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作家の顔

 このような題名の文章を、昔、小林秀雄という批評家が書いている。江藤淳という批評家がこの本の解説をしているが、「顔」とは外貌のことではなく、一瞥の心眼が直観した作家の精神の相貌とでも言うべきものだと述べている。あるとき、この江藤氏は、いま世界的な読者を獲得している村上春樹という作家の顔に嫌悪を示し、その英語力に疑問を呈したことがあった。「なんとなく、クリスタル」で、1980年に文壇にデビューした田中康夫(現在は政治家)に賛辞を呈したのは、当時「文藝」の選考委員であった江藤淳氏であった。
 下世話めいた話しになるが、家人は政治家としてテレビ登場する田中康夫氏の顔を、どうも好きではないらしい。これは一女性の生理的な寸感なので、本質的な意味はどこにもない。テレビに登場する無数のタレントは、常時、こうした女性或るいは男性諸氏の好悪の対象に晒されているというだけの当たり前の事柄であるということにすぎない。
 さて、本題に戻ると、上記のような解説文を書いた江藤氏が否定したのは、当然なことに村上春樹の作家精神にほかならない。また、村上の英語力を疑問視したのも、自分を基準としての判断であるのだろう。文芸評論家として氏は、時折、実に辛辣かつ不遜とも言うべき批評活動をみせたことは、単行本「昭和の文人」や「自由と禁忌」を一読しただけでもそのはげしい爪痕を偲ぶことができるので、別段、特別な事ではない。丸谷才一や吉行淳之介の作品に対する批評は、知的領域を越えて私的な感情の噴出をもはや抑制しようとしないという、氏の覚悟さえ仄見えるものであった。それは「立国の精神は私なり」という福沢諭吉に深源するものであり、氏はそれを自負を持って語ってさえいたからである。晩年の氏が日本の政治の「大空白」を嘆きながら、「西郷南州」を書き綴り、数人の元総理大臣との対話集「月に一度」を刊行していく足取りには、なにか痛ましいものさえ感じざる得ないものがあった。
 吉本隆明との対談で、吉本が「江藤さんともあろうものが、なにもそんな現実政治に首を突っ込む必要はないではないか」という主旨の率直な助言に、氏は憤然としてつぎのように反論していた。
「私はあなたの批判する領域のことを、文学だと思うからやっているのだ」と、その憮然とした江藤の顔を私はたしかに垣間見たのである。吉本と江藤の対談は、10年に一度ほどの割合で文芸雑誌に載ったもので、私は興味をもって追いかけるように読んでいたものだ。「作家は行動する」「表現としての政治」を刊行した江藤からすれば、無理からぬ反論であろう。一時、保守派の論客として舌鋒鋭い論争を展開した文藝評論家の福田恒存氏は、昭和56(1981)年に中央公論から再出版した「作家の態度」(昭和22年初版)の短い文庫版あとがきで、つぎのようなことを書いていた。
『さて、文壇の有様はすっかり変わってしまった。なるほど「すっかりかわってしまった」のは、変わることを望んでいた私にとっては大いに結構なはずだが、それがそうは言えない。土台がまちがっていれば、その上に木片を置こうが、クリスタルを置こうが、所詮は同じことで、そのまちがった土台の方は一向変わっていない。いや、土台などというものは、もはや文学にとって不要なものとなったのである。・(略)・・今日の「文学」の大半は、「実行」においても「芸術」においても、解決しなければならない問題というものを持っていない。したがって、芸術でないことはもちろん、実行とも相渉っていない。両者を結びつける自己というものが存在しないのだ』
 私はこれをかなり本質的な状況批判だと、当時読んだのでいまでも記憶しているのである。
 上野千鶴子は初期の江藤が書いた「成熟と喪失」を、涙なくして読めなかったそうである。私もこの一書には多分に啓発されるものがあったが、それよりも、「小林秀雄論」は大学の図書館で読みながら、胸に熱いものがこみ上げてきたのを覚えている。氏が「行動家」の姿を鮮明にするのは、1970年の一月に書いた『「ごっこ」の世界が終わったとき』(「1946年憲法ーその拘束」文春文庫所収)からあたりではなかったろうか。ちょうどその年の11月に、三島由紀夫が市ヶ谷自衛隊本部で、壮絶な最期を遂げた年であった。その後、批判することで崇敬していた小林秀雄との対談上、三島の自決についての感想を、小林からのはげしい口吻で一撃されると、虚を突かれたように一瞬、絶句するような沈黙(そう私は感じた)を強いられる。この小林の痛撃をその後、氏が反芻しなかったはずはないと私は想像していた。
 やがて、晩年の江藤氏は最愛の妻を喪う悲しみに直面する。妻との闘病生活を「妻と私」に書いた江藤自身にも、次々と病魔が襲い、1999年(平成十一年)7月、氏は「諸君よ」と呼びかけた「遺書」を残して、自宅の風呂場で自裁した。同日同時刻、ちょうどその夕刻からの嵐のような天候の異変に、私は新宿歌舞伎町のビルの七階から、新宿大久保周辺へ打ち寄せる強い風雨を暗然と見つめていた。この「場所」こそ氏が幼年時代の一時を過ごし、「場所と私」にある憤りをもって懐古した処であった。このことは同人誌「水脈」24号に、「戦後私論」として、朝日新聞に投稿した「最後の批評」と題した私の一文が、その後一冊の本に収録されたことをも含め既に書いたことなのでここには繰り返さない。しかし、氏の「私」がそのまま「公」に直結する理路には、氏の抱懐するする私情と信念がいかなるものであろうと、ある違和感を感じざる得ないものであったのである。
 いったいに江藤淳氏ほど、評論の題名に「私」を対句に多用した人は少ないのではないか。いわく「アメリカ」いわく「戦後」、はた「文学」「場所」等である。しかしながら、はたしてこの「私」は福田恒存氏の言う「自己」と同質なものであろうか。そうであると同時に、そうではないのではないか。江藤氏はむしろ、幼年の頃より、そうではない「自己」を懐いてしまったが故に、若き日に傾倒していた堀辰雄の文学を激しく否定しながら、最後に書かんとして未完となった「幼年時代」に色濃く堀辰雄を髣髴させる文章を残して、あの世へと旅だったのであろう。まさに、氏が体現した「混乱」は、『「危険」な試行錯誤を選んだ者の支払うべき代償』(江藤「明治百年と戦後二十年」)そのものであった。そして、氏が村上春樹を嫌悪なくしてみることができなかったものは、氏を「自己」から剥離させ、またその故に強情なまでに執着させた「自己」像の分身、その不分明な「影」なのであったのではあるまいか。これは私のあまりに直感的な推測と突飛な想像にすぎないのかも知れないのだが・・・。
 最後にあるエピソードを一つ追記して置きたい。それは上野千鶴子女史の親分肌の詩人、小説家、評論家でもある富岡多恵子と江藤淳との対談のことである。最近ではフェミニズムの思想は一頃の感はないようだが、富岡女史はこの思想の質の高い体現者で、私は江藤淳氏とどのような私闘のダイアローグが展開されるのか興味津々であった。ところが、この対談は行われたことはたしかなのだが、ほとんど対談の態をなしていない、つまらなく、短いものに終わっていた。上野女史とは華麗なる展開を見せたのに、富岡女史とはまるでしめっぽいお通夜のような対談に終始し、これには江藤氏も鼻白んだにちがいない。貧弱な軽いジャブ程度の、まるで闘う気のないボクサーがリングで、だらりと両手をさげたまま、相手(江藤氏)の顔をつまらなそうに眺めている(富岡女史)の光景がみえるようであった。文壇の裏事情など推測しても詮方ないが、折角の好取組の四つ相撲をみる機会が、互いに胸襟を開くことなく消えてしまったことが残念であった。よほど相性が悪かったとしか思われないのだ。






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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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