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伊勢物語

 1980年代のことが思いだされる。昭和、平成、令和という年号とともに、この40年で世の中はすっかり変わったが、幾時代を経ても変わらないすがたを残すもの、それを人は古典と呼ぶようである。
 「伊勢物語」を日本の古典を読む会でとりあげたのは、1984年(昭和59年)であった。場所は渋谷の繁華街の一角にあった喫茶店「ルノアール」。如月の22日、ほんの数人が集まった。この会にはその数年前まで続いていた「ポール・ヴァレリー」の研究会の幾人かが参加した。この「ヴァレリー」の研究は毎回開催場所を変えて延べ10回で終わった。途中から都立日比谷高校の校長の参加もあって、差し入れられたワインを飲んで行われたこともある。記憶が定かではないが、この時は“ドカ ダンス デッサン”を読んだのではなかったろうか。
 日本の古典を読む会については、すでに当ブログで以前に紹介したことがあるので詳しいことは省略するが、新潮日本古典集成の主要なものはほとんど読んだように思われる。「竹取物語」を読み、「伊勢物語」へと続いたのではなかったか。
 「伊勢物語」については、「日本の古典が伊勢物語一冊であったら現代の小説家はみな絞れ死ぬであろう」「伊勢物語は突端まで到りついた人間の戯文である。あの物語には人生の危機がどっさりゑがかれてゐる。それがあれほどさりげなく書かれてゐるのがおそろしい。客観といふのでもなくましてや看過されてゐるのではない。たゞ日本の詩文とは、句読も漢字もつかわれないべた一面の仮名文字のなかに何ら別して意識することもなく神に近い一行がはさまれてゐること、古典のいのちはかういふところにはげしく煌めいてゐること、さうして真の詩人だけが秘されたる神の一行を書き得ること、かういふことだけを述べておけばよい。」
 三島の「伊勢物語のこと」(「文芸文化」昭和十七年)の数行を私はたぶん読んではいなかった。だがこんな詩を書いていたのを思いだした。


  伊勢物語に寄す

自負は己のいのちを歌う
ことのできる者のみにある

きみたちの けっしてのぞきえない
孤独を

ダンディスト在原業平
君と君の仮面のあいだに
軋む歌よ

この世の嫌悪に武装された
「伊勢」の美学など
君のふたつの顔のあいだに
洩れる吐息にくらべたら
陽炎にすぎぬ

誰も君の心を みたものはないと
歌う

君のまじかに迫る
ただ一人の友のため
                  
              詩集「海の賦」より






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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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