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武道という風景(4)

 川端康成氏のノーベル賞受賞講演「美しい日本の私」のなかに、「雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季折り折りの美に、自分が触れ目覚める時、美にめぐりあふ幸ひを得た時には、親しい友が切に思はれ、このよろこびを共にしたいと願ふ、つまり、美の感動が人なつかしい思ひやりを強く誘ひ出すのです。」(1968年)
 という一節がありますが、この出典がどこからかと考えることはありませんでした。大岡信氏の「詩人・菅原道真」(1989年)の読後の印象が良かったことから、同氏の「歌謡そして漢詩文」(日本古典詩歌3)を開き、「『花』の一語をめぐる伝統論」を偶々読んでみたのです。これによると川端氏の講演の一節が「白楽天詩後集」に収められた七言律詩の「殷協律に寄す」からのものだとありました。

 琴詩酒の友皆我を抛つ 雪月花の時に最も君を憶ふ

「悲憤の詩人としての白楽天、そして杜甫のイメージが常に芭蕉を導いているので、彼がもし『雪月花』を思う時は、それは『琴詩酒の友皆我を抛つ』という文脈において想起される種類のものだったに違いない」
 大岡信氏はこれをもって「日本」の美と心を要約したとする川端氏に理解を示しながら、この一節が晩唐の詩人の哀傷歌であり、芭蕉の「雪月花」の観念には川端氏よりも激しい悲調にあると強調しています。中国の多くの詩人が悲運の生涯に果てたことを私が知らないわけではありません。
 だがどうでしょうか。川端氏に私淑した三島氏はおそらく大岡氏の川端文学の理解に不満を示したことは間違いないでありましょう。なぜなら川端氏の「末期の眼」以来の諸作品を三島氏ほどの慧眼をもってその心底から評価を行える作家はいなかったでしょう。川端氏からすれば芭蕉の悲傷は戦後まじかの横光利一への追悼文を読むまでもなく、更には三島氏の自決が川端氏にあたえた衝撃は氏の自死まで及ぶものと想像されるものだからです。ただここに、一片の保留を置くならば、三島氏の川端讃美は谷崎文学においてもそうでありますが、その嗜好と批評の論理において非の打ち所のないほどに自分の文学に引き寄せる強引さがみられるということを、常に念頭におく必要があるということであります。
 大岡信氏の詩がその根源に悲傷にあることは辻邦夫氏が指摘しているとおりでありましょう(「現代の詩人11中央公論社1983年」)。また、氏の「保田与重郎ノート」(1961年)が三島氏から激賞されたことは私も知っております。だがそれにもかかわらず、さきほどの留保つきながら、三島氏の追求した現代の「文武両道」において、特攻隊がもっとも清純な一篇の詩と化し、行動ではなく言葉になったという認識の悲劇に終わったことを、それ以上に重要に受けとめざるを得ないのです。「文武両道」は江戸期においては当然の武士の職業生活のスタイルであり、これを敢えて言挙げする必要もないことでした。映画「人情紙風船」では仕官のできない武士がいかに惨めな生活を送り、この惨状を見るに見かねた細君に刺殺されるシーンで終わりました。
 私は「現代の『武道』は『人間の生きる知恵と力を高めること』であり、それに尽くされる」(内田樹「武道的思考」)に同意しないわけにはいきません。
 この社会に出るとき私は、「思想的」な一切の本を投げ捨てなくてはいられませんでした。三島氏の筋骨隆々の肉体に滑稽を感じながら、他方、吉本氏等の「思想」的な著作を目にすることを嫌悪しました(後年同じ本を買い戻したことも事実ですが)。代わりに22歳の私は職場の帰りに、ボディービルのジムに通いだしたのです。3ヶ月で私の身体が変化したことに爽快を覚え、以後、職場が変わってもジム通いだけはやめることはありませんでした。30歳頃に腰椎分離症でつらい思いをしましたが、入院治療を放棄し毎日のようにプールで泳ぐことで、腰椎の病魔から解放されたのです。
 社会に出て最初の会社に辞表をだし、1年ほど都心にある図書館に通って法律の勉強をしていたときでした。ポールヴァレリー全集に出会い、私は再び「テスト氏」に魅了されたのでした。





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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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