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 「天の夕顔」中河与一

 この哀れな男の話を、この強熱の誤謬に似た生涯を、どうぞ笑って下さい。
 この一節は、昭和13年に発刊された小説「天の夕顔」の末尾にある文章です。雑誌に発表された当初は黙殺された中河与一の典雅な本作品は、先の戦争と戦後を生きのび、おおよそ四十万部の読者を得たと、保田与重郎は昭和二十九年の解説に記しています。
 西欧の5カ国語に翻訳されたこの作品は、アルベールカミユにより「技巧の簡潔さによって生き、毅然としてしかもつつしみ深い」との惜しみない賞讃を受けました。
 二十一歳の青年の七歳年上の人妻への激しい思慕は二十三年の歳月を経て、純潔のままその女性が老いて死ぬまで貫かれたのです。
 日本浪曼派の保田与重郎はこの作品を文壇の世俗化とからくりに対し、本質的かつ根本的な文学上の抵抗を示したとして大変に評価をしたのでした。
 保田与重郎は戦前に活躍した文芸批評家ですが戦後は公職追放を受け逼塞した人物であります。三島氏は生前、この保田からの直接の影響を否定しむしろ蓮田善明との親交により日本浪曼派からの影響を肯定したところです。この三島氏も同様に、保田氏が「天の夕顔」の解説で指摘した「王朝的な唯美精神」の成果を体現した作家であったことはたしかなことでしょう。

 つれづれと空ぞ見らるる思う人
         天くだり来むものならなくに

 この本のエピグラフには王朝の歌人和泉式部の上記の一首が載せられています。
「そのうち、何かをきっかけに、郵便で、わたくしはあの人から本を借りたことがありました。
何しろわたくしは、天体物理の学生で、そのせいか、趣味として女性のしたしんでいる文学ほど、そのころのわたくしにとって、ふかぶかと美しく思われるものはありませんでした。
 それは翻訳の『アンナ・カレーニナ』で、読みすすでいくゆくうちに、わたくしは丁度アンナが雪国の汽車からおりて来て、ウーロンスキーと不幸な、しかしこの世で最も喜びに溢れた逢い方をするあたりで、小さい一枚の名前を見つけたのです。(中略)
 ところが、次ぎに借りた『ボバリー夫人』にも、そんな栞が入っていて、それには、

 わすれじの行末までは難ければ
      今日を限りの命ともがなー

 という高内侍の歌が書いてありました。」
 
 私はこの人妻とのストイックな恋愛が破綻するその限界を叙述した箇所の文章がなんとも好ましく思われてなりませんでした。
「もうあたりはほとんど暗く、あの人が蛇をこわがるので、私はそれを逃げさすために、先に歩きはじめました。わたくしは少年のように自分の強さを自覚し、拾った竹切れを持って、それを快活に表現するのでした。
 やがてあの人は、道の端で夕顔の花を見つけると、それを摘みとるのでした。手に白い花がにじんで、それが夕暮の色を余計に濃くするように思われました。
「なぜ結婚なんかしたのです」
 わたくしは、ふと唐突に運命というものに対する深い疑問を感じると、腹立たしげに、あの人に、そう尋ねました。」

 ここに結婚制度の倫理的拘束に抗おうとする若い主人公のぎりぎりの反抗の姿が浮かび上がっています。しかし作者のたゆたうような典雅な筆遣いはその限界を突破することを決して許すことはありません。
 やがて女からの手紙がきます。そこには建礼門院右京大夫の歌が書きつけられています。

 今はただしひて忘るるいにしへを
    思ひ出でよと澄める月かなー

 作者は自分の運命と諦観させる主人公に「自分は魂の本然に帰りたい」と決心させます。この決意こそ日本浪曼派(保田与重郎)がこの作品の核心に見ようとした剛毅な精神といえるのではないでしょうか。
「王朝文藝の系統をひく今の上方文化も、その意味で濃厚執拗なものである。海外の評家が、このロマンスの小説家の成功の原因を、作者の毅然としたつつしみと、簡潔で節度ある文体に見たのは当たっているのである。濃厚な内容を淡々と現わすことが、文芸の目標である。」と擱筆している。
 私もこの小説を結ぶ最終の文をひいて筆を擱くことにしたい。
「好きだったのか、嫌いだったのか、今は聞くすべもないけれど、若々しい手に、あの人がかつて摘んだ夕顔の花を、青く暗い夜空に向かって華やかな花火として打ちあげたいのです。・・・・
 しかしそれが消えた時、わたくしは天にいるあの人が、それを摘みとったのだと考えて、今はそれをさえ自分の喜びとするのです。」







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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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