「思考停止」という思考について
思いだすのも厭だが それは美の末路だった
アポリネール詩集「アルコール」
1970年の秋、渋谷の道玄坂上にある証券会社でアルバイトをしていた。刻々と入ってくるテロップの情報に、「三島由紀夫」と「自衛隊へ乱入」の文字をみた瞬間、男の死を直感した。蕎麦屋で昼食を済ませて帰宅しぼんやりとテレビのニュースをみていた。
「終わった」という実感がじわじわとやってきた。なにが終わったのか。その年の冬、10ヶ月勤めた銀行を退職した。それから「魂の一年」がはじまり、身を灼く日々を過していた。終わったというのは社会から離脱して生きる生活の終焉ということであった。それは精神生活の終わりではなく、その始まりを社会の片隅での、新たな再開を意思するものであった。最初にかかげたアポリネールの詩は「出さざりし手紙」と題した書簡箋に記された一行であり、その下に「70年11月25日」という日付が記されていた。アポリネールの詩集は1969年発行の堀口大学訳の文庫本であった。ランボーの地獄の業火をこの一冊で鎮火しようとしていたのだろうか。「地帯」という詩の最初の一行は、
とうとう君はこの古ぼけたこの世界に飽いた
ではじまり、つぎの2行で終わる153行の長編詩であった。
さようなら さようなら
太陽 切り離された首よ
この書簡箋は手紙として書かれていたが、題名どおり送るべき人間などはどこにもいなかった。
この10月から高層マンションの計画のために取り壊される茅屋を整理中にでてきたノートの中に、偶々、紛れこんでいたものだ。「出さざりし手紙」の書簡箋一冊が出てきたのであった。「ぼくは遂にこんな手紙を書くことにした。」と冒頭にある。1970年の9月から12月に誰でもない自分へと記されたものだ。ここに書かれた切れ切れの断簡はいまは読むに堪えないものだ。だがここには無惨に扼殺された「青春」の残骸、その呻き声が聞こえるだろう。この4ヶ月の間に「男の死」が紛れ込んでいた。
大学でこの男の講演を聴いた。この間テレビで放送されたものである。遺書が東京オリンピックでマラソンランナーとして走った円谷の遺書に似ているのに一驚した。歿後50年で多くの回顧や関係の書物がでている。男の本は確実に売れ読まれていた。加藤典洋が言及した男の文章、「古今と新古今」などからその幾つかを当ブログで取り上げた。11月21日の新聞で1961年生まれの現代作家の一文を読んだ。61年に生まれ作家となるほどの者が、1970年晩秋の事件に無知であるはずはないだろう。
「空っぽな日本人の心を埋めようとした三島の知的闘争はクーデター未遂と自決で未来に託された。三島のニヒリズムは知性ある者には遺伝したが、今日の日本を覆う対米従属、新自由主義、反知性主義という名の思考停止が三島を二度殺そうとしている」
奇妙な文章である。ゴロタ石のような言葉がならんでいる。どこに自分の立場があるのだろう。この作家の知性とはどんなものなのであるのか。「遺伝」とはなんという無様な言いようであろう。二度殺そうとしている者達の中にどうやらこの作家は入っていないらしい。これが60歳を越えようとする作家が書くべき文章であろうか。
「思考停止」という言葉が過去のある日のことを甦らせた。数人で渋谷の繁華街にある喫茶店で日本の古典を読んでいた30代の頃のことであった。そこに一人の男が参加した。その日は新潮日本古典集成の「本居宣長」の一冊を読んでいた。その喫茶店でその男が宣長について洩らした感想が、やはりこの「思考停止」という一言であった。この言葉はその思考のなかみを委曲を尽くして示す義務が免除されているらしい。
加藤典洋はむかしこの作家の誕生に「幸福な小説家」をみたことがあった。また、底がみえる透明な海の「深さ」という巧妙な比喩を用いてこの新人を肯定的な評価をしたことさえもあった。そして、こう言っていたのだ。
「ぼくはこの小説に心を動かされたというのではないが、これを読んだ後自分が少し自由になるのを感じた」と。
これとはいうまでもなく「優しい左翼のための嬉遊曲」である。
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