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お料理をする

 むかし、八丁堀にあったが廃館になった施設で「男の料理教室」なるものを開催し、大変な盛況をみたことがある。いまでは、男が妻の代わりに厨房に入って料理をすることなど、ごく自然な風景でしかないのだ。男が女に代わりに、育児休暇を取得し、主夫となる世の中なのだ。
 大きな声では言えないが、ほんのときどき、妻の助けを借りながらお料理をすることがある。初めての頃は、まず、レシピのあの独特の文章、専門用語が理解できないので、解釈してもらわねばならなかったのだ。たとえば、小さじ一杯といっても、その「小さじ」がどんな「さじ」を指しているのか、「本だし」はどんな「だし」なのか、料理の基本用語が分からないので、ABCから教えてもらわねばならないのだ。
 それに、これは家事全般に通ずることだが、パソコンを初めて触る人と同じように、何十年の経歴をもつ専業の女性と違うことを、理解してもらうことだけでも、非常な困難なことなのである。なにしろ、先輩は目をつぶっていても、できる家事の仕事なのだ。頭に鬼の角を生やさせたらお終いなのだから、ね。
 だが、ひとたび男子厨房に入りなば、水を得た「手」は、そこに「日常」の身体感覚を取り戻して、ホッとした安らぎのようなものを感じるだろう。これが専業主婦たちが、長いあいだ、独占してきた、生き生きした食生活の核心だったのだ。このベーシックな人間本能から、遠ざけられてきた男たちは、なんと味気ない生活を過ごしてきたことかと、ショックを覚えることにちがいない。
 今回は、茶碗蒸しをご紹介してみたい。
これもだいぶむかしのことだが、上野湯島の料亭で六浪して芸大の建築科に入った男をもてなしたことがあった。まだ、「イケダ」のジャズ喫茶やその前の新装前の古い庇と格子戸の「蓮玉庵」の蕎麦屋などが、昭和の風景を残していた頃のことであった。このときに個室のお座敷で食した茶碗蒸しの味が、私の舌に忘れられない記憶を刻んだようだ。以来、私は茶碗蒸しに一目おくようになったのだ。まあ、口上はこのぐらいにして、料理に入るとしよう。
 二人分として、卵をふたつボールに落とす。白身をすくう要領でこの卵をよくかき混ぜるのである。これにとろみをつける汁をこさえなければならないのだ。かたくりこと塩と醤油と酒を用意して、それを透明でややゆるくかたまるまでかきまぜるのだ。これをさきほどの卵に味付けをした茶碗蒸しにまぜる。できたら、椎茸、ギンナン、鶏肉、海老の、それを幾品かを、具にしていれるのお好み次第である。それらを茶碗蒸し用の器に入れ、沸騰した鍋で5分程度、蓋をしたまま熱をいれる。竹の箸などで表面をつつき、箸にとろりとした卵の汁がくっついてくるほどになったら、火を止め、2分ほどそのままにしておく。
 このあいだに、秋刀魚の料理をする。時間は合理的に使うのが料理の要諦である。
 最近はこの秋刀魚も天候の加減で高価になっているらしいが、一本百円の割安の秋刀魚を二本、俎の上にのせ真ん中からばっさりと二つに切る。まず、秋刀魚のそのヌルヌルとして、細身の刀身のようなからだを、掌中に握ったときのそのなんともいえない掌の感覚は、男の脳髄を痺れさせるほどの「性的な感触」を呼び戻してくれるといったら、世の女性諸君の顰蹙を買うかも知れない。ましては、銀色に肌を光らせねっとりとした魚体を横に寝かし、それを切れ味のいい刃物で真っ向からぶつ斬りにするなんぞは、ゾクッとするほど男の始原の本能を刺激するのである。
 ここですこし横道にそれるが、ある居合道の流派では、水に一昼夜漬けた巻藁を、一刀のもとに両断する専門の道場がある。ここに蝟集してくる男達(女性も含む)の顔には、どこか奥深く抑圧された不穏の本能を満足させたいというひそやかな欲望が、時折、隠見されることがあるが、そんな顔つきをした剣士にはろくな人間はいないから、こうした手合いは無視して宜しい。
 まあ、それはともかく、ばらした魚体を魚焼き機にならべ、点火して頃合いをみて、時折、ひきずりだして眺める。茶色にこんがりとしてくるのを、しばらくこうして待つのである。
 さて、茶碗蒸しである。そろそろほどよく、かたまった器のその黄色のとろみのある平坦な春先の丘のうえに、春芽のような三つ葉を添えると、そのつんとした香りが茶碗蒸しの黄土に緑を散らしてまだ見ぬ蒲公英(たんぽぽ)の花を幻とみる風味が生まれるのだ。
 さて、みそ汁をもう一品つくることにする。
 お豆腐と若布を具にしたみそ汁を煮立てることにする。味噌は底に沈殿しないように、お玉のなかでよく溶かしてから、鍋にいれる。本だしを振りかけることを忘れないように、そして煮たってきたところで、味見をしてみる。すこし濃味がいいと思う。
 これは女房には内緒のことだが、結婚当初の女房のみそ汁は、おふくろのみそ汁の味からすると、まるでみそ汁の味がしなかったが、それを我慢しているうちに、いつしかおふくろのみそ汁の味は忘れられたのは、幸いなことであったが、できたら今一度、おふくろの味を思いだしてみたいものである。だがこれは叶わぬ夢である。孝行をしたいときには親はなし、ではないが、老いてふとおふくろのことを思いだしたときには、当人はこの世にはいないのである。まして、そんなことを一言でも口にだそうものなら・・・!?
 さて、料理のほうへまた戻ろう。
 秋刀魚のほうは、焼けたようなら皿に盛り、上からカボスの汁を、ぎゅっと握って数滴を垂らす。この掌中に握りしめたカボスの玉をつぶすと、汁液と同時に小さな実も一緒に出るから、それを除けるのには適当な網を使ってやるのがいい。汁液だけを垂らすのである。こういう小技が料理の小さな工夫だ。
 これで、秋刀魚と茶碗蒸しとみそ汁の三品のできあがったようだな。
 なんだって? たったそれだけのばかに淡泊な夕食だと!
 なに、これだけだって、汗しての男の料理なのだ。前期高齢者がそんなに栄養をつけて、どうしようというのですか。なにごとによらず、腹は八分目がころ合いだと、養成訓にあったではないか。
 だが、やや、これは不思議。他にもあと二品もあったのだ。枝豆に大学芋が皿に盛られてあった。「あった、あった」と、そんなに大声で言うほどのものではないがね。これは、女房がいつしか用意しておいたものだ。
 これで全部で五点の品がテーブルに並んだわけだ。三食、昼寝つきだ。まるで、専業主婦きぶんではないか。
 いずれにしても、こうした「日常生活」の一端なりを、楽しむ時間を「茶」を喫することに、「点前」に純化したところに「茶道」のこころに通じるものがあろうのう。時代閉塞のいまの日本の、そのひんやりとした、疎遠で、貧しい社会生活などは、もういい加減にして、短い余生であるのだぞ。ぬっくりと老妻との閑雅が生活を楽しまれよ!
 では、これからは食する時間だ。先刻から、腹が鳴っているので、テレビの映画ではないが、さいなら、さいなら。
 あっ! しまった写真を撮るのを忘れてしもうたわな。







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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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