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「ワーニャー伯父さん」

 広津和郎は座談の名手であったらしい。オレンジ・ジュースを飲みながら、とめどないおしゃべりをして、しかも聞き手をけっして倦ませることがなかったらしいが、テェーホフの暗い手の影のなかですごした若い頃の憂鬱については、ごく軽くしか、ふれようとしなかった。しかし、あるとき電車の窓のそとを眺めながら、ひとしきりチェーホフの話をしたあと、
「・・・・けれど」
 とつぶやいた。
「あんなに人生がわかってしまってはつまらないでしょうね」

 これは開高健が、チェーホフについて書いた一文であるが、このあと「名言である」と開口の感嘆がつづくのである。
 私もむかし、チェーホフの短篇や戯曲を読んで、やはり暗い憂鬱を経験したが、戯曲「ワーニャ伯父さん」からは、こころから感動、鼓舞されたことがあったのだ。私が自身の叔父さんの訃報に接し、テェーホフのこの戯曲(四幕)を再読したのは、私の叔父さんをこの戯曲とだぶらせていたことにあったからだ。しかし、再読してあらためて、チェーホフの作家としての魅力に触れ、叔父さんと「ワーニャ伯父さん」は明らかに異次元のもの、片や現実そして他方は芸術なのであることを知らされたのであった・・・・。
 一幕目ではワーニャ伯父さんの変貌ぶりを、チェーホフは登場人物の一人につぎのように語らせている。
「お前はこの一年のうちにすっかり変わってしまって、今じゃ別な人を見るような気がしますよ。・・・以前は、ちゃんと信念のある、明るい人間だったが。・・・・」
 そして、二幕目。その変貌の結果、どう変わっているかを、ワーニャ伯父さん自身に語らせるのだ。
「じゃ、まず第一に、この僕を僕自身と仲直りさせてください。ああ。エレーナさん・・・(彼女の手に唇を当てようとする)」
「僕の人間らしい気持は、まるで穴ぼこに射した陽の光のように、むなしく消えてゆくんです。そして僕という人間も、自滅してゆくんです」
「少しは、生きているような気がしますからね。飲むと・・・ほっといてください、エレーナさん!」

 チェーホフの「こわさ」は、19世紀のロシアの自然環境の破壊(土地の有価証券化)から、家族の崩壊、そして個人の解体まで、αからΩまでの悉くをあまさずに、視野にいれていることにある。これは20世紀のカフカが、ユダヤ人的な古層の記憶から、現代の社会状況と先端技術の不気味な予言までを幻視する想像力に対応するものだろう・・・・。
 ワーニャ伯父さんが、エレーナを恋をするのは、彼女にはまだ、解体以前の人間性がつぎのような科白に躍動しているからなのだ。
「この有能だというのが、どういうことだか、あんた知っていて? 何ものをも怖れない勇気、何ものにもとらわれない頭の働き、こせこせしない遠大な物の見方・・・だわ」(エレーナ)
 ああ、この科白を現代の人間達に、お聞かせしてあげたいものだが・・・・。
 そして、三幕目のワーニャ伯父さんの滑稽なほどの絶望の嘆きを聞いて欲しい。
「一生を棒に振っちまったんだ。おれだって、腕もあれば頭もある、男らしい人間なんだ。・・・・もしおれがまともに暮らしてきたら、ショーペンハウエルにも、ドストエフスキーにも、なれたかもしれないんだ。・・・・ちぇ、なにをくだらん! ああ、気がちがいそうだ。・・・・お母さん、僕はもうだめです!」
 この伯父さんを理解し、唯一慰めてくれるのは従兄弟のソーニャだけなようだ。なぜならソーニャもワーニャ伯父さんと同じ境遇を堪え忍んできたからである。
 四幕目の最終、ソーニャの燃えるような、長い科白にどうやら耳を傾けるときがきたようだ。
「ワーニャ伯父さん! そりゃわたしだって、あなたに負けないくらい不仕合せかもしれないわ。けれども私は、やけになったりはしません。じっとこらえて、しぜんに一生の終わりがくるまで、我慢しとおすつもりですわ。」
 そして、ワーニャ伯父さんの嘆きにたいして、ソーニャの感動的な科白を聞きながら、このへんで、幕を降ろさせてもらうことにしよう。一年に3万人以上の自殺者、一日平均90人ほどになる、日本社会の現状を思い浮かべながら・・・・。

「ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるともしれない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえていきましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてそのときが来たら、素直に死んでいきましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送ってきたか、それを残らず申し上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。そのときこそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあうれしい! と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮らしを、なつかしく、ほほえましく振り返って、私たちーほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん、心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの。・・・・(伯父の前に膝をついて頭を相手の両手にあずけながら、精根つきた声で)ほっと息がつけるんだわ!」 (神西清訳)

           チエーホフ画像


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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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