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一人の青年

 早朝、隅田川べりを足の運動がてらに、散歩をしている。
 あれは初冬の頃であった。まだ明け初めぬ路上に、一人の青年を見た。視線が合った瞬間、その青年の瞳は逸れて恥ずかしげに顔を俯かせた。まだ、中学か高校生ほどの、若さであった。大きなリアカーにその朝の街から回収したダンボールが、さほどに多からぬ嵩に積まれていた。悪いことをしたように、私の胸が痛んだ。あの若さでどのようなわけで、そこまで追い込まれねばならなかったか、おおかたの察しはできた。
 この不況の深刻さは、最底辺の生活者にこそ、その皺寄せを強いてきているのだ。ネットカッフェ難民、派遣労働者の賃金の切り下げと首切り、失業者と自殺者、生活保護世帯の増大。荒んだ職場でのパワー・ハラスメント。さらには、自暴自棄からの無差別連続殺人の連鎖等々である。
 バブルの崩壊からの「失われた10年」以後も経済は低迷をつづけ、そこへ追い打ちをかけるようにアメリカ発の「金融恐慌」が、世界の同時不況となった。都市と地方、富者と貧者、格差社会の出現はもう誰の目にも明かな社会現象であろう。私のように経済に疎い人間も、「マネー敗戦」「超資本主義」から幾多の経済関係書、そして今回、中谷巌の「資本主義はなぜ自壊したか」を読まざる得なかったのだ。
 夜中の風に目覚め、軒下の風鈴があまりに繁く鳴り続けるので、とうとう起きあがって南武風鈴をはずしてしまった。それから寝付けずに、学問と学者についておぼろな考えに耽った。「吾輩は猫である」という小説を書いた夏目漱石は、国費で英国へ留学、帰国後、東京帝国大学等で「文学論」を教えていたが、40歳のとき辞職、朝日新聞社に就職した。その後の10年がなければ、漱石の文学はないと言って過言ではない。江戸時代へ遡れば、薬業を生業としながら日本の国学を建設した本居宣長がいる。この人の学業は小林秀雄氏の最後の研究になったが、宣長は立派な学者ではなかったであろうか。民俗学者の柳田国男、政治学者の丸山真男等は、斯界に偉大な業績を残している。
 だが、経済大国日本の名は今は昔にしても、経済学者の中谷氏は現下の日本の社会状況に「グローバル資本主義に内在する問題」のあることを鋭敏に反省し、翻って自分の誤りを「転向」とまで言って悔悟している姿は、なんとも正視に堪えぬものがある。これはどう受けとっていいものだろうか。
 この本の著者(学者)の態度変更(本人は「転向」とまで言っている)について、私は読後の印象はなんとなく、後味の悪いものが残りました。氏は竹中平蔵氏と同様な考えに立っていた者です。その人がこんな簡単に、改悛し一冊の本で「転向」を表明する。これが、学者という者の姿であっていいのだろうか、という単純な感想です。学者が一冊の本を書くとはこんなことなのか、という素朴な疑問です。お笑いの芸人のような軽い乗りで、できるものではないはずでしょう。
 氏はカール・ポラーニを紹介し、「石の挽き臼」である酷薄なる「市場」経済を説き、度々、渡辺京二氏の「逝きし昔の面影」で描かれた、失われし日本の昔に幾度となく思いを馳せています。これらの本が世に出たのは、何時のことであったのでしょうか。
 正直、私はこの本になにかを期待していたようです。しかし、残念ながら、あまりに軽い著者の態度変更に、まずその期待は萎んでいくのを禁じ得ませんでした。いや、これが現代の学者の生態だとは思われませんが、ここには、なにか本質的は「問題」が潜んでいるのではないか。これは一学者に留まりません。現今の為政者をも含む看過しえないある傾向が窺えるのではないのか・・・・。
 著者によれば、貧困率では、日本は世界のワースト2位となったとのことです。
 果たして貧困率だけでありましょうか、日本の空疎な「軽薄力」こそが、その底にあるのではないのでしょうか。捩れて落ち着きのない姿勢と眼差し、その場しのぎの放言の見苦しさ。
 私は、一人の若い青年の目を伏せるしかない、痛切でくるし気な含羞を思い、自分の分を越えることを記したことを、私もまた恥じなくてはならないようだ。
 この梅雨が早く霽れるとことを願い、爽やかな風鈴の音に耳を澄ましていたいものである。



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テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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