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これは「戦争」ではないのか

 国際法等の定義からすれば正確ではないかも知れません。「災害」というべきなのでしょうが、すでに一年が経とうするコロナ禍について、これを「災害」としていつまでも右往左往をしているのはどんなものでありましょうか。
 そんな疑問がふとうかびました。一過性の災難を越えていまや世界的な惨禍を呈しはじめているこの現象(歌舞伎町の飲食店の若者は「病気」というよりこの「現象」という表現を使っていましたが)から、現在のグローバル・パンディミックは今や世界に蔓延しているある種の「戦争」と表しても過言ではないのではありますまいか。少なくとも国民の心理的レベルにおいてはそれに近い様相があると思われてなりません。
 そこでこうした状況下の個人レベルの幾つかの事象を記しておくことにしましょう。
 私の記憶が確かならば、ラジオで英語のニュースキャスターが音程をすこし上げて「グローバルパンデミック」と発音したのを耳にしたのは、昨年2020年3月中旬でありました。偶々、初期の食道癌の除去手術のため某病院に入院して治療が終わり、ベッドに横たわり小型ラジオを聞いていたときでした。その発音がラジオから流れてきた瞬間、「これはやばい!」と思いました。私はすぐにナースコールで看護婦さんを呼び、手術後の食事も終え問題はないので明日に退院をしたい旨を告げたのです。看護婦さんは既に病院内での感染防止から情報を聞いていたらしく、手術の担当医師に相談したいと機敏に個室病棟を出て行き、そのとき廊下に開け放たれていた扉を隙間なく締めていく動作から、やはりそうかと院内の状況を知りました。暫時の後、先生の許可が下りたと聞き、家内に電話で明日に病院を出ると伝えました。私自身のコロナへの恐怖はたいしてなかったのですが、私個人というより感染を拡大させる当事者になることが厭でした。翌日午前に電話では来たくないと言っていた家内が病院一階のエレベーター前にいたのに驚き、すぐに二階の退院手続きの窓口に移動し、手続きの進行が遅いのに苛立ったのは院内でのコロナウイールスの飛散は想像にあまりあったからでした。玄関から逃げるようにタクシーに乗り込み、つぎに通院していた某病院の眼科の予約を取り消し、薬だけを近くの薬屋で受けとれるとなるまで、私は安堵することができませんでした。数日後、脱出した病院から感染者数名発生とのニュースが流れましたが、逃れられたのは動物的な本能からの直感的想像力と行動だったと思い知ったのです。
 それから今に続く巣ごもり生活が始まりました。徐々に溜まるストレスは些細なことで対人関係を悪化させ、自動車の無謀運転はすぐに気づかされました。家庭内暴力と自殺者の増加は早速ニュースに流れ、不要不急な外出の制限という自粛生活は、早速、文学において「アンソーシャル・デスタンンス」なる題名の小説が書かれたたことは既に紹介させてもらったところです。しかし、文学は三島氏が言ったとおりその本質において反社会的な要因を内包するもので、これは社会的な自由の発現として健全な証拠なのでした。むしろ抑圧され内攻したSNS上での誹謗中傷やいじめ、嫌がらせの類いこそ不健康な社会的な兆候と見るべきでありましょう。
 株式市場では「巣ごもり銘柄」と呼称された株価が急上昇し、瞬く間に、マスクは改良され「アベノマスク」が嘲笑されたのはそう時を経てはおりません。市民が利用していた公共施設が使えなくなり、人が集まるイベントの中止が相継ぎ、季節は春から夏へと移っていたのです。
 そして秋を過ぎた新年の冬になり、自粛による巣ごもり生活はすでに一年に迎えておりますが、依然として感染拡大の傾向に歯止めがかかる兆候をみることできておりません。ワクチンの開発と使用が最も素早い効果となるのでしょうが、日本国内のワクチン開発はどうなっているのか、その詳細な情報もありません。1980年代の情報化への突入の頃に日本独自のコンピューターの研究・開発が陰湿な手段で阻止されたことは、優秀な宇宙研究者から仄聞したことがありますが、同じようなことがもしやこのワクチン開発にもあるのではないかとの疑心暗鬼に捕らわれるところです。
 気晴らしに近所のお風呂屋さんへ行きました。番台のお婆さんは常連客には声をだして挨拶をしますが、時偶現われる気まぐれの客には沈黙をしているようで、あまり気持ちのいいものではありません。それでも久しぶりに見る大きな富士山のペンキ絵に感動したのには、不思議な思いがしました。
 ところで、これも仄聞した話しですが、町の中華蕎麦屋へ行き、カウンターに座ったところ「黙食」というカードを見たそうです。飲食での会話が感染の場となることから、こうした造語が生まれるのだと感心したそうです。ところが、入口に数人の客が来ますと、カウンターから出てきた店員さんが、そばに来て大声を出されたことには吃驚したそうです。これで「黙食」は台無しとなり、それどころか、店員さんの口から飛散した唾入りの中華蕎麦を食べたような按配だとの滑稽な感想を聞きました。
 また、これは戦後の教育行政とも関連する事柄かもしれませんが、学校の体育館が感染を恐れて開放されていないそうであります。市民の肉体と精神の健康のための有効利用が、逆に制限されているのは、利用者の側からの学校側への感染の危険性が配慮されたからでしょうが、利用者側からすればいまや若い生徒の多数を擁する学校側からの感染の心配があるとのことでした。利用が許可されていたときには、利用者は施設の徹底的な消毒を課されこの励行に努めた結果、感染の拡大の事実はなかったとお聞きしました。市民の精神的なストレス等は日に日に増大し、自殺等数値は上昇の兆候が予測されている現在、こうした公共施設の利用という行政の硬直的、画一的な閉鎖措置には弾力的な運用が図られねばなりません。
 店に来る客、そして公共施設を利用する市民にだけ感染者をみようとする、一方的な固定観念は早期に払拭しなければならないでしょう。見えない細菌という「敵」への対処に混乱があってはならないのです。
 コロナ禍は今後、個人を越えて社会と国家へとその構造的な問題を露呈させていくことでありましょう。個人の自由が無制限に抑圧されることには慎重さが必要ですが、できるならこの災害を奇貨として世界全体がより良い方向へ向かい地球規模の諸問題に対する前進が期待されているのではないでしょうか。
     
    コロナ下や いのちのあかり 桜草





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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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