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江の浦から

 
1971年の夏 初めて潜った海
それが 江の浦の漁港だった
パンフをみて すぐに応募した
夏のプールで猛特訓のあと
連れて行かれたのが 相模湾の海
曇り空のした ロープをつたって
10メートルの砂だらけの海底は濁り
砂からでた手がゆらゆらと動いていた
ハッと驚いたが ゴム手袋だとわかると
安堵して落ち着いたほど 海は恐怖をもって
迎えてくれた

 旧臘の12月中旬、東京駅から東海道線に乗り、根府川という駅で降りた。江の浦という漁港が近くにある。もう50数年もむかし、スキューバ・ダイビングの教習をプールでうけ、はじめて潜った海がこの江の浦であった。天気は曇っていた。海の底まで張られたロープをつたって、10メートルを潜水した。20人以上の若者が参加して1泊した漁港の家で食べた磯料理はいまも目の前に浮んでくる。お膳に盛られた魚介類の料理は豊かな海の香りがして味は抜群だった。大きなサザエにたっぷりと実はつまっていた。
 その漁港を一目見ておきたかった。宿屋が寐府川駅のすぐ近くに見つかった。早速、予約を入れると、翌々日東海道線に乗った。小田原、早川、その次ぎの駅が根府川であった。無人駅を素通りして駅前で送迎車を待った。宿屋から夕陽にほんのりと染まった空と相模湾の海が望めた。眼下の東海道線のトンネルで上りと下りの電車がすれ違っていた。和室と洋室の5部屋のみ。わりとゆったりした檜の日本風呂とジャグジーの湯船があった。食堂から広い相模湾が一望される。
 宿の主人の話では、江の浦の漁港はなくなり、いまでは釣り人が集まる埠頭だけが波に洗われているとのことだ。
 帰りは早川で降り、海沿いの市場の二階の食堂で牡蛎フライ定食を食べ、駅までの道すがら魚二匹とイカの塩からとカラスミを一瓶を土産に、上野駅まで帰った。

 根府川の駅前でかすかに覚えていた詩人の立て札をみた。茨木のり子という詩人。その詩の数節を読んだことがあった。ここにその詩のぜんぶを書き出しておこう。


     根府川の海    
                  茨木のり子

根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅

たつぷり栄養のある
大きな花の向うに
いつもまっさおな海がひろがっていた

中尉との恋の話をきかされながら
友と二人ここを通ったことがあった

あふれるような青春を
リュックにつめこみ
動員令をポケットにゆられていったこともある

燃えさかる東京をあとに
ネープルの花の白かったふるさとへ
たどりつくときも
あなたは在った

丈高いカンナの花よ
おだやかな相模の海よ
沖に光る波のひとひら
ああそんなかがやきに似た
十代の歳月
風船のように消えた
無知で純粋で徒労だった歳月
うしなわれたたった一つの海賊箱

ほっそりと
蒼く
国をだきしめて
眉をあげていた
菜ッパ服時代の小さいあたしを
根府川の海よ
忘れはしないだろう?

女の年輪をましながら
ふたたび私は通過する
あれから八年
ひたすらに不敵なこころを育て

海よ

あなたのように
あらぬ方を眺めながら……。




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鏑木清方

 国立近代美術館で特別公開中の「鏑木清方幻の≪築地明石町」≫を最終日に見に行った。有名な美人画三部作「浜町河岸」「築地明石町」「新富町」を目のまえにして、私はなんと幸福なときを過したことだろう。明治という時代の現実の下町が清方の絵のように美しいとは思えないが、少なくとも清方にこうした日本画を描かした東京の下町は、関東大地震まではその以前にあった江戸時代からの面影を残していたことはたしかなことであろう。「築地明石町」は一時行方不明となっていたもので、44年ぶりに再発見されたのだ。この美人画はたしかに手元においておきたくなる作品にちがいない。保存が良かったせいで今回、三幅一双で見ることができたのは幸運であった。
 「鏑木清方原寸美術館」というタイトルの本には、この「清方三部作」のほかに、「明治風俗十二ヶ月」が収まって観賞のポイントが記された紹介文が載っている。みな懐かしい明治の情景の原寸部分で、至れり尽くせりで喜ばしいかぎりだ。
「私の経てきた明治には、百年、百五十年前の江戸の市民が日々の暮らしの、行事、調度、たべもの、何くれとなくいつも手の届く身のまはりに残されてゐるものが少なくなかった」(「庶民の夏」鏑木清方文集 四)との回想がある。清方が昭和に入ってからこれらの失ったものへの愛惜から明治時代の東京の庶民の思い出を、情緒ゆたかに描いたのである。特にその細部は傑出したものであるのは、今回の三部作に共通した見どころであろう。代表作の「築地明石町」(明治2年)は清方が好んだ芝居や舞踊の要素がとりこまれ、伎倆の粋を尽くした傑作なのである。
 「明石町」は現在の東京都中央区の南部、ここに明治期に外国人居留地があったハイカラなところであった。そこに夜会巻の髪型、金の指輪をはめた上流の婦人を配し、絹糸のような後れ毛、淡い瞳に黒目の点がうたれ、下まぶたの際には薄紅色の線がひかれていると、くだんの本に的確な紹介があるとおり清方の美人画である。背景には朝霧にかすむ帆船のマスト、足下の洋館の柵に絡まる朝顔は盛りを過ぎたとはいえまだ蕾や花がついている。素足にのぞくのは千両下駄で親指に力が入って鼻緒をおしている細部まで行き届いた清方の描写は絶妙であろう。清さと潔さは明治の文明開化の穢れをも拭い去って、まさしく近代美人画の金字塔といって過言ではない。
 「新富町」(明治5年)は背景に新富座が描かれ、前の道を赤っぽい蛇の目傘をさし雨下駄で急ぐ、髪はつぶし島田を結い、縞の着物に利休色の江戸小紋の羽織を重ねた粋ないでたちの新富芸者が描かれている。私はこのところで数年働いていたことがあったから知っているが、海岸よりに鉄砲州稲荷があった場所だ。その向かい側の新川(旧越前堀)で父は生れて育ったと聞いたことがあったのでときおり散歩で足をのばした。清方が生れた明治十一年に新富座は新築され、櫓はなくガス灯と絵看板の近代的な劇場だったそうだが、明治期に全盛の新富座も大正に入ると衰退し、関東大地震で廃屋となったらしい。明治19年に中央区日本橋に生れた作家の谷崎潤一郎が箱根の山からこの震災を見物していて、「もっと燃えろもっと燃えろ」と自棄気味の科白を吐いた。ここには作家谷崎の愛憎はんばの錯綜した心境が込められていたに違いない。以後、関東から関西へ居を移した谷崎の文学は新たな開花を示すので、ここに芸術の摩訶不思議な運動がある。大災害が都会に襲うとどうなるかは単に、人命と建物の損壊にとどまらずに一国の文化・文明の運命さえ変えるかも知れないのである。
 「浜町河岸」(昭和5年)。清方はこの町にふさわしい女性として、踊りの稽古に通う町娘を選んだという。隅田川べりの柳橋にも藤間流の看板をいまもみるが、歌舞伎舞踊の振り付けで一時代を築いた藤間勘右衛門が浜町に住んでいたからで、娘はこの稽古からの帰り途中であるらしい。扇を口元に左手で袂をすくう仕草をして、習ったばかりの所作を思い返しているのだ。お太鼓に結んだ帯の内側にあてている朱色の帯揚げでくるんだ帯枕、着物をたくしあげたおはしょりの下からみえる赤いものは「しごき帯」で、この帯をチラリと見せるのが洒落であったのは、竹久夢二の絵にも同様なものが見える。隅田川を背景に対岸に深川、右に新大橋が描かれているらしいが、清方が浜町から本郷へ引っ越した年に鉄橋に掛け替えられとのことである。谷崎もそうだが時代の変化を敏感にキャッチするある種の芸術家特有の勘が働いたものであろうか。背後にみえる火の見櫓は清方の回想によると、関東大震災が起きるまで残っていたようだ。とにかく着物の描き模様が松竹梅で、紫と青が細やかな情趣を醸して、清方の好きなせかいを収拾する記憶の抽斗はその細部までも克明に保存されていたらしい。
 「明治風俗十二ヶ月」はみな昭和に描かれたもので、明治の場景を描かれた清方の作品の中でも白眉とされる。失ったものへの愛惜は切なるもので、東京の庶民の懐かしい思い出が彷彿とよみがえる思いがしたことだろう。懐かしい過去は過ぎ去っても現在へ生れ還ることができるのが芸術の極意であるのは文学にかぎらない。それが楽しく美しいものであるなら尚更のことであろう。季節ごとのこれらの十二幅から、明治の二、三十年代の市民生活の記憶を呼び起こした清方の幸福なる想像力は、賞賛するに余りあるものだ。この頃に上野の公園に正岡子規が元気に野球を楽しんだ公園があるが、そこに子規のこんな一句をみることができる。
 「春風やまりを投げたき草の原」
 さて、ここにその十二ヶ月の場景の代わりに言葉のみを載せ、せめて水瀬に浮び泥濘を泳ぎいく現代人の心根の潤いとしよう。
かるた(一月)梅屋敷(二月)けいこ(三月)花見(四月)菖蒲湯(五月)金魚屋(六月)盆燈篭(七月)氷店(八月)二百十日(九月)長夜(十月)平土間(十一月)夜の雪(十二月)                                                   
「<絵をつくるに、私は一たい情に発し、趣味で育てる。絵画の本道ではないかも知れないが、私の本道はその他にない>(「そぞろごと」鏑木清方文集一)と語った清方は、市井の人々に対する理解と共感をもって、暮らしにひそむ江戸の風俗を評言しつづけた。それは決まって懐古的だが、汲んでも尽きぬ麗しい人生の模倣であった。」と、「鏑木清方原寸美術館」に書かれている。
 「三遊亭円朝像」(昭和5年)は明治の大咄家であった。大きな湯飲み茶碗を両手にもって、目を光らせて聴衆を眺めている落語家の気迫は人物の大きさを窺わせるものがある。漱石は「夢十夜」ですでに明治へ批判の口吻を吐いている。況んや昨今の落語家とは月とすっぽん。品性のないわらいは下劣であろう。
 「隅田川船遊」(大正3年)は六曲一双の屏風絵である。明治の末に数年、浜町に住んでいた清方は隅田川の流れに親しんだ。そこから、江戸の華やかな風俗を想像裡に描いたのだ。男女の表情には船遊びを楽しむゆったりとした落ちつきと奥床しい情趣がある。
 「鰯」(昭和12年)。明治20年代の木挽町、築地界隈の秋の夕方。少年が佃の海で水揚げされた鰯を天秤棒に担ぎ、長屋の女房が少年を呼び止めている。入口と台所、戸袋をあわせて二間半の長屋の一角。むかし、酒に酔った父が家に帰ると「狭いながらも楽しい我が家」と歌っていた声が耳に聞こえてきてしまうのが妙である。
 「初冬の花」(昭和10年)。この小品はなんとも好ましい。小説家の泉鏡花を囲む会合で知り合った小菊という古風な立ち居振る舞いの芸者をモデルに、清方は明治風の装いをさせている。髪はつぶしの島田、縞の袷の着物に黒襟、江戸好みの御納戸色の帯である。「新富町」に似ているが、「初冬の花」にすっぽりと収まった慎ましやかな芸者の顔立ちがこころよい。
 「晩涼」(大正9年)は泉鏡花の作品から作品を描いたものである。清方が鏡花に会ったのは明治34年であった。以来二人の小説家の挿し絵画家は意気投合してコンビとして売れだした。遊女に身を落とした女は一日中山からの仙女をくるのを待ち続けているらしい。物語ではあるが風景が清方好みなところが風情がある。
 「目黒の栢莚」(昭和8年)。清方は歌舞伎が好きで、二代目市川団十郎のファンであった。栢莚(ひゃくえん)とは団十郎の俳号である。この人の日記「老いのたのしみ」をもとに、そのある時の日常を想像して描いたらしい。私がおどろいたのは、この目黒不動尊は子供のころに遊んだところだった。滝水はたいそうに冷たかったのを覚えている。その土地柄と建物の周辺はおぼろな記憶にあったのだ。不思議な機縁というものだろう。ここに青木昆陽の銅像があった。肌の透きとおった小学校の女性教師に連れていかれたほのかな記憶がよみがえる。
 鏑木清方はすこしまえ、「朝夕安居」の紹介のテレビ番組をみてからこころに沁みていた。今回の特別展ですべての絵葉書と本の数冊、手ぬぐいを二本まで手に入れ、家に帰るとすぐに売り切れの本をネットで探した。こうして「紫陽花舎随筆」(六興出版)他数点の本を得たのだ。清方を知ることにより、私の思いは泉下の父とつながり、不運にして生前疎遠に過した時間が、りくつもへちまもなく流れ出す父子の結縁を思い出させてくれたのである。明治の下町へ飛んで行けば、無心な子供になって父母兄弟姉妹に遭える喜びに浸れるのかも知れない。



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「朝夕安居」鏑木清方

 明治時代の鏑木清方という画家に「朝夕安居」という横長の一幅の絵がある。東の鏑木、西の上村と言われた美人画の名手であった。この画家は明治二十年代の下町の暮らしをこよなく慕った画家で、二十四歳で亡くなった樋口一葉の肖像画はいかにも凜とした佇まいを、「築地明石町」では泉鏡花が絶賛したという粋で優美な美人画を描いている。
 画家が暮らしたのは、今の中央区の湊町四丁目だが、その町名はいまはない。むかし新富駅近い八丁堀で働いていたことがあった。七十一で亡くなった父がこの辺で育ったのかと思うと、ときおりぶらぶらと散歩を楽しんだことがあったのだ。高橋という名の橋の袂に「天壌無窮」という戦時中の石柱があり、海軍中将某の名が刻んであるのを見たことがあった。
 清方がこの絵を描いたのは昭和二十三年だから、東京があらかた焼け野原となった頃である。もう既になくなった明治の平和が瞼の裏に浮かんできたのか、なんということもない下町の生活風景を絵に描いて残しおきたかったのにちがいない。粋と下町の情緒が活きていた頃の事だ。新聞配達の少年が町を駆け、それを待っていたように中年の男が新聞を広げている。赤い花をつけた百日紅のしたで物売りをする屋台とそれを取り巻く娘たち、夕暮に玄関口から夕餉のおかずを求める浴衣姿の婦人がいる。青桐の木陰で戸板を囲んで盥につかる商売女の裸体が艶っぽい。うっすらと夕焼けに染まったひろい空を仰ぎ見て、夕涼みをする老人がいる。朝昼夕の何げない一日の風景が描き止められているだけである。粋があり情のある江戸がその面影を残している、明治の二十年代の下町をこよなく愛惜しんだ画家だ。「築地明石町」の黒染めの美人画は有名だろう。朝は七時から八時に起き、前垂れをしめて神棚に拝み、朝日に向かって手を合す。夕方五時には普通の職人と同様に仕事をやめて、茄子や大根の漬け物、味噌汁と白御飯の夕食という定番の暮らしの日々があった。
 九十三歳まで長生きをした絵描きで、「明治の東京」(岩波文庫)という随筆がある。「上野の戦争」と題した文章からその一部を抜き書きしてみよう。
「私どもの親戚にあたる本阿弥忠敬というのが、やはり隊に加わって、手疵を負って自分の邸へ落ちて来たのを、その母親が押し入れに隠して、調べにきた官軍に応対し、まかり間違ったら息子と共に自殺する覚悟でいたという。その母親というのは、私の家から出た人だそうで、色の白い品のいいおばあさんであったが、よくその人にあうと、この伯母がそんな強い人なのかしらと、芝居の人を生で見るような気がした」
 鎌倉の雪の下に「鏑木清方記念美術館」が昔の家構えそのままに残っているそうだ。暇があったら出かけてみたいものである


   明治の東京 



 これは2018年8月の再掲であります。鏑木清方の特別展が竹橋の近代美術館で開催された。この特別展に関連があるので、繰り上げて再度掲載させていただきました。




「渇水」と「芥川賞を取らなかった名作たち」(佐伯一麦著)

 芥川賞の候補で名を挙げられて、受賞を逃した人は多い。この本の佐伯一麦もその一人だ。「芥川賞を取らなかった名作たち」で佐伯氏は11人の作家の作品を取り上げている。巻末で対談をしている島田雅彦は7回も候補に挙げられた「有名人」だ。この本にも取り上げられず、忘れ去られたたくさんの人たち、あるいわ、いわゆる純文学から離れて、大衆小説で成功した人も中にはいるのであろう。
 偶然に、私はそうした3人を見知っている。まず、童門冬二氏は「暗い河は手を叩く」で候補になったのは昭和30年代であった。私は氏が東京都庁の政策局長時代に、局長室で氏と面談したことがある。その時、局長秘書をしていた人が、まだ若い青山脩氏で、私はこの秘書の関門を「直接に局長にアポイントをとっている」と、強引に突破したことがあった。その後、童門氏とはあるサロンで同席し、そのとき「女たちの新撰組」とかいう著書を戴いた。氏は「上杉鷹山」で本格的にデビューし、NHKの人気番組「その時歴史が動いた」のキャスターであった松平定知氏とは、息があった闊達な有能振りを示した。
 また、一人は「光芒」と「離婚」で2回候補になった多岐一雄氏である。「光芒」は当時、「同人文学新人賞」(新潮社)の選者であった三島由紀夫氏に好感を持たれたらしく、親しくなった三島氏が約束の時間に寸刻の遅滞なく姿を現すことを聞かされたことがある。氏が三島氏の絶筆である「天人五衰」の自筆の原稿を持っていると聞かされて驚いた。「光芒」は一部の選者からは軽薄のそしりをうけたが、氏は社交ダンスの一流のダンサーであった。一緒に歩くとその飛ぶかのような、リズミカルな歩行についていけなかったことを思い出す。また、豪放な壇一雄氏に酒場の梯子で連れ回された体験を聞かされた。氏と話しているときに「君はばかに理屈っぽいんだな」というお咎めをうけたことがあった。当時、私もまだ若かったのである。氏からなにか面白い本はないかというので、私はガルシア・マルケスの「百年の孤独」を貸すと、一晩でそれを読み終えた氏は、自分の推薦する一冊の小説としてあるところへ出したとの報告を貰った。選者の一人に「第二の石原慎太郎になれる」とまで言わしめた、光る才能を氏は、その後どうしたのだろうか。
 そして、三人目に既に五十代で物故した河林満氏とは数年つきあった。私はこの人の候補作になった「渇水」は本人から貸して貰って読んだ。若い頃に書いた活字になった詩のコピーを私にくれたが、小説のほうが良かった。「渇水」の翌年に候補作になった「穀雨」はあまり感心しなかった。長年努めてきた職場を辞めたが、筆一本でプロの作家にはなれなかった彼は、酒に溺れだしたようだ。私が氏と最後に合ったのは、三島の「憂国」をみようと誘われた蒲田の映画館であった。映画館を出るとすぐに酒場へ誘われた。以前の朗らかだった彼の目は、苛立ったような暗い目付きに変わっていた。
 新宿二丁目のバーで飲んだこともあったが、そのバーに彼も中上健次に連れて来られたのだった。
 中上健次は彼をまえに言ったらしい。
「おまえの『渇水』はいいけど、おまえの文学の背後には、なにもないじゃないか」
(音楽家のショパンが同様なことを言っているのを思い出す。
 ーその背後に思想なくして、眞の音楽はない。「音楽の基礎」芥川也寸志より)
 中上らしい厳しい批評だが、いま、こういう厳しいが、やさしい指摘をしてくれる作家はいるだろうか。
「でも、おれはおまえが好きなんだ」と、中上はすぐに言い添えたらしい。
 私もある時点まで、この作者が好きであった。だから、立川だかのビル管理会社へ就職した彼のために、管轄外の会社との仲介をして、少しばかりの慰謝料を貰ってあげたことがあった。浅草駒形の「どぜう屋」やその他の店の酒代を払い、家に呼んだりもしたこともあったのだ。
 蒲田で逢った翌年の冬の朝だったか、彼は警備会社に職を得て、朝一番の点呼かなにかの場所で脳溢血に襲われたのである。葬儀場で彼の写真を見た。その写真には彼の笑顔があったが、彼の晩年からは笑顔をみることはついになかった。三十代の前半に同じ詩誌の同人であり、私の二番目の自費出版の詩集に跋文を書いてくれたY氏は、その後、H賞の詩人となったが、彼も葬儀に参列していた。一緒に都心へ向かう電車に二人で乗った。話したのはY氏が準備中の詩集のことに終始した。
 あの「渇水」だけでも、文庫本にならないかと、大手の編集者に働きかけたが、色よい返事はなかった。
 福島の海沿いに生まれた彼が、3.11以降も生きていたなら、また、どんな作品を書いただろう、と思わずにはいられない。
 佐伯一麦の「芥川賞を取らなかった名作たち」の中に、「渇水」が入っても遜色はないだろう。たしかに、作品の最後を小さな娘二人を自殺させる終わり方に、注文をつけたくなる選者の気持ちも分からなくもないが、それでもこの作品が、彼の名作であることに変わりないからである。
 私の職場に彼が取材に来たことがあった。残業をしていた女の子に写真を撮ってもらったが、不手際でとうとう写真にはならなかった。だが、夏の青空にポッカリと浮かんだ白い雲にも似た作品は、水のように透明で豊潤な文体を持っていた。あの一作ではいかにも口惜しいが、人の運命はなかなかにままならないものなのであるらしい。


   芥川候補


 

二つの映画「サムライ」と「ハンター」

 アランドロンの「サムライ」(LE SAMOURAI)は1967年のジャン=ピエール・メルヴィル監督のフランス映画。まだ学生だった頃で、日比谷までこの映画を観に行ったのを覚えている。映画にはほとんどアランドロンの科白はなく、小雨の篠つく淋しいパリの街角、カナリア一匹の籠が吊された荒涼たる主人公の部屋、トレンチコートに身をつつんだドロンの湾曲気味の足が石畳を踏むコツコツと響く硬い音、青い眼に湛えられた弧愁、身体中に氷のように張り付いた孤独な後ろ姿に、当時の私が魅了されないはずはなかった。映画にでてくる「侍は森のなかの虎のように孤独である」という科白が字幕に流れる。「武士道」にそんな科白があったかどうか疑問だが、勝手に映画に挿入したものかもしれない。ドロンはアルジェリアかどこかで生れている生粋のフランス人ではないと言われているらしい。そういえば、作家のカミユもアフリカの植民地の出身だった。三島はこの映画に惚れ込んでいたのは、たぶん敢えて偽証をしたピアニストの黒人女性へ秘やかに心を動かされた殺し屋が、殺されることを承知で空の拳銃を突きつけ、案の定、張り込んでいた警察官のいっせい射撃で死ぬところだったに相違ない。フランスの象徴主義の詩にいかれていた青年にはそんなことはどうでもいいことで、ボードレールがダンディズムを定義として「人に嫌われようとする貴族的な趣味」ということばに、惹かれるものがあったからだ。ユイスマンの「さかしま」(渋澤龍彦訳)が私の当時の聖典のようなもので、リラダンやマラルメの孤高の生き方に私が憧憬をいだいていたのであった。若き頃のポール・ヴァレリーも「さかしま」にやられたくちで、ユイスマンの紹介で一時役人生活をしたこともある彼は、詩作を放棄して40歳すぎまで約20年間、独りノートに自分の思索を記して過していたのである。ランボーは小林の訳詩集でやられたが、ヴァレリーの「レオナルドダビンチ方法論序説」と「テスト氏」に、地中海的な明晰な思考に魅了され、「デカルトの生活は単純であった」という生活スタイルが、ランボーの破滅型よりいいように思われた。私も退嬰的な生活を繰り返す家庭というものに堪えられず、どことも告げずに実家を飛び出し、田園調布の下宿で独りヴァレリーを模した極限を目ざす精神生活をして過ごそうとしていたのだ。しかし、当然にも長くは続けることはできなかった。マルスの石膏像とインコを二匹を飼うだけの孤独な精神生活の実験はあまりに私の心身を痛めつけてくれたのである・・・・。
 スチーブマクイーンの「ハンター」は1980年のいかにもアメリカらしいアクション映画だ。マクイーンはこの映画の撮影中に癌が見つかって50歳で亡くなっている。映画は実在の賞金稼ぎをモデルにしているので、稼ぎの相手を殺す場面はでてこない。代わりにスタンガンという鉛を詰めた革袋を発射して気絶させる銃器をみることができた。生きたまま捕まえてこそ賞金が貰えるのだ。マクイーンは病気のためか、演技に切れがなかったけれど、同棲中の女性のお腹に子供ができていて、ラマーズ法という新手の出産法があるので協力して欲しいと言われ、それを冷たくあしらう賞金稼ぎだが、この映画で私ははじめてラマーズ法というものを知った。賞金稼ぎの趣味は模型づくりで棚にはたくさんの模型の車が並んでいるのだ。マクイーンは運転にはレーサー級のはずだが、映画では駐車もろくにできず、前後の車にぶつけているシーンから始る映画が笑えてならない。この映画には、同僚だかがマクイーンへ疲れるかと聞く場面が幾つかあって、そのたびに「ああ、疲れるよ」と応えるマクイーンが出てくるのは、癌に罹っていた俳優への気づかいから生れたようだ。凄まじいカーチェイスや格闘はでてくるアクション映画には違いないが、ラシトシーンでは車のなかで産気づいた女に、ラマーズ法の呼吸をまねて励まし、病院に駆け込む直前に出産しまった赤ん坊を不器用に抱き上げるマクイーンのほのぼのとした映画となっているのが味噌だろう。彼の映画で印象に残るのは、「大脱走」のバイクでの逃走シーン。車は欲しくて仕方がなかったものだが、私は手中にすることが遂にできなかった。しかし、バイクは中年すぎまで乗りまわし、仕事にも利用して飛び回っていたことがある。つぎに印象的なのは、「パピオン」というのダスティホフマンと共演する映画だろう。脱出不可能の牢獄のある孤島から、一抹の自由の可能性に賭けて、断崖から海への投身するシーンは、いかにもアンチヒーローの男の生き様が出ていて私を感動させたのだ。あの憂鬱な海に浮ぶ椰子の実の筏は、やむに止まれない人間の希望が託される実に儚い一塊であった。この映画にはマクイーンらしいアクション演技が、疲労感を漂わしならがも随所に活きていたことを、スチーブマクイーンという男優のために言い添えておきたい。






プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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