でも唄いたいよ」
 それは下町育ちの父の遺言のような一言であった。
 次第に正三は口を利かなくなった。もうしゃべる気力も体力もなくしていた。
 入院当初には、抗ガン剤となると伝え聞いたワクチンを弟の茂三がわざわざ貰いに行き、医者に打ってもらったこともあった。そして、一回六時間も八時間もかかる手術を二回もやり、それに堪えた正三のからだは、その後はただ骨と皮だけになってしまった。その年の暮れ、兄の良一と亮二が仮ベッドで見守る夜中、
「からだを起こしてくれ」
 と声を振り絞ってベッドから半身をもたげようとした。
 二人は正三の半身を抱き、ベッドに起こそうとしたが、棒のように硬くなったからだは容易に起こすことはむずかしかった。
 翌日の午前、正三の呼吸は止まった。ベッド上の身体にのしかかり心臓マッサージをしていた医者もしばらくして、ベッドから降りた。
 亮二は帰宅し静養していた母と姉を家から連れてくるために、車を走らせた。病室に母だけを残し、子供たちは廊下に出た。兄の良一が突然のように声を上げた。それは良一からは想像もできないことであった。
 既に骸になった正三へ、母のみつが何を最後に話しかけようとしたのだろうか。

 日本平は太平洋を見晴らす丘の上にあった。そこから小さなロープウエイが崖下にある久能山東照宮へと繋がっているのである。
 みんなは狭い車から降りて、からだをのばした。夏とはいえ、日陰に入ると、爽やかな風が海から吹いてくるのだった。
「ちょっと、ここでひと休みしましょうか」
 と、芙美子姉さんが言った。正直言ってこれから、ロープウエイに乗って下まで降り、いくら母のご先祖様への礼儀とはいえ、東照宮への参詣は、良一等三人の男達にも大儀であった。ましてからだを病んでいる弥生子姉さんには厳しそうだった。
 こうしたことから、東照宮への参詣を取りやめにすると母へ伝えた。母は未練気もなくこれに同意した。


 祖母の出た岡田家については、亮二は母から聞かされていたことであったが、インターネットで調べてみると、そこには母が知らないことまで、詳細に知ることができた。
 明治二十三年、第一回の衆議院議員に立候補して当選した岡田良一郎を筆頭に、長男の文部大臣、また次男の宮内大臣、二・二六事件で現職の内務大臣が暗殺後には内務大臣、三男は竹山家に養子となり、その子供は亮二が生まれた昭和二十二年「ビルマの竪琴」を出版、後に映画化がなされた等のことであった。
 亮二はこうしたことのおおよそを母から聞いていたが、また母の勝手な想像と粉飾かと、聞き流していたのであった。ただ、亮二がむかし、腰を壊して二週間ほど入院していたときに読んだダンテの「新曲」が偶然にも、竹山道夫の家に養子に入った人の翻訳であったこと、また、小学校三年のとき、校庭でみた映画の「ビルマの竪琴」に、戦争で死んだ人間が骨の山となっている光景を恐いもの見たさで覗いたことが記憶に呼び起こされ、その映画の原作が祖母の遠い縁者と関係があることを知り、妙な感興を覚えさせられた。
 だが、明治生まれの祖母からそうしたご大層な話しを聞いたことはなかったし、祖母が記した「ノート」にもそうしたことは、一言半句も書いてはいなかった。だが調べはじめると、母が亮二に語ったことはそのほんのおぼろげな断片だけであった。
 亮二には自分を可愛がってくれた祖母の懺悔録のような「ノート」のほうが、より一層の親近感を懐かせてくれるように思われてならなかった。そこには母や亮二の知らない祖母の父が登場し、母の兄や弟が姿をみせて、そうした近親者への祖母の反省と苦い後悔が、素直に認められていたからであった。

あれは父が癌で入院していた頃だった。静岡の浜松にいた祖母の弟にあたる人が亡くなった。母は父の介護中であったが、その葬儀に千葉県から出向いたのだった。介護の疲労の濃い母のために、亮二がつきそうことになった。
 東京駅まえから浜松行きのバスに揺られて、母と二人で浜松に着き、母の伯父さんの家へ行ったときのことだ。亮二はこの人に会ったことがあった。それは龍白寺の檀家であったからにちがいなかった。県の教育委員を務めていた教育者であり、この親戚の多くの人が教職についていた。質素な家の中に入り、一室で会葬者に混じって亮二が手持ちぶたさに一冊の本を取り出し読み始めた。ときおり、その部屋の四方の壁にづっしりと並んだ書籍に目をやると、そこにある書籍は亮二の関心を懐かせる類のものが、あまりに多いことに亮二を驚嘆させたのであった。それはほとんど学者肌の者しか興味を示さない教養書で埋め尽くされていた。
 亮二が驚いたのはそれだけではなかった。本を読み始めた部屋は薄暗いものであったけれど、亮二の背後から明かり灯されたのだった。ふとその明かりに振り返ると、わざわざ電気スタンドを亮二のために用意している年配の婦人と目が合った。
「お暗いでしょうから」
 とその目が亮二に語りかけた。
 そのとき亮二はこうした親切と配慮に、ありがたいと思うだけではなかった。母を介しまた祖母を通じて、自分の中に流れている家族とその縁者の源泉とその血筋が、ここにあったという発見ともいうべき幸福な感情であった。
 家族とは父母兄弟姉妹だけと思われていたものが、その枠の中だけではなく、さらに広く遠い縁がこの世にあるという驚きでもあったのだ。
 死者はその死を通じて、現世の生者とつながっているという、こうした感覚は個体である生の根拠を、深く、遠い先祖へと触手をのばしていくらしかった。そうした認識がリアリティーをもって、亮二をいままで知らない世界へと連れていくように思われた。
 それはちょうど父が明日をも知れぬ病に犯されている最中、母と二人きりのバス旅行の幸福感とも重なり合って、自分の個我が解体され、解放されていくような感覚を亮二にもたらした。
 偶然の逢瀬はただの単なる偶然というものではなく、死は生の単なる終わりというのではなかった。死者は死者として生きている。
 家族の時間はこうした一連の縁の連鎖によって、自分へと流れ、そのなかに自分がいるという感情が亮二の狭い視野と認識へ、新しい領野があることを目覚めさせるものであった。

 家族が東京の五反田に住んでいた頃のことである。官舎の庭の向こうは、氷川神社の参道になり、正月ともなると、その参道が氷川神社へのお参り行く人々の歩く下駄や靴の音で賑わうのだった。
 亮二が小学校のとき、暑い夏が過ぎ秋になると、神社のお祭りがあった。はやくそのお祭りに行きたい亮二は、腹痛を理由に学校を早引きをして、参道にならぶ飴やら金魚すくいの屋台へと、祭り囃子の太鼓や楽の音が響く雑踏へと紛れ込んでいくのだった。焼きイカの小鼻をくすぐる香ばしい匂い、着物姿で化粧をした女の子の白い顔やらの別世界がそこに、普段と違う異世界を出現させるのだった。様々な色合いをしたぼんぼんや風船が空中に彩をなし、紙鉄砲のひとつでも買い、吹き矢のようにそれを飛ばして、屋台から屋台をのぞき歩くことに、亮二は夢中になったことがあった。
 高い階段を上がっていくと、社殿のまえに広場があり、その崖側に木造の舞台が設えてあって、その板の間でお神楽が挙行されていた。その高い舞台の縁に上がって座りこみ、面を被り金糸銀糸の装束を着た者たちによって、おどろおどろしくも演ぜられる舞台ほど、亮二を不思議な力で虜にしたものはなかった。仮面を着けることによって、それはもやはこの世の人間でありながら、この世の者ではなくなっていた。どうしてそんなにお神楽に惹かれていたのか、子供の亮二になぜかとはわからぬながら、その仮面による舞曲の世界に亮二は惹かれずにはおられなかったのである。夜ともなるとお神楽の舞台は、金と銀の装束が電光に反射して、輝かしい舞台空間となるのだった。舞楽の音は遠い夜空から降り注ぎ神々しい響きを齎すものとなった。
 亮二はお祭りでのそのお神楽の舞台を、ときおり思い出しては、あれほどに自分を魅惑したものが、仮面というものにあり、その仮面の魔力が幼いこころを捕らえていたことの不思議さを顧みることがあったのである。
 それで思い出すのは祖母が遺した「ノート」のなかに記された誉伯父さんのことだった。祖母のその「ノート」によれば、誉伯父さんが心臓を患ったのは、子供のころにとても恐い目にあったせいだった。得たいの知れない恐ろしいお面を被った者から驚かされた伯父さんが、泣きながら家に走り帰ってきたことがあったというのだ。それ以上の詳しいことは書いてないのでわからない。ともかく、それ以来誉伯父さんの心臓は、二十五歳で胸をおさえて亡くなるまで、子供の頃に出会った恐怖と闘い続けたのにちがいなかった。
 その誉伯父さんが、お能という日本の伝統芸能に出会ったのは、ちょうど二十歳のときだった。
 母のぼんやりした記憶では、「兄さんのお能狂いは、訳のわからないものだった」ようだ。
 そのお能を実際に自分で演じることに興味をもち、ツテを頼ってとうとう伯父さんはある家元に頼みこんで、お能を習いだしたらしい。
「誉の奴がおかしなことをしている」
 と祖父は偉い剣幕で怒って、家のなかで誉伯父さんが、お能の稽古をすることも、その一節を謡うことさえも厳禁したらしかった。だが、父親が禁じれば禁じるほど、伯父さんはそれに反抗して、お能の世界にのめり込んでいった。そのうち、能面を彫ることまでもやりだし、自分が彫った能面を被って、一人鏡の前に座り込んでいたらしい。
 ともかく、誉伯父さんのお能への入れ込みようは、尋常ではなかったと、母はそう言ってことばをのみ込んで涙をうかべた。
 昼は新聞社に勤め、また一方で、詩を書いていた伯父さんの交友範囲はとても広いものだった。二十五歳で夭折した伯父さんが、ガブリエルの孫娘であるエミール・ジュグラスなるパリの舞踏家と親交があったとは思えないが、伯父さんの訳した「羽衣」を読んだエミールは、詩人でもあったイエーツが書いた「鷹の井戸」という日本のお能の影響の色濃い作品にも触発され、天女が羽衣を着て舞いながら、空へ消えていくその、単純で高雅なストーリーに大変に感激したらしいのだった。エミールは奇しくも伯父さんに似て、白血病で自分の余命が幾ばくもないことを知っていた。ガブリエル家は代々、敬虔なカソリックの家柄であった。そして誉伯父さんは忍伯父さんのような信心家にはならなかったけれど、聖書の世界とヨーロッパ文化への深い教養を持っていた。誉伯父さんがどんな詩を書いていたのかも、忍伯父さんが戦火によって焼失させてしまったせいで、残念ながら知ることはできなかったが・・・・。

 家族一同を乗せた二台のタクシーは、次第に車の左側から目に入る松林沿いに車輪を寄せていった。海はまだ見えなかったが、濃緑色の松林の彼方に、蒼い海と潮騒の響きが感じ取れた。
「お母さん、もうすぐに三保の松原に着きますからね」
 うとうとと寝入る様子でいた母みつは、この芙美子姉さんの声に促されたように、老眼のまなうらを開いた。母の老いたる目に一列に生い茂った松林が迫っていた。すると母の顔から老いの翳が雲が霽れるように消えていき、かわりに子供のような生気が湧き出すかのように思われた。
「見える、見える、三保の松原が見える」
 うつつなのか、まぼろしなのか、母の目にはその姿と風景がたしかに映っているようだった。とっくに失われた遠い過去は、幽明な境を地下水のごとく流れ越して、母の魂に滾りだしているのであろうか。
 車は国道から三保の松原へと左折し、いまようやくその前で車輪をとめた。
 二人の姉に両脇を抱えられ、それでもそれが邪魔だとでもいうかのように、母は車を降りた。
 なだらかに砂浜が登り坂をつくり、大振りの太い松の枝が湾曲しながら、空一面を蔽っている。それは母を呼ぶ自然の手招きのようにみえなくもない。いや、母には、おいでおいでをしている、その松の声が聞こえてさえいたのだろう。
 その声に励まされて、母はまるで泳ぐように、杖をもつ手を空中に振り上げ、砂浜に草履をなげだすように、大樹に茂る松の葉が広がる砂地を上って行くのだった。
 二人の姉の付添がなければ、自分ひとりでもその砂浜ののぼりを駆けあがりかねなかった。そこは母が遙かむかし、小学校の遠足で来たところなのだ。八十年の歳月を超えて、母は童女のように歌いだした。それはむかし覚えた校歌なのであろうか。
「お母さん、その歌は何の歌なの?」
 おどろきあきれた長姉の声はもはや母の耳には届かなかった。あたかも幼い童女のように、母の顔から皺は拭いさられ、朱に染まったようなその顔は喜びにあふれ、その脣から、次から次と歌が流れだすのだった。
 二人の姉はその母の喜びが伝染をしたかのように、母を抱える手をゆるめて、互いに笑い合った。
 浜辺にいる人達は、この母の声に耳を傾け、狂女のように戯れ遊ぶ母に、おどろき訝しんで母と二人の姉を見つめるのである。
 良一等三人の兄弟は、この母の狂態に驚き戸惑い、呆気にとられていた。
 外聞を気にする兄良一にとっては、この光景は見苦しくさえあり、受け入れかねたようだ。これが八十を超えた自分の母であることが信じかねたのである。
 茂三は羞恥と困惑とで、この光景の圏外へ砂浜を早足で歩きだしていた。
 母はやがて小学校唱歌である鉄道唱歌を歌いだした。
「汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり・・・・・・」
 この長い長い歌を母はどうしていままで覚えていたのだろうと、亮二は驚嘆しないではいられなかった。母の唱歌はいつまでもつづいていた。まるで永遠に継がれる女の一生のように・・・・。
 母が行きたがり訪れた赤穂浪士が眠る泉岳寺も、母が家族と共に掛川から引っ越した川崎大師も、そしてここの三保の松原までも、母の歌うこの唱歌にはみな歌い詠みこまれているのであった。これらのすべてが、母が過ごした人生のあるときと繋がったいるのだ。母は過去を、そして現在を歌った。母の一生があたかも終わることがないかのように・・・・。
 そうした思いに亮二が浸っているときであった。
 母が歩く松林の中径、揺らめく枝陰のなかに、亮二は一人の男と女の影法師のような人影が動くのを見たのであった。
 その中径は御穂神社へとつづく参道であり、「神の道」とも呼ばれていたところだ。その道を進むと、天女が羽衣をかけた樹齢六百年の老松があるのだった。
 駿河湾から吹き寄せる風が、さわさわと松籟をならし、浜辺に寄せる白波は砂浜に砕け、黒い粒子になった砂はザワザワと鳴りどよめいていた。参道に織り敷いた松林の影は、いよいよ濃く辺りに広がると見る間に、青い駿河の海に燦めいていた夏の陽ざしはいつしか曇り、松林は一帯に闇につつまれていくようではないか。その闇のあちこちに火の粉を散らす篝火が焚かれ、闇そのものがここかしこで燃えているような幻想の風景がひろがった。
 やがて男と女の影法師は、一人は漁夫であり、いま一人は増女の面を被った天女であることが知られた。するとどこからともなく、「ピュー」という空気を引き裂くひしぎの音が聞こえてきた。これこそ能楽の開始の合図であった。二人の後ろ正面には、笛、鼓、大鼓、太鼓の囃子かたが、さらに濃い影となって控え、右かたには地謡数人のすがたが、陰のなかにかすかに沈んで並んでいる。
 笛がなりだし、鼓が打たれると謡いの声がおもむろに聞こえはじめ、ワキの漁夫の前で、シテの憂いをふくんだ増女の面を被った金糸に紅が混じり合った装束に、薄い白妙の衣を肩に纏った者が、ゆっくりと砂の上を、扇子を開いて摺り足で舞いだした。

 ー風早の~。三保の浦囲を漕ぐ船の。浦人さわぐ波路かな~。

ワキの腹からしぼりだす声が、独特な間をおいた節回しで、かすかに低く、聞こえだした。
 繰り返し寄せる波音が、遠く近くに響き、母の歌う唱歌が、その謡いに和するかのように、どこからか亮二の耳に響きはじめた。
「お母さん、あれが天女が衣をかけた松の樹よ」
 と、芙美子姉さんの声が、母の歌う声に合唱して、亮二の耳朶をなぶっていった。
「じゃ、ここで家族そろっての記念の写真を撮ることにしますか」
 兄の良一が皆を太い松の根方に呼び寄せた。
 機械の扱いに馴れた茂三が固定カメラをセットし、一同の被写体に走り寄ると、シャッター音が軽やかに鳴った。
「お母さん、これでいいわよね」
 芙美子姉さんがそう歌うような声で言った。
「ああ、いいわよ。これでいい」
 元気な母の声がこれに和した。 
 亮二はうつつと夢のあわいに佇み、そのどちらに自分がいるのか、あるいは、どちらにもいないともいう、不安をおぼえたが、それは常の不安というわけではなく、むしろ穏やかな休らぎをさえ感じるものだった。

 ーこれは三保の松原に~。白龍と申す漁夫にて候~蔓里の好山に雲忽ちに起り~。一楼の明月に雨始めて晴れり~。げに長閑なるときしもや~。

 後景に控える囃子方の笛と鼓が玄妙な音を奏で、それに大鼓の霊妙な響きが添えられ、漁夫の謡いを妙なる伴奏で陰影のある彩りを加えている。
 そして、ワキの漁夫が語る三保の松原の情景が、いま現にいる場所でありながら、それとは別世界の景色を描き出しているという感覚を、亮二に呼び覚ました。いやむしろ、現に家族がいる場所が夢の中であり、漁夫が謡い語る情景のほうがうつつであるかのような反転した感覚が、亮二を陶然とした異界へ誘うかと思われた。
 それこそ亮二が幼年の頃に、訳も分からないながらお神楽に魅了された、遠い過去に繋がる愉楽の世界でもあったのだ。
「どうしたんだ亮二、からだの調子でもおかしいのか」
 兄の良一が亮二の様子を訝しんで声をかけた。
「いや、なんでもないんだ」
 そう言って、亮二は兄の顔をみた。その兄の顔が大日本報徳社の広間に掲げられていた岡田良一郎の肖像画に似ているように思われてならない。
 母は母でその兄の良一に、誉伯父さんの顔を思い出したように、
「あれよ! 誉兄さんかいの?」
 と、頓狂な声をだして吃驚したような形相を呈した。
 亮二は家族の顔がすべて仮面のように見えた。いや仮面こそ人間の顔ではないかとでもいうように、もはや仮面は仮面ではなかった。それは死顔でありながらも生きた表情を面に湛えて豊かでさえあったのだ。
 不思議にいま仰天した母の顔は、亮二の慕った祖母の顔そっくりに見えるではないか。そして、その祖母の仮面が亮二を忍伯父さんにそっくりだと言うように笑っている。
 いつも脇に聖書やら様々な本を抱えていた、あの変わり者の忍伯父さんがいつの間にか、そこに姿をみせているかのよに思われた。
 亮二は家の階段の下でいつか見た忍伯父さん、青白いネオンを光らせて亮二を見下ろし、ニタリと笑った表情のままにあの異形な姿をした忍伯父さんを見て、吃驚して後じさった。世事に疎く世間の人から嘲られていたのに、恬としてそれに気がつきそうもない様子で、これはというときには不思議な霊力を発揮する奇妙な人格者であった忍伯父さんを。乞食を見ると給金のあらかたを上げてしまい、父の正三から「バカ野郎だ」と言われていたあの忍伯父さがそこにいた。
 父は一冊の本も読まず、盆暮れの贈り物が部屋いっぱいになるのが嬉しくてならないという俗人であったけれど、五人の子供たちを育てるために、それなりの苦労をして働いてきたのだった。それは大多数の父親たちの生きざまでもあったろう。
「今日もご馳走になってね」
 毎晩のようにへべれけに酔っぱらって、玄関で父が母に言ういつもの科白であった。
「もうお酒臭くてしょうがない」と母がこぼす科白も亮二には聞き飽きるものだった。
 子供ころの亮二と茂三は、夜遅く帰ってくる父と母の会話を寝床の中でよく耳にした。そして、父が持って帰る葬式饅頭には二人とも眼がなかったものだ。

兄の良一と弟の茂三は、各々に三保の浜辺を歩き、駿河の海が波を打ち寄せる岸辺を歩きはじめていた。
 亮二はその二人を遠目に眺め、三保の海岸が果てようとする遙か遠くの東の空を仰いだ。
 風に吹き払われた夏の青い空に、富士の霊峰が聳えていた。
 むかしこの富士を三人の学友と登ったことがあった。真夏とはいえ、上に行くにしたがい冷気が強い風を伴って肌を刺すような寒さに襲われながら、皆で朝日のご来光をいまかいまかと待ったのである。太陽の光が地平線の彼方を朱に染め、少しずつその全容を見せ始めると、登山者一同の感嘆の声があがった。むかしの人は、朝ごとにこの太陽を拝んで柏手を打ったという。過ぎし日を顧みて、そういう人を亮二は住んでいる下町の路上で見かけたことが、記憶の底に残っていた。多分、妻の文子の父は、そうした日々を生きた人ではなかったかと、亮二は思わずにはいられなかった。文子の父は日本の敗戦後にもソ連での抑留生活を強いられた辛い体験をしてきたのだ。朝、一日が始まり、その一日の命が無事に過ごせることを祈る気持ちが起きたのは自然なことのように、亮二には思われた。

 するとふたたび闇が降りて、辺りが静まりかえった。鼓がうたれ笛の音が聞こえた。地謡がその空洞に声を響かせ、シテの天女が衣を翻して、舞いはじめた。
 お能は一節には鎮魂の儀式だとも言われ、また、「羽衣」はハレの結婚式にも舞われる、祝言の演目でもあったのである。

 ー東遊びの数々に~東遊びの数々に~その名も月の宮人は~三互夜中の空にまた~満願真如の影となり~御願国土成就七宝充満の寶降らし~国土にこれを施し給うなる程に~時移って天の羽衣~浦風にたなびきたなびく~三保の松原浮嶋が雲の~愛鷹山や富士の高嶺~かすかになりて天つみそらの~霞にまぎれて~失せにけり~
 
 増女の面のしたにわずかにのぞける頤と首筋は、輝くばかりに白く細く、とても男とは思えず、それも日本の女よりは異国の女人の如くである。白龍の漁夫が、天女が空に舞いつつ消えていくのを陶然として見仰ぐうちに、天女の衣は大きな蝶の羽根に変わり、いつの間にか、夏の真昼の青空を映じて輝くばかりとなり、そのまま天に吸い込まれていくのだった。
 漁夫は童女に似た母の顔となりて、小さな手をかざし空を眺めている。そのすがたは遠足にきた、昔の幼小の母とも想われた。
 いつしか舞曲はやみ、朱に燃えた薪は昼の太陽にまぎれて、家族は思い思いの恰好にて、茫然と佇む母を囲んでいるばかりであった。
 彼方の空に霊峰富士の高嶺は白く照り映え、駿河の海にそのすがたを映じて、海に漂う大きい水母のごとくに見える。
 途絶えていた風が海の方角から吹きはじめたようだ。
 兄と弟が風に吹かれ、白い波を一面に散らした駿河湾の岸辺から戻ってきた。
「どうしたのお母さん、そんな顔で空をみて?」
 母の様子から、心配そうになった芙美子姉さんが訊いた。
「いいえ、すこし目眩がしたぐらい、亡くなった誉兄さんの声も聞こえ、いろいろなものが視えたような気がして・・・・・」
 それ以上は声はかすれ、母は腰を大きな石に降ろし、杖に両手を添えて、なにか憑き物が落ちたふうの様子であった。
「亮二はほんとうに大丈夫なのか」
 兄はまた亮二の様子をみてそう言った。その声が亮二に届いたかどうか、亮二は夢遊病者のように放心した様子だった。
「さすがに、日本の三大風景のひとつだ。実に素晴らしい景色だ!」
 兄はそう喜び叫ぶかのように言いながらも、何事にも適度な間を保つ役人らしく、
「さあ、そろそろ、みんなで帰ることにしますかね。お母さんもやはりすこし疲れたようだし」
 そう言って芙美子姉さんと妹の弥生子に向かって、帰り支度をするよう促した。
「お母さん、鉄道唱歌がすばらしく、よかったわねェー」
芙美子姉さんが、母をねぎらうように、そう言った。
「あんなに長い歌の歌詞を、お母さんはよく覚えていたのね」
 と妹の弥生子がそれに応じた。
 二人の娘に褒められた母は、急に元気づいたように立ち上がった。
 茂三がその母の脇を支えながら、
「海のほうまで、お母さんの声が聞こえたからね」
「そうかい」
 と母はやはり嬉しそうに、皺だらけの満面に笑みをうかべた。

 家族一同が一塊になって、また松林の中をそぞろ歩きだした。
よく見ると、行きに歩いてきた浜辺には、そこかしこに屋台が店を並べていた。
 茂三が一団の先頭を歩き、
「この店ですこし休んでいかないかな」
 と、葦簀を張って風除けをしている一軒の店を指さしている。
「氷」と太文字で書いた色鮮やかな旗を掲げた店へ、みんなはぞろぞろと入っていく。簡素な木のテーブルと椅子があった。そのひとつに家族一同が座わり、各自がそれぞれ思い思いの一品を注文した。
 駿河の海は夏の光りを反射させ眩しいほどで、砂浜にはうっすらと陽炎がたち、風が砂を葦簀に吹きよせる音が聞こえている。
 亮二はどこかで、いまと同じ時間を過ごしたような、そんな一日があったような気がした。
 澄ませば耳朶の奥に、羽衣の舞曲がまだ聞こえるようだ。

ー風早の~。三保の浦囲を漕ぐ船の。浦人さわぐ波路かな~。

 一同が再び腰をあげ、はじめに来た砂浜の坂を下りようとしていたときだ。
 亮二はその丘のうえに、こんもりとした茂みの向こう側から、自分を呼ぶような声を聴いたように思った。
 一人そこへ足をむけのぼっていくと、石碑のようなものが見えた。
 近づくと、「羽衣の顕彰碑」と鉄板に大文字が記され、亮二は小文字で書かれたその由来を読んいった。
 それは「エレーヌ・ジュグラス」というフランス人舞踊家を顕彰するために、夫のマルセル氏によって建てられたものとのことで、おおよそつぎのようなことが刻まれていた。
エレーヌ・ジュグラスは、独学で日本の伝統的な能「羽衣」を学び、自分の手作りの装束をまとい、パリのギメ美術館で初公演を果たした。その後、「羽衣」は好評を得てフランス各地で公演されたとの由である。
 彼女は、遠い国、日本の三保の松原という「羽衣」の舞台になった土地を憧憬しながら、日本へ来ることもなく、遂に白血病のため、三十五歳の若さでこの世を去ってしまったのだ。
 彼女の遺志を果たすため、夫のマルセル氏が三保の地を訪れ、この地に「羽衣の碑」を建て、ここにエレーヌの遺髪と爪が埋められたと記されていた。

 車の中で待っていた家族に亮二が追いつき、母へこの話しを亮二がしだすと、母の疲れた顔がみるみると、生気を取り戻してくるようであった。とくに「エレーヌ」というフランス人の女性の名前を母は、幾度も口で反芻していたが、からだを弱くしていた兄の誉伯父さんが時々口にしていた名前が「エレーヌ」というような発音であったことを、おぼろ気に母は思い出していたようだ。
「亮二ちゃん、あたしの亡くなった兄が親しくしていた女性がいたことは、お婆さんが一番よく知っていた。兄はそのことについては、あたしにはなにひとつ話そうとはしてくれなかった。でも妹のあたしには、兄が秘密にしようとすればするほど、その外国の女性が兄には大切な方だと思われてしょうがなかった。兄へ来るその人の手紙をあたしは秘かに破り捨てようと何度思ったか知れない。あたしはあんな兄を見たことがなかった・・・・エミール、エミールと兄が寝言を言っているのを聞いたことがあったのを、いま亮二の発音してくれたことから、やっとその当時のことを思い出すことができた・・・・・」
 こうしたことを、母は過去からの記憶をひきだすかのように、たどたどしい口ぶりで、ようやくに語ったのだ。母は感極まって泣いているようだった。が歳のせいでか、母の目からは一滴の涙も流れることはなかった。
母の兄への思慕は、父への反発から、そして、兄の夭折もあって、母みつ自身にも理解できないほどに、大きなものになっていたにちがいなかった。
 だがと亮二は母の話しを素直に受けとることはできなかった。誉伯父さんが手紙が交友していた相手はガブリエル・マルセルであり、エレーヌ・ジュグラスはマルセルの孫娘である。誉伯父さんはエレーヌの生まれた以前に、二十五歳で夭折してもうこの世の人ではなくなっている。普通に考えても不思議な話しだった。お互いに知りようがない二人、しかも相当な年齢を隔てている男と女が、たとえ手紙といえども知り合う時が隔たっているのではないか・・・・。
 祖母の懺悔ふうの「ノート」には、母が洩らした秘密事に一言半句も触れた部分はなかった。母の話したことがほんとうなら、そのことが亮二には不思議だった。
「アンナ・カレニーナ」を読み、その夭折にあんなに嘆き、後悔を書き綴った祖母が、長男の愛する息子の恋愛感情に無関心でいられたことが納得できなかった。いや、むしろ一言も書いていなかったそのことこそが、逆に祖母の関心のあり方を示すものではないのかと、亮二にはそんなふうにも想像されたのだ。
 家に帰ったら、もう一度あの「ノート」を読み直してやろうと亮二はそう心に決めた。

 車の窓から見える夏の空は既に暮れかかっていた。駿河湾はわずかな光りを残して、もうすぐ闇に浸されていくことだろう。最晩年の母の一生のように、そして、亮二を含めた家族一同の一人ひとりの上に、老いの翳が忍び寄ってくることは誰にも避けることはできないのであった。

 家に帰り、亮二は妻の文子とパソコンに打ちこんだ祖母が書いた「ノート」を、再度読み直してみたが、祖母はただ母親として自分の息子にしてやれなかったことを、ただ単純に悔やみ、自分の不甲斐なさを責めているだけであった。
 亮二はこうした詮索が段々と厭になっていく自分を感じはじめた。母の記憶をそのまま受けとっておけばそれでいいのではないか、とそう思いはじめた。それはそれで母の過去への思い入れであり、懐古の自然の情愛でもあったろう。
 それ以上でもそれ以下でもない、歳をとった母の真実の感情なのだからだ。
 死んだ誉伯父さんはエレーヌと魂の交信をしていたのかも知れない。或いは、忍伯父さんは兄の誉伯父さんの代理の使命を果たしていたのかも知れなかった。生涯結婚もせずに、キリスト教徒として世界中を旅していた忍伯父さんなら、亮二が想像する以上のことをやってのけていたかもしれないではないか。こうした荒唐無稽なくらいの空想が、亮二を喜ばした。いやあの忍伯父さんなら、兄の誉伯父さんの代わりに、エレーヌを援助するためにどんな協力も惜しまなかったにちがいない。母が庭に埋めた先祖たちのアルバムを、わざわざ甕から引き出した忍伯父さんには、それなりの理由が何かあったとしてもおかしくはないだろう。
 亮二はあの三保の松原での一種、不思議な体験を思い出した。あのとき、自分は時空を超越したこの世の中の精神の交流現象を、経験したのではなかったのか。
忍伯父さんが亡くなりその霊が、亮二の傍らに立ち「ニタリ」と笑ったのは亮二の賢しらのこころ、その頑なな狭さを、嗤いにきたのではなかったのか・・・・・。

 「羽衣」の謡曲本を書棚から探し出し、ワキの漁夫とシテの天女の二人が、羽衣を国の宝と為して返す気はないと漁夫が言えば、いや、返してほしい、そうしてくれるならば、その羽衣を着て、一曲の舞曲をお見せしましょうと、謡い合う最後のクライマックスに亮二は目をとめてみた。
 簡単に読み飛ばすところに、亮二はこの「羽衣」の鍵になる詞章に出逢って、息を呑むような驚きを覚えた。そして、天上と地上とで互いに隔て合い、相互に応酬し合う場面をこそ、とくと声を出して詠んでみると、そこにこれを書いた作者のモチーフが美しい詞章として結晶していることに、驚嘆さえしたのであった。

 ーいやいや衣を返しなば。舞曲を為さでその儘に。天にやあがり候ふべき。
  と言う漁夫に対し、
 天女はつぎのごとく謡っているではないか。
 ーいや疑ひは人間にあり。天に偽りなき物を。
   
ここにこそ、「羽衣」の単純無垢にして、天真なころろが脈打っている詞章であった。
 エレーヌが「羽衣」を舞踏家として舞い踊りたいと思ったのも、まさに、このところにあったのにちがいないと、亮二は恥ずかしさに顔を赧らめさせた。
 
 ここに、この世の「賢しら」を真っ向から否定し、地上に生きる人間の虚偽、欺瞞の業というものがない、天上の美しく穢れのないこころを信じ給えと訴える、天女の不思議な霊力に逆らうことができなくなった漁夫は、遂に、その「羽衣」を返さざるを得なくなる次第を、たった数行の調べに載せて、羽衣を着したままに空に消えていく天女のすがたを謡って終わるのである。実に天女の喜びのままに、舞い流れるような急調子が、つぎの詞章まで一気に続いていくのだ。

 ー浦風にたなびきたなびく。三保の松原浮島が雲の。愛鷹山や富士の高嶺。かすかになりて天つみそらの。霞にまぎれて。失せにけり~

 これはまさしく、詩人でもあった誉伯父さんと白血病で余命いくばくもない舞踏家のエレーヌが、時間と空間を超えて、交流した成果でなくて、いったい何であろうかと、亮二はそう思った。
いやそればかりか、母が歌う鉄道唱歌に和するかのように、この世に生きたすべての人間たち、祖母やら夭折した誉伯父さん、そして数奇な人生を生きた忍伯父さん、また老いたる母を連れて三保の松原へ足を運んだ家族一同とその祖先の霊を鎮魂し、また儚い一生を生きるすべての人たちを、そのままに嘉する祝言の謡いでもあったのではなかろうかと、亮二はそのように思われてならなかったのである。

 エレーヌ・ジュグラスのお能「羽衣」への愛と功績を称え、その石碑は天女が羽衣をかけた老松の側にいまも見ることができる。
 毎年の十月に、夜の駿河の海を背景に「羽衣」は薪能として挙行され、この顕彰祭が三保の松原で行われているとのことである。

 石碑には、夫のマルセルによって、つぎのように書かれていた。

ー三保の浦、波渡る風語るなり、パリにて羽衣に命捧げしわが妻のこと。風きけば、わが日々の過ぎ去りゆくも心安けしー

 









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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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