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坂東玉三郎

 昨年であったか、玉三郎の「鷺姫」を歌舞伎座で拝見した。その舞いの姿態は超絶技法というのか、安定感がそのまま危うい均衡にふるえる幻の楼閣をみるようであった。「美」が顕現するのはただ一瞬でよく、それで満足しなければならないのである。それは所有を嫌うからだ。
 「坂東玉三郎ー踊ることは生きること」をテレビで夜にみたのであるが、風に吹かれる柳のように、どこにもかまえたところのない、玉三郎の口の端からでることばは、羽毛のように軽やかで、抜き身の一閃で急所を衝く。春風のごときほほえみの裏に、夜叉が棲んでいる「女形」のやさしい眼差しが、とろりと光った途端に消え、男を誑かす情念の炎がめらめらと燃えている。アンジェラ・ワイダ監督は、京都で玉三郎のポスターを見て、日本にこのような美女がいるのかと驚嘆したそうであるが、実はそれが男であると知って、西洋の「美女」の観念を転倒せざる得なかったのだ。ドストエフスキーの「白痴」に原作をとった映画「ナスターシャ」は、男から女へ窯変する一瞬の映像にすべてが賭けられていたのである。
 「助六」の恋仲の三浦屋の傾城揚巻(あげまき)は、女形の最高の役所だそうだが、玉三郎の舞台は威風と艶美を打ち揃えて、花魁の形式美を開花させ、生々しい美の一点へ弓を引き絞っている。アリストテレスの「形」などは、日本の美学には存在せず、「美」はただ現実からかぎりなく遠い彼方の非現実の世界にしかないものなのだ。
 幼年から踊ることが好きだった玉三郎ならばこそ、「踊ることでここにいる」と語ることが可能なので、おそらくロシア・バレエのニジンスキーも同様な心境にあり、踊れなくなったときは、狂気の霧に掠めとられるのかも知れないとの危惧を懐かざる得ない。しかし西洋の舞踏と違う日本の伝統芸能に狂気の入り込む隙間はないのは、世阿弥の花の比喩が円熟への手助けをしてくれるからに相違ないのだ。
 肉体というものが、日々の鍛錬によってどれほどの得も言えない洗練の高みを極めるか、その明晰な解像を散文によって成し遂げたのがフランスのポール・ヴァレリーであった。海辺の貝殻のえがく形と紋様をまた彼ほど、美しく描写してくれた詩人はいない。詩人のジャン・コクトーをごろつき扱いしたのもわからなくもないのだ。
 それはともかく、玉三郎の趣味が海に潜るダイビングであることは、人間のからだが数千万年前の海にいた生物から変容したもので、DNAの中に刻印された帰巣本能は、こうした稀有な人間を海へ連れていかないはずはないのである。
 玉三郎が女形の役作りに、無駄をそぎ落としただ頂点へ、考古学的な接近を極めるのは芸術家の本能であり、舞踏家が地上から、天へ向かっての昇天の欲望を幾度も試みようとする、不可能の冒険に身を焦がすのも無理からぬことなのだ。自己陶酔と紙一重の自己否定のアクロバットな精神の集中によって、自己の状態を客観視しようとする努力は、日々の鍛錬によって試合へ向かって絶頂のコンデションをつくらんとするボクサーや武道家に近似してくる。
 すでに「性根」ということばは、死語になりつつあるが、これを重要視する由縁のものは、形は心と不即不離の関係にあるからだろう。そして、「師弟」関係も同様に廃れつつあるのも、両者がその意識から無縁な輩となりつつあるが故であろう。
 日本人は今一度、「儒教思想」で身心を鎧い浄めなければ、日本を「洗濯する」ことなどは、夢のまた夢と心得え、まして、「武士道」などはたわけものの妄想でしかないことを知らねばならない。


玉三郎

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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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