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 「忠臣蔵」秋山駿 (1)

 秋山駿という批評家が三島由紀夫へインタビューをしたことがあった。ピュアで木訥な秋山さんはのっけからこんなことを言った。その冒頭のことばを引用したい。
「ぼくは、三島さんの世界に、意識して近づかないようにしていたことがあります」(「対談・私の文学」講談社)
 むかし本屋でこのくだりを雑誌の掲載で読んだとき、これに対して三島の反応はいま上記の本に収まっている穏当なものとちがっていて、読者をして一瞬心胆を寒からしめる険しい物言いであったような気がする。
 またそのむかし、ある宴席でのこと。若き三島が太宰治の正面に座り、
「私はあなたが嫌いです」
 と言った。
 太宰はちょっと盃を持つ手をとめると、青森弁に突然になったかそれは定かではないが、こんな意味のことを返した。
「そんなこと言ったって、君はぼくが好きなんだよ」
 これは聞いた話しなので真偽はわからない。秋山さんへの三島の返しのことばは、今ではこんなふうになっている。
「『太陽と鉄』を読んでくれたそうで、あれを読んでくれればそれでいいんです」
 おそらくその後本になるときの校正で現在のものに直されたのだろうと思う。
 秋山さんの書いた「信長」(1996年)がベストセラーとなったあと、秋山さんにあう機会があり、この三島のインタビュー時のことを確かめておこうと思いながら失念したのは残念なことであった。
 「信長」は江藤淳がNHKの「視点」とかいう15分の番組でこの本をとりあげ、「秋山さんがこんど石を掴んで走りだした」という賞讃のことばを口にしたと語ると、秋山さんは「ああ、そうでしたね」と懐かしそうに相好を崩された。

 それから、十数年が経ち、元禄十四年(1701)三月十四日、午前十時ごろ、江戸城松の廊下での刃傷事件が起きた。これはたちまちドラマとなった。
 だが秋山さんが書いたこの「忠臣蔵」(新潮社2008年)について、好意的な書評を読んだ事がないのはどうしたものであろうか。この本を買ってから相当の年月が経ってしまったが、最近ようやく読む機会を持った。「信長」に劣らない良作と思われたので、ここに一文を草しておきたい。
 秋山さんは松の廊下の赤穂の藩主内匠頭の吉良上野介の刃傷の尖端とその時代背景にある根本に、実に公平で正確な観察と卓抜な考察をしているのである。

 時は徳川綱吉、四代目頭首の元禄時代に起きた江戸殿中松の廊下での浅野内匠頭(35歳)の吉良への刃傷から始って
吉良邸への赤穂浪士47士の討ち入りで終わる江戸庶民から日本中の耳目をそばだて、後に近松門左衛門が「仮名手本忠臣蔵」として歌舞伎などに生まれ変わらせた事件のことである。因みに小林秀雄はこの刃傷事件が後世に与えた思想的な影響に鑑み「精神的事件」とまで述べている(忠臣蔵Ⅰ、Ⅱ「考えるヒント」所収昭和50年刊)。
 すでに小林がとりあげた「忠臣蔵」を秋山さんが新規に考察する手立てに使ったのが、二人の女の思いの深さであった。
その一人が柳澤吉保の側室正親町町子で、彼女が記した『松蔭日記』(上野洋三校注、岩浪文庫)である。女が家庭内で見聞きした贈答、招待、来客、挨拶という「社交生活」の一部始終の記録であった。
 これは秋山さんの「赤穂義士の討入りは、男の文化であるが、義士の背後には、女の世界があるはずであって、それが、忠臣蔵というドラマの一半を成す」との認識からきているからだ。
「女は男の成熟する場所」だと小林は苦しい体験から学んだが、忠臣蔵を女の場所から観ることはしていない。小林の文体は男の知性の運動には優ったが、女が男を仔細にみる家庭という現場からは、さらに一見高度な抽象世界へ向かったからである(正宗白鳥との論争「思想と実生活」)。
 それはともかく、秋山さんは賄賂の多寡がこの事件の発端であるはずはないと断言している。浅野内匠頭はすでに17歳で勅使饗応役を果たしている。その同じ人間が賄賂の手配に落度があるはずはなく、赤穂の武士達の事務能力には秀でたものがあったのは事件後の江戸城からの撤退、また、赤穂城の引き渡しの手際をみれば自ずから知られると書いている。いったい松の廊下で吉良上野介と内匠頭の刃傷の尖端には何があったのだろうか。
 ーわたしは、刃傷事件の全体は、綱吉の、桂昌院従一位の贈位に対する、皇室への、現実的には勅使への、返礼として仕組まれたものだ、と思っている。
 これは秋山の「信長」の桶狭間の戦いへのリアルな想像力に匹敵する鋭利な観察ではないのか。この本はこの全体の構図をパッチワークの断片をもって、その空白を埋めていく爽快なるゲーム感覚の趣きがある。
 一例として、内匠頭がもし吉良への宿意を懐き殺意があったなら、背後から追って眉間に傷を負わせるが如き不手際を犯す侍がいるだろうか。明治の陸軍大将の乃木希典は私なら吉良の胸か腹へ刀を直に刺しただろうと、人に問われてそう答えたという。  
 また、秋山さんは書いている。
 ―刃傷の場面を、注視してみよう。
 この事件は、「卒然として、場所もあろうに、時もあろうに、この時この処にて」でなければ、成立しなかった事件である、とわたしは思う、と。
 松の廊下に三人の登場人物がいる。斬る役が内匠頭、斬られる役が上総介で、二人の間に割って入って殺人を留める役が、梶川与惣兵衛であった。秋山さんはこの梶川を重要人物とみているのだ。
「彼が上野介と立ち話をしたのが、刃傷の発端である。つまり、事件の発端は彼が作った。そして、上野介が殺されないように、彼は内匠頭を抱き留めた。もっと大切なことは、刃傷の動機をうかがわせるもの、『覚え候か』とか『宿意あり』とかは、内匠頭も上野介も何も言及していないのだから、ただ与惣兵衛がわれわれへと伝えているだけなのである。さらに、こう言ってよければ、内匠頭と上野介ただ二人のときの刃傷であれば、それは単なる事件であって、ドラマにはならぬ。与惣兵衛が二人の間に割り込んで刃傷を未遂にしたから、興味あるドラマが誕生したのである」
 さらに、秋山さんの推察はつづけられる。
 では、与惣兵衛は、なぜ、「この時この処に」やって来たのか。そして、内匠頭を激怒させ、刃傷の行為を発さしめたものは何であろうか。
 この後の秋山さん想像による推理は、成る程と唸らせるものがある。とりあえず、秋山さんと共に先に進んでみようではないか。
 それは「桂昌院(綱吉の生母)からの勅使・院使に対する、御礼申し上げられるための打合わせ」という理由があったからだ。ではこの「御礼」とは何か。城中では誰もが知っていることだ。即ち、桂昌院が翌年にかって前例のない「従一位」という高位の身分になることを、勅使・院使が伝えたからだ。
 さてここで、二者択一場面として、与惣兵衛は、ただ偶然に、松の廊下、「この時この処に」来かかったのか、それとも、計量どおり、つまりは誰かの計らいどおりに、「この時この処に」立つことになったのか、である。
 秋山さんは、「偶然というのは、刃傷がドラマになり過ぎでいて、却って不自然に感ぜられる。完全に計量通りに、『この時この処に』立った、と考える方がすっきりする」と見る。
 「むろん、与惣兵衛が自分で計量して動く訳ではない。彼は、大きな計量に従って動かされるだけだ」と。
「桂昌院、そして内使としての与惣兵衛、さらにあ上総介、この三者を支配して、完璧に、計量通りに、刃傷という創作へと向かわせる。そんなことの出来る人物が、誰かいたか。いたのだ。
 ―ただ一人、柳澤吉保にはそれが出来た。」
 いったい柳澤吉保とは何者であったのか。秋山さんが言うとおり、小林秀雄は「考えるヒント」の「忠臣蔵Ⅱ」で、柳澤吉保のことを「総理大臣」と表現している。「成り上がり者を総理大臣にするのも辞せず」(小林「忠臣蔵Ⅱ」32頁)とそれはみえた。
「与惣兵衛は、桂昌院が派遣したお使いであった。では、桂昌院は江戸城にあってどんな存在か」
 ここで秋山さんは徳富蘇峰『近世日本国民史 元禄時代政治篇第十二章』「幕政に及ぼせる婦人の勢力」から次ぎのくだりを参照する。
「桂昌院は母であるばかりでなく、綱吉にとりては恩人だ。綱吉を将軍の位にまで、持ち上ぐる運動者の隋一人だ。(中略)桂昌院は、シナの朝廷における皇太后と、ほとんど同一の位置を占むるに至った。たとい垂廉の政治は為さざりしも、桂昌院は、綱吉を透して、大なる政治的・社会的の勢力であった」

(続く)





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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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