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「忠臣蔵」秋山駿 (2)

 将軍綱吉は桂昌院に頭が上がらなかったのである。この二人の間に柳沢吉保が匠に入り込んで、桂昌院に力をもったのはいかなる経緯からなのか。簡単にいうと、柳澤吉保が綱吉の意に迎合し忖度して桂昌院の位階昇進の勅令を受ける段取りを取り計らい、この御礼として綱吉は吉保を元禄十五年三月九日に午前に召して、食録二万石を加増している(徳富蘇峰『近世日本国民史』柳澤吉保と女性)。
 秋山さんは、「刃傷事件があった元禄14年3月、吉保が何を要請しても、桂昌院は感謝しつつ従ったであろう」と述べている。そして、上総介については「元禄の寵臣柳澤吉保とも、親善の間柄であったらしい。彼は将軍の吉保邸御成に際しては、つねに他の柳澤中心の鄒炎的諸同人とともに、部屋詰めの一人であった。されば殿中刃傷の一件に際して、その裁判の片手落ちであったのも、畢竟彼が平生柳澤と、親善であった御蔭だとは、当時の説であった。(「赤穂義士」第二章「浅野家と吉良家」)」
 「世上に柳沢の腰巾着という渾名さえあった。」(『元禄快挙録』)とも書いている。

 さて、秋山さんと共に、松の廊下の刃傷事件の要点に話しを戻そうと思うのだが、かくまで徳富蘇峰の文献を秋山さんが援用して疑わないのは何故なのという疑問が萌すのは当然だろう。この疑問に補足しておくべき必要があると思われる。それを一言でいえば徳富蘇峰という人間が持つ巨大な熱量にあるとしか言えないのだ。
 徳富蘇峰の『近世日本国民史』は、1918年(大正7年)の寄稿開始より34年の歳月が費やされ、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書である。ここに膨大な史料の駆使がみられることが重要だ。100巻のうち24巻は生前の発刊に至らず、全巻の刊行は没後の1963年(昭和38年)、孫の徳富敬太郎の手によってなされている。大杉栄が獄中で読みふけっていたのが蘇峰の『近世日本国民史』であり、正宗白鳥、菊池寛、久米正雄、吉川英治らによっても愛読されたこと。松本清張が歴史家としての蘇峰を高く評価し、遠藤周作も蘇峰の修史には感嘆の念を表明していたというに至れば、秋山さんがこれを信頼するのも当然と言えるだろう。
 それだけではない。先に「松蔭日記」にみられたように、秋山さんは巷間の大名の評判記のようなものを、参考にするのも躊躇することをしていない。江戸の後期である元禄時代が武士階級の低落とは逆に、庶民たちの相対的な地位の隆盛がみられたことを秋山さんが強調し、こうした時代を背景に「忠臣蔵」を考察しようとしている秋山さんの姿勢と無縁なことではない。例えばこういう秋山さんの文章がある。
「江戸とは、江戸城を中心に、将軍から旗本八万騎まで、武士が、いわば、戦争をするための公務員の巨大な集団が住む都市なのである。(中略)・・・戦争をしないのだから、武士、この戦争をするための公務員には、本分というか本職というか、とにかくそういう仕事がない、というか、仕事をしなくてもいいのである。
 では、この無用の存在みたいなもの、武士とは何者か。そこで、戦国時代には深刻に悩まなくてもよかったもの、武士の一分、とか、武士道を真剣に考察するようになった」
 山本定朝の「葉隠」や「武道初心集」がこうした時代だからこそ生まれたと秋山さんは言っているのである。
 さて、こんどこそ江戸城松の廊下の刃傷の現場へ視線を戻してみよう。
先にみたとおり、松の廊下には三人の登場人物がいた。斬る役が内匠頭、斬られる役が上総介で、二人の間に割って入って殺人を留める役が、梶川与惣兵衛であったが、この梶川を秋山さんは重要人物とみていた。ではその理由に迫ってみようではないか。
 元禄14年3月14日、午前10頃、松の廊下で内匠頭と上野介がごく間近で出逢うきっかけを作ったのが、この梶川与惣兵衛からの「打合せ」にあったからだ。この仔細はともかく、二人が間近となる場の設定があれば、それで十分なのである。
「このとき、上総介が内匠頭にも意外な、しかも肺腑を抉るような何か、言葉を発したのであろう」と秋山さんは推察し、そして次のように想像する。
「あまりに意外だったために、数瞬の間があいた。しかし、我に返って言葉が腑に落ちると、その何かは、許しがたく、彼を激怒させるものがった。そこで、覚えたか、とか叫んで、立ち去りつつある上総介の『後ろ』から斬り掛かり、振り向くところの眉間を斬った」
 このときの「遺恨なり」の発声を秋山さんは疑問を呈しているのはつぎの理由による。
「いくら平和爛熟時代の殿様でも、われわれと違って、毎日刀を身近にしているのだから、前から胸に刻んだ遺恨なら、正面から腹か胸を突くであろう」と。
 そこで秋山さんが参考にするのが、全国諸国大名の評判記というもので、これによると長矩は「女色を好むこと切なり。故に奸曲の諂い者、主君の好むところに従って、色よき婦人を捜し求めで出す輩出頭・立身す」(佐藤孔亮「忠臣蔵事件」の真相)とあることから、つぎのような下世話めく「発見」の急所があったのである。
 内匠頭には世子がいなかった。このことと「評判記」の「真相」。これは評判なのであるから真偽は問われないから却って使い易い。これは人をいじめる「あてこすり」という心理的方法を考えればいいだろう。
 では、二人を間近にさせておいて、内匠頭を激怒させ、刃傷の行為を発さしめるものとは何か。
「人には秘して語ることができず、断じて他人から触れられたくないもの。それはセックスのことであろう」と著者は臆面もなく記している。
 ここまでの指摘をするには相当なる確信と勇気がいったであろう。だがこの想像は「忠臣蔵」という事件において、最も繊細かつ核心を衝くもので、肝心なこの点に自力で迫ろうとした人はいただろうか。
 「刃傷事件が勃発したとき、綱吉は、勅使との会見のために身を清める、行水の最中であった。これも計量の内であろう。容易に人は近付けぬ」(39頁)。これは吉保の時間かせぎであった。
 「柳澤吉保は、人々がこの由を言上せんとするを制し、行水も済み、髪上げも終わり、装束を着けんとするに際して、この顛末を言上した」(『赤穂義士』第三章「復讐事件の発端」)

 「すぐに内匠頭の代役を立て、改めて黒木書院で式典を行うとともに、綱吉の怒りが内匠頭に向く一方、吉保は、「上意なれば、本復の上は、相換わらず出勤せられよ」と、上総介をいたわった」と書いている。

 「柳澤吉保ただ一人の裁量によって、刃傷事件は遂行され、彼の思うとおりに完了したのである」
 
 この推理はみごとだというしかないだろう。「信長」での桶狭間の戦国の推理が「信長公記」の行間を読み、信長という個性を掴み出すことであったとすれば、元禄の刃傷事件は蘇峰の『近世日本国民史』をベースに、庶民の雑誌の類いまでをも参照することで、既成のドラマを信じたままに、それを疑いもしない現代人の通弊に一撃をいれようとしたのである。ここに、秋山駿という文芸評論家の一真面目があったのだ。


(続く)








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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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