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戦後の緊急失業対策

 前回のブログでボクシングの観戦記のようなものを書いた。それである男が話してくれたことを思い出した。面白かったのでここに記し留めておきたい。

 その男は若いころ具志堅用高とか輪島とかのボクシング戦を見ているうち、自分もやりたくなりあるボクシングジムに入門したそうだ。早速、基礎を習い練習中の姿を、ジムの会長が関心をもって見てくれたという。だが会長はすぐにその男に才能がないことを見抜いた。以後まったく無視。男はそれでもジムの隅でシャドウボクシングをやっていたが、とうとうジムをやめた。それから男は平凡は役人となった。最初に配属された係の上司が白井という有名なボクサーを友人に持ち、自分も大学のボクシング部でバンタム級の三年連続のチャンピョンであったというのだ。
 昼時になってもその上司は机から離れることはなかった。
「なにも食べないのですか」と男は上司へ訊いた。
「私は減量に馴れているからね」と答えが返ってきた。
 ある日、二人は現場の公園へ行った。その係は戦後の労働政策で「当分の間」という期限つきの失業対策事業を行う部の一組織であった。仕事は労務管理。部には運転手がいた。その車に乗って労務者が働いている現場へ向かうのだ。男は教えられた通り、公園のベンチに座りそっと新聞をひろげた。新聞には小さな穴が開けられ、そこから「のぞき」と称する仕事をやるのである。公園には必ず箱番という簡単な建物があり、労務者たちが仕事を終えるとその箱番へ帰っていくのだった。平均年齢が60歳代という高齢者の男女たちが、そこで弁当を食べお茶を飲むのだ。上司が時計をみて、
「もうそろそろいいだろう」
と言うと、男は箱番へ入った。物置よりもすこしばかり大きい建物に10人ほどの労務者がいた。裸電球が箱番の中を薄暗く照らしている。
 驚いた男や女の老いたる顔が一斉に男へ注がれるが、木っ端役人のそうした突然の闖入に馴れた彼等は、あまりきれいとはいえない湯飲み茶碗にお茶の色をしたお湯を注いでくれる。そのお茶を男はグイと飲み干し、ひとくさり労務管理のスピーチをやると箱番を出るのだ。戦争直後の労務管理の仕事は戦場から引き揚げてきたまだ若い失業者たちが相手であった。左と右、その中間の政治色を持った幹部等のしたに労働組合が組織され、そうした組合との団体交渉に役所は応じなければならなかった。そうしたことから、この労務管理には柔道、剣道、空手などの猛者がずらりといたという。俗に「新撰組」と呼ばれていた。たぶん上司もその一人として雇われた口だろう。その時代に頻繁にあったストライキの現場の情報を取り国へ報告するにも、顔と腕っ節が必要だった。団体交渉は部課長を中心に行うがこれが一筋縄の交渉ではない。戦争帰りの気の荒い組合員たちはなにをするか分らないのだ。灰皿ぐらい飛ぶのはごく普通で、部長の周りを組合員に取り囲まれることなどもあるので、そのとき部長を助け出すのが新撰組の仕事であった。また相手の労組幹部と裏で通じて事前に情報をとるのは老練な元党員の役割であった。戦後、赤い腰巻きをみるのも嫌いとなった元党員は、男になにくれと教えてくれたが、メモした紙は必ず小さい紙くずにまで手で裁断する。その敏捷な手つきに戦前に官憲の厳しい追及の目を意識した活動の名残を男はみてとった。部長が近くへくると自分の机の上に短い両足を乗せて反抗の姿勢を誇示するのも昔の反権力の姿勢である。戦前なら風呂で背中を同じ党員に流させたほどの位置にいた強者であったのだろう。戦争が終わり大勢が船で帰国の途中、さんざんに威張り腐った元上官などは、可愛そうに夜の甲板からみなでつまみだし、海へ投げ込んでやったと嘯いていたのには、男は一驚した。だが失業対策の労務者には実にやさしい老人であった。目の前で机に足を乗せられても、咳払いぐらいはした部長もこの老人には一目おかざる得なかったのである。
 だが歳月が経つにつれて皆等し並みに歳をとっていった。男がその係についたときは、労務者の人数は激減し、石ころにけつまづくほど歳をとった労務者ばかりになっていたそうだ。そして、やがてこの失業対策部が高齢者対策部と名称を変えて、いまの全国シルバー人材センターが産声を上げることになった歴史を知るものは少ない。確実に迎える高齢化社会にいかに有効な労働施策を打つかが問われていたのだ。労働形態に雇用ではなく請負を使ったこの手法は後に、派遣労働法の考案に再利用され、ここから多数の非正規労働者と労働組合の弱体化へと現在の労働市場の流れができたというのは男の推論であった。
 とまれ、男の上司は職場では誰ともなく「ボクサー」という渾名で呼ばれていた。ボクサーが昼飯を抜くのは晩酌をうまく飲みたいからだという者もいた。帰ると奥さんが三つ指をついて玄関で出迎えてくれるらしい。兄は医者の家業を継ぎ、弟の上司は白井からプロになれと誘われたらしいが、役人になった。男がS事務でボクシングをすこしやったというと屋上で、ほんのちょっと手ほどきをしてくれた。おれの腕を触ってみろと言うので、男が触ると豆腐のように柔らかい。「これがボクシングの筋肉だ。柔らかい筋肉でないと瞬発力がでないのだ」と、殴られたせいでか明瞭に声がでない顎を動かしてそう言った。家柄のせいか上司はいい人柄だった。でもこんなエピソードを本人から聞いたことがある。アルコールを飲んで駅から家への階段を降りてきたところを、数人の愚連隊に因縁をつけられことがあったらしい。面倒くさいから、一人一発づつお見舞いをしたというのだ。一瞬で完膚なきまでのされた愚連隊に、こんどは物陰にひそみ待ち伏せをされて、棍棒でしたたかに頭を殴られてしまったと笑っていた。また、酔っ払って国鉄の線路をふらふらと歩いていたことがあったというのだ。電車が前方からやってきた。偶然に一番前に乗っていた兄があれは弟の奴だと気づいたという。電車はブレーキをかけ警笛を鳴らしたまま線路を歩いていた弟にぶつかった。だが上司は電車の正面にぶつかる寸前に、体を躱していたそうだ。男がその話しを冗談とはおもわなかったのは、男が役所の扉を猛烈な勢いで押し開いたことがあった。その扉の向こうに上司の顔を見て「しまった!」と思った瞬間、上司は素早い動作で数歩うしろね身を退いていた。上司の両腕は自然にボクシングスタイルになっていたそうだ。それから男は後楽園ジムで4ランウンドの大学対抗のボクシングの観戦券を貰って観に行ったことがあった。リングに白いレフリー姿で立っている上司をみた。役所では「ボクサー」と渾名された冴えない上司はそこでは、凜としたレフリー姿の犯しようのない威厳を放って、リングの上で歯切れのいい審判の采配をふるっていたという。




ボクシングという格闘技

 6月19日夜、WBO世界スーパーフライ級王座決定戦で、元世界3階級王者で同級2位の井岡一翔(30)が、同級1位アストン・パリクテ(28)フィリピンに、10回1分46秒TKOで勝利した。ここに井岡は日本初の4階級制覇を達成したのだ。
 この10回戦の試合は実に見応えがあった。特に7回の攻防戦の壮絶に打ち合う互角のシーンはその後の試合の微妙な陰影を見える者には見せていたであろう。残り1分の井岡の戦いに8回以降のすべてをよむことができる。8回は相手の疲労は歴然としてきていた。すでにアストンは井岡を追うことができなくなっていた。そして9回いっそうそれは明瞭となった。大ぶりのアストンのパンチの隙を井岡の的確な上下のパンチが相手のからだの芯を捕らえ、さらにアストンのからだは揺れだしていた。10回にはもうアストンにスピードはなくなっていた。井岡の右ストレートがアストンの顔面を打ち抜いてからの井岡の猛烈なパンチの連打の攻撃は満を持していた井岡の攻めにレフリーの右手が上がったのは早かった。1分46秒、マットに沈まないまでも、レフリーは井岡のテクニカルなパンチの連打に勝利の審判を下したのだ。
 以前にも当ブログで書いたことだが、1対1の勝負ほどその観戦者に明解な結果を見せてくれるものはない。報道によると敗者のアストン・パリクテはレフリーの審判が早いのに不満を漏らしたそうだが、あれ以上の試合の続行は敗者のダメージを増すだけであったろう。観戦の印象では、ゴングが鳴りリングに進むアストンの顔から相手を見下すUglyな笑いが消えたとき、私のこころには井岡勝利の確信が弾けてとんだ。他方、井岡の顔には充溢した緊張の裏に勝利への意欲が漲りつづけていたのだ。目は沈着に相手をみていた。それはやるだけ準備をやり遂げた挑戦者の自信がいぶし銀のごとく勝者の全身を鎧のようにつつみ、また攻撃への雄叫びをたわめてその時を待っていたのだ。元WBA世界スーパーフェザー級スーパー王者で「ノックアウト・ダイナマイト」の異名を持つ内山が、アナウンサーに井岡への注文を問われ、「繊細な攻めを保つこと」とつぶやくのが聞こえた。2016年にジェスレル・コラレスへ再挑戦して判定で負けているからこそ出る内山らしいことばだった。井岡が10回にアストンにノックアウトで勝つとはおおかたの人が予想していなかったことだろう。だがアストンは負け井岡が勝ったのだ。観客の誰の目にもそれは明瞭であった。リーチと身長に優位のアストンのそのパワーは井岡のスマートな技術力に負けたのである。この試合を観て、スポーツについて文芸批評家の小林が書いたこんなことばを思い出していた。「ファンが心の底で、われ知らず求めているものは、人間らしい道義なのではあるまいか。」(「スポーツ」)
 ボクシングも含め格闘技のいい試合をみていると、小林のこの「人間らしい道義」ということばが、はっきりした顔をもって迫ってくるのが確信されるのである。
 海で死んだ元ボクサーがもう一度生れてきたらまたボクサーになりたいと洩らしたそうだ。格闘技のボクシングには尋常な人間には想像できないそうした人間らしい魅力が秘められているのだろう。




「敗戦後論」と加藤典洋の死

 3月11日夜、横断歩道を自転車で渡っていた私は、88歳のタクシードライバーに右横から激突された。倒れた私は奇跡的に右手の骨折のみの負傷であったのが不思議でならない。左横にそのまま倒れていたら、頸椎か悩をやられたにちがいなかった。パリの路上でもそうだったが運転手が来るまえに私は達磨のように起き上がる糞意地があるのだ。まだ右手でお箸が持てず、3ヶ月をすぎたいまも五本の指に痛いような痺れがありキーボード操作がうまくいかない。私の視界にそのまま突き進んで来る車体を見たそのとき死を意識したが、どうした加減か右手のみで自転車ごと倒れる自分を支えたのだ。ドライバーは私が自転車の下から数人の手助けで起き上がらせられて歩道に避難し、救助をされるまで私の前に現れることはなかった。老体を動かすのにそれほどの時間を要したのであろうと思われる。横断歩道の自転車専用レーンはいちばん右側にある。私が自転車ごと車の前進をブロックしてなければ、歩行者の幾人かが車に巻き込まれていたに違いない。周りの歩行者の悲鳴が聞こえた。いまでも横断歩道で車を私は正視することができない。たしかにPTSDは時を経てやってくる。
 さて、加藤典洋という文芸評論家が先月亡くなった。彼は日本の敗戦という大事を、50年の年月を経た1995年に、「敗戦後論」として現わした。一国の戦争による敗戦の体験を正面から受け止めるには、それほどの時間を要するのだ。アメリカを中心にした連合国によるいわゆる「東京裁判」を経てA級戦犯として7人が処刑され、戦後憲法が発布され、わが国の在り方は根本的に変革された。この一線を境に、この国はどのように変り、変らされたのか。それを加藤は戦前と戦後の知識人の動向に焦点をあてることにより、あるネジレが生れ、それが現在も続いていることを説こうとしたのである。加藤は文芸評論家である。加藤以前にも1945年の戦争体験を歴史的にあるいわ政治的に問題にした作家や学者は多くいる。だが加藤典洋ほどにそれを戦後の思想や文学の深部に水鉛を下ろして、そのネジレが日本という国の身体と精神をいかに歪曲してきたかを証明しようとした人間はいないのではないか。昭和40年代から東南アジアの海へ潜ってきた私は海の中に、日本人の死者の不気味な声と霊力に引き摺られる体験が加藤の論説を直感的に身体で感受する用意が整えられていたのだろうか。でなければ雑誌の「敗戦後論」が私に与えた衝撃の深度を測り知ることはできないのである。
 「敗戦後論」の冒頭は小学校時代の子供たちの相撲大会の話しからはじめられている。それをここに引用しておきたい。
「わたし達の学校代表が土俵際につめられ、踏ん張り、こらえきれずに腰を落とした、と、うまい具合に足が相手の腹にかかり、それが巴投げになった。そのとたんに、何が起こったか。わたし達の学校の生徒が一斉に拍手してはやし立てた。一瞬のできごとだった。相撲は柔道に代わったのである。
 その勝負がどういうものだったかも、わたしは忘れている。何にしろ、小学校を5階変っている。記憶がはっきりしないのだ。でも、一瞬、あっと思い、次の瞬間他の生徒と一緒に拍手した。その時の後めたさを忘れられない。その後、しばしばわたしはこの場面のことを思い出すことになった。「あれだ」、と。
 一九四五年八月十五日。わたしはその時生れていないが、後で、勉強してやはり思った、「あれだ」、と。
 そういうことがよくある。最近そういうことがなくなった、ということでもない。以下を記すに先立ち、この戦後の思い出を、何かの心覚えに書きつけておく。」
 下線の一文は今回私がつけたものである。依然としてこうした光景がこの日本では日常的に見られると思うからである。私は一方的に受け身だけでいられない依怙地な精神の持ち主のため、一時加藤の論に反駁する「戦後私論」を書こうとしたことがあった。それは先の戦争体験にもかかわらず、戦前も戦後も一貫して不動の姿勢で文学活動をした谷崎潤一郎を論じようとしたのであった。それは「アウトサイダー」で一躍世界に躍り出たコリン・ウイルソンが「敗北の時代」により「現代文明の病根をついた」(丸谷才一)ように、世界の負の精神的潮流に逆らい生の肯定を意図したものであった。加藤とて自虐的に敗者の意識に執着したわけでは勿論ないことは、「敗戦後論」の冒頭のエピグラフに「きみは悪から善をつくるべきだ。それ以外に方法はないのだからね」という正への志向を掲げていることからも了解できることだ。だが日本の戦後の思想的潮流は、その負性をゼロの地点へ戻すには並大抵な知的努力では済まなかったのである。ここに、加藤典洋というユニークな文芸評論家が活動しなければならなかった時代性がある。その活動の領野が余人の想像を超える多様性にあることは驚くべきものがあることは言を俟たない。例えば、「耳をふさいで、歌を聴く」(2011年)の音楽への傾倒に目を通してみれば如実にそれは見て取れることだ。あるいは仏語の翻訳小説「マネイズマネー」に、村上春樹の文学へのアプローチに、アニメーション映画に、小林秀雄、吉本隆明、鶴見俊介、江藤淳への傾倒摂取の高度と深度に、加藤の広大な感興の驚嘆すべき領域を眺められるだろう。あと十年も生きることができれば、一身にして三世を経たとも称すべき偉業の達成もあり得たことを想うと、加藤典洋氏の逝去は余りに早すぎるものであった。邁進努力の熱情がいかに凄まじいものであったか、思いもはんばに過ぎて、私の魂を痺れさせて止まないのである。




詩「祖母」

昭和46年 庭に鶏頭が炎える夏
祖母はついに九十二歳の生涯を終えた

人は誰も年老いて死ぬ それを嘆くのではない
ただ故人の忘却の彼方へ消えさるを悲しむ

「生きることは地獄 わたしは地獄からあの世の地獄へと去くんだわ
そんな祖母の悲痛な生の呻きと 枯野をすぎる微苦笑が
幽かな含羞をうかべて 老女の華やいだ科白のようにいま甦る

「陶酔」なる詩誌を主宰し 秀才の誉れ高き長男は二十五で夭折し
内村鑑三を師と仰いだ次男は 原典の聖書を読み耽り
路上に乞食をみれば 給金のあらかたを施し
事務所の机を厭いて 痩せた身体を苦しい労働の現場に投じた
理想肌のクリスチャンが結婚し だがその嫁にいびりだされるように
ただ一人の娘のところへ身を寄せた祖母は
わが家の部屋の隅に 背中をまるめて寝起きし
それでも書を離さぬ 明治の文学少女であったか

「おお わたしのアンナ・カレリーナを貸しておくれ
そんな本をわたしが持っていたかどうか忘れたが
冗談に私が貸し与えた「ランボー全集」を読破すると
驚くべし その老体はなんと生き生きと甦ったことか!
それならばと 戦後の家族制度を盛った新版の「親族法」を読ませると
それさえ理解したのか 「なんと変ったかえー」
となにやら淋しげであった

 「花の命は短くて 苦しみことのみ多かりき
放浪記の林芙美子は 晩年まで詩を書いていたらしいが
老醜を晒しても生きねばならぬ現実と おお
あなたのアンナ・カレリーナの なんという奇妙な同居!

猛々しい夏雲は いま襤褸の空を押し上げて
真っ赤な鶏頭は 地にくっきりと黒い影を落としている!



1995年(昭和60)に刊行した第三詩集「カモメ」に載せた詩の一篇である。詩集の「あとがき」に私はこう書いていた。

「戦後50年というらしい。敗戦小説の傑作「浮雲」のなかで、林芙美子は『みな、いきつく終点へ向かって、人間はぐんぐん押しまくられている。富岡は、だが、不幸な終点に急ぐことだけは厭だった。心を失う以上は、なるべく、気楽な世渡りをしてゆくより道はないと悟った。』
 これが過去のまた現在の日本における生活者の感慨である。これ以上なにを語る必要があろう。
 わたしには1970年(昭和45年)から今日までの、25年間のほうが大事である。わたしの人生があるとすれば、それは1970年の1年の経験よりはじまったといっても過言ではない。
 処女詩集「弧塔」を1975年(昭和50年)に、それから15年後の1990年に「海の賦」を出した。今回の「カモメ」には、できることならニコラ・ド・スタールの同名の絵で表紙を飾りたかったことだけを、最後に付記しておきたい。」

 最新の小説「花の睡」の最終頁に、庭に咲く「鶏頭の花」が出てきているのはどうした偶然だろうか。私はこの小説に「祖母」の息子の「叔父さん」を猫の名前の一つに使ったが、この真っ赤な鶏頭の花は、そのまま、祖母が風呂敷にした日の丸の旗の赤、血のにこごりのような鶏頭の鶏冠であったことが、作者自身を驚かせたことをあえて注しておくことにする。




ボルダリング式人生処世法

  なぜ人は自分が関心を懐いた事柄・知識を他人へ知らせたいという欲求に捉えられるのだろう。学問(科学、哲学)、いわゆる芸術全般は、この欲求から発している。
 右目は徐々に視力を失い、右手はお箸も握れなくなった。だが読書や花や風景や絵画を見ることを止められない。かつて、海に魅惑されているうちに、ダイビングをおぼえて内外の海へ潜りはじめていた。高い山脈を縦走して下山するやいなや、亜熱帯のミクロネシア諸島へ飛行機で飛び、コカの葉を噛んで真っ赤な口をあけゼロ戦闘機、赤錆びた戦車が朽ち捨てられたパラオ諸島やペリリュー島の青く透きとおった深い海へ潜っていたこともあった。家の中での本から本への渉猟は速度は落ちたとはいえ以前と変らないけれど、昔も今も変らないこの人生にはもううんざりするね。人生そのものもっとひろくいえば生物の進化そのものが波線をえがいて少しでも高い処へ手を伸ばしより高い地平を眺められたらどんなにいいだろうか。
 先夜、むかし徹夜で読んだ「風と共に去りぬ」の4時間の映画を録画したはずがわずか18分で、どこやら風とともに飛んでいってしまったのには呆れてしまった。南北戦争のアメリカこそアメリカらしく、明日は明日の風が吹くと跳ね返りのお姉さんはスカーレット、インディアンと幌馬車と騎兵隊が広野をかけずりまわり、二丁拳銃の早回しに酒場のカウンターをウィスキーグラスがすべり、早撃ち同士の銃口が火を吹いていた。フロンティアを求めての砂埃のまう西部劇の本場こそアメリカはアメリカらしい国であった。バートランカスターやジョンウエンが決闘も辞さず悪者は悪者らしく戦い死んでいった。トランプにはジョーカーもあったけれどハートはちゃんと揃っていたのだ。それなのにいまやアメリカはイーストウッドの映画「許されざるもの」の様相となったようだ。一枚のハートもない保安官は酒場のまえになぶり殺した黒人をさらし者にして平気の平太。逆説は好きではないがいまの保安官は立派に西部劇時代さながらの度胸と腕力のある人物としてこのゴミだらけの退屈な世界を適度に面白がらせてくれている。いまや世界中に西部劇映画さながらの舞台が生れ手に汗を握るシーンでハートをドキドキハラハラさせてくれているといってもいい。まことに人生花嫁御寮テンポ正しく握手をしましょう。みなさん今夜は春の宵なまあったかい風がふくと詩人じゃなくとも歌いたくなる。
 さてボルダリング式読書の一冊に涙なしには読めないと帯に記した小冊子をみた。暇にあまして一読すれば会津の明治人芝五郎の艱難忍苦のその半生にムダなニュースを詰め込んだ空虚なあたまとこころの底に熱き泪もながれてきましょう。明治33年義和団の乱を実地にみた芝五郎はさきの大戦ののっけからその敗北を断言した。この人の遺言から少々古くはあるがつぎの二つだけをここに引き写しておくとしようか。
 中国は決して鉄砲で片付くような国ではないこと。中国とは友人となるとも決して敵にまわしてはならないこと。下手をすると「魯迅」を書いた竹内好の予言を思い出すからだ。
 そして最後にたった数行でその著者と作品を紹介するにはあまりに失礼であることをお断りしておかねばならない故人がいる。
そのむかし、私はこの人の作品論や「作家の態度」を含む数冊の本を読み、また翻訳を通して相応なる敬意を払わざるえないことを痛感してきたが、それを語るべき相手が皆無であることに淋しい思いを味わってきた。今回あらためて読んだ福田恆存の「ロレンス『アポカリプス論』覚書き」は聖書一冊から西欧の根底への透徹した洞察が窺われて見事としかいいようがない。いつの日かといっても残りすくないのであるが、この人の書物へ正対してみたいとだけ述べて筆をおきたい。



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プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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