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「敗戦後論」と加藤典洋の死

 3月11日夜、横断歩道を自転車で渡っていた私は、88歳のタクシードライバーに右横から激突された。倒れた私は奇跡的に右手の骨折のみの負傷であったのが不思議でならない。左横にそのまま倒れていたら、頸椎か悩をやられたにちがいなかった。パリの路上でもそうだったが運転手が来るまえに私は達磨のように起き上がる糞意地があるのだ。まだ右手でお箸が持てず、3ヶ月をすぎたいまも五本の指に痛いような痺れがありキーボード操作がうまくいかない。私の視界にそのまま突き進んで来る車体を見たそのとき死を意識したが、どうした加減か右手のみで自転車ごと倒れる自分を支えたのだ。ドライバーは私が自転車の下から数人の手助けで起き上がらせられて歩道に避難し、救助をされるまで私の前に現れることはなかった。老体を動かすのにそれほどの時間を要したのであろうと思われる。横断歩道の自転車専用レーンはいちばん右側にある。私が自転車ごと車の前進をブロックしてなければ、歩行者の幾人かが車に巻き込まれていたに違いない。周りの歩行者の悲鳴が聞こえた。いまでも横断歩道で車を私は正視することができない。たしかにPTSDは時を経てやってくる。
 さて、加藤典洋という文芸評論家が先月亡くなった。彼は日本の敗戦という大事を、50年の年月を経た1995年に、「敗戦後論」として現わした。一国の戦争による敗戦の体験を正面から受け止めるには、それほどの時間を要するのだ。アメリカを中心にした連合国によるいわゆる「東京裁判」を経てA級戦犯として7人が処刑され、戦後憲法が発布され、わが国の在り方は根本的に変革された。この一線を境に、この国はどのように変り、変らされたのか。それを加藤は戦前と戦後の知識人の動向に焦点をあてることにより、あるネジレが生れ、それが現在も続いていることを説こうとしたのである。加藤は文芸評論家である。加藤以前にも1945年の戦争体験を歴史的にあるいわ政治的に問題にした作家や学者は多くいる。だが加藤典洋ほどにそれを戦後の思想や文学の深部に水鉛を下ろして、そのネジレが日本という国の身体と精神をいかに歪曲してきたかを証明しようとした人間はいないのではないか。昭和40年代から東南アジアの海へ潜ってきた私は海の中に、日本人の死者の不気味な声と霊力に引き摺られる体験が加藤の論説を直感的に身体で感受する用意が整えられていたのだろうか。でなければ雑誌の「敗戦後論」が私に与えた衝撃の深度を測り知ることはできないのである。
 「敗戦後論」の冒頭は小学校時代の子供たちの相撲大会の話しからはじめられている。それをここに引用しておきたい。
「わたし達の学校代表が土俵際につめられ、踏ん張り、こらえきれずに腰を落とした、と、うまい具合に足が相手の腹にかかり、それが巴投げになった。そのとたんに、何が起こったか。わたし達の学校の生徒が一斉に拍手してはやし立てた。一瞬のできごとだった。相撲は柔道に代わったのである。
 その勝負がどういうものだったかも、わたしは忘れている。何にしろ、小学校を5階変っている。記憶がはっきりしないのだ。でも、一瞬、あっと思い、次の瞬間他の生徒と一緒に拍手した。その時の後めたさを忘れられない。その後、しばしばわたしはこの場面のことを思い出すことになった。「あれだ」、と。
 一九四五年八月十五日。わたしはその時生れていないが、後で、勉強してやはり思った、「あれだ」、と。
 そういうことがよくある。最近そういうことがなくなった、ということでもない。以下を記すに先立ち、この戦後の思い出を、何かの心覚えに書きつけておく。」
 下線の一文は今回私がつけたものである。依然としてこうした光景がこの日本では日常的に見られると思うからである。私は一方的に受け身だけでいられない依怙地な精神の持ち主のため、一時加藤の論に反駁する「戦後私論」を書こうとしたことがあった。それは先の戦争体験にもかかわらず、戦前も戦後も一貫して不動の姿勢で文学活動をした谷崎潤一郎を論じようとしたのであった。それは「アウトサイダー」で一躍世界に躍り出たコリン・ウイルソンが「敗北の時代」により「現代文明の病根をついた」(丸谷才一)ように、世界の負の精神的潮流に逆らい生の肯定を意図したものであった。加藤とて自虐的に敗者の意識に執着したわけでは勿論ないことは、「敗戦後論」の冒頭のエピグラフに「きみは悪から善をつくるべきだ。それ以外に方法はないのだからね」という正への志向を掲げていることからも了解できることだ。だが日本の戦後の思想的潮流は、その負性をゼロの地点へ戻すには並大抵な知的努力では済まなかったのである。ここに、加藤典洋というユニークな文芸評論家が活動しなければならなかった時代性がある。その活動の領野が余人の想像を超える多様性にあることは驚くべきものがあることは言を俟たない。例えば、「耳をふさいで、歌を聴く」(2011年)の音楽への傾倒に目を通してみれば如実にそれは見て取れることだ。あるいは仏語の翻訳小説「モネイズマネー」に、村上春樹の文学へのアプローチに、アニメーション映画に、小林秀雄、吉本隆明、鶴見俊介、江藤淳への傾倒摂取の高度と深度に、加藤の広大な感興の驚嘆すべき領域を眺められるだろう。あと十年も生きることができれば、一身にして三生を経たとも称すべき偉業の達成もあり得たことを想うと、加藤典洋氏の逝去は余りに早すぎるものであった。邁進努力の熱情がいかに凄まじいものであったか、思いもはんばに過ぎて、私の魂を痺れさせて止まないのである。


注:2019.9に当ブログに載せたものであるが、加藤典洋の関連で再掲する。


加藤典洋「孤立の感覚」

 しばしば文藝評論家の加藤の文章を読んでいると、切断された痛みにちかい感覚を呼び覚まされる。たとえば、ヴィジュアル系の本「なんだそうだったのか、早く言えよ」のなかにあるこんな文章だ。
「なぜわたしはこの人の文章が好きだと感じたのだったか。文章が好きだ、とはそもそもどういうことなのか。荒木陽子さんが死に、また誰のよりもその文章にひかれた武田百合子さんが死に、そうして間の抜けたことに、いま気づくが、そもそも文章を好きになる、とは人を好きになる、一つのあり方なのではないだろうか。それは人に会うことを必要としていない。しかし、にもかかわらず、人に会いたかったと思わずにいない力をもつことをやめない。」(「荒木陽子の非凡」)
 この文章にあらわれているのは、紛れもなく加藤典洋の思考がたどる、喩えてみれば地面を歩いていく小鳥の足跡を思わせる。一二歩まえに進んだかとおもうとふとたちどまり、また歩きだすがその進路は一様ではない。
「文章を好き」が「人を好きになる、一つのあり方」であるが、「それは人に会うことを必要としていない」「にもかかわらず、人に会いたかったと思わずにいない力をもつ」との結語まで、その歩行の足取りは均一な流れをみせない。加藤の思考がとるこの特異のスタイルこそがこの世界をまえに、梶井基次郎の「闇の絵巻」の泥棒の男が闇のなかを疾走する際、胸に突き立てる三尺ほどの木の棒のようなものだ。この文章は好例とはいえないが、ヴィジュアル系を扱った論考を集めたこの本は、文芸評論家の加藤の思考の地肌を眺めるには都合のいい側面をみせているのである。
 ついでにこの本から、画家「バルチュス」が好きだという加藤の論考をみてみたい。実をいえば私自身が一時、東京駅のステーションギャラリーで開催された「バルチュス」展以来、この画家に魅せられた経験があった。それは大きな風景画で私を圧倒した。だがいまはその体験は措いておこう。ただ加藤がこの画家をまえにいかなる反応をみせるかに注目してみることにしよう。
 加藤は「窓辺に寄る少女」(1955年)が好きだと告白している。普通の美術評論家はこういうことばを発しないものだが、この点加藤の美術論の語り口は正直でユニークなものとなっている。
「ずいぶんと長い間、わたしはバルテュスがセザンヌと似ているという感想をもってきた。セザンヌはわたしのとても好きな画家だから、そのせいもあるのかも知れないが、最近この文章を書くため、世のバルテュス好きの書いた一冊のバルテュス本を読んで、このわたしの受けとり方が全くの少数派に属することを知り、不思議な気がした。(中略)バルチュスの絵が、わたしに喚起する一種独特な感情、それを「窃視」の感情、そう呼ぶことができるように思う」
(いつだったか、「ブリジストン美術館」で某音楽評論家からセザンヌの若い時代に描いたエロチックな絵画数点を見せられたことを私は思いだし、ヴァルテュスとセザンヌのエロスにおける親近性を考えざる得なかった)
 ここまでならば、特別に不思議なことはなにもない。窃視の感情は誰もがヴァルテュスの絵画から懐く印象なのだからだ。だが加藤の思考(=嗜好)が前述した特異のスタイルをみせるのはこの先からなのである。それは加藤がつぎのように述べるところからはじまる。
「先の絵のうち、少女のわざとらしさの部分、少女と椅子の部分をためしに手で隠してみる。するとその室内の色調を含め、筆致がセザンヌのある種の絵に似ていることがわかる。また長方形、この絵の形とほぼ相似形に切りとられた庭の景色は、室内以上にセザンヌの別種の風景画に似ているとわかる。このことは、このバルテュスの絵にしばしば現われる人物の不自然さ、わざとらしさが要素として、絵の中で孤立している、ということを示している。」
 この「孤立」はどこから加藤にやってくるのであろうか。「窃視」という言葉に加藤が独特な意味をつけようとするからである。
「『窃視』、覗き見るという時、わたし達は、わたし達でない何かをかきわけ、そのすきま、物陰からの別の何かを見る。逆からいうなら、わたしの中でわたしが二つになる。その一方のわたしが、前方のわたしをかきわけ、何かを覗く。いわばわたしの欲望(これをエロスと呼ぶ)がわたしの感情の『格子』を透かしてあの絵の中の孤立した要素を見る時、わたしは、わたしの中に『窃視』の感情が生じているのを感じるのである。
 バルテュスの絵の秘密は、このように見るわたし達を、二つに分けるところにあるのだとわたしは思う。」
 理解するのに困難と思われる文言は、まずつぎのことであるだろう。
「逆からいうなら、わたしの中でわたしが二つになる。」という一文だ。だが「窃視」という行為を一般的に考えるなら、この心理的現象はおかしくはない。だが加藤の思考の特異なのは、こういう考えを逆に否定しているところにこそある。
「ところでわたしは、なぜその絵からやってくるものを『窃視』というように感じるのだろう。たとえば、『窃視』ということでは現代の若い画家にエリック・フィシュルがいるが、彼は二人の裸の女性が部屋にいる自作に触れ、こういっている。ここでも、『肝心なのは絵の鑑賞者がこの二人にどのように見られるかという点にある。そんなところに居てはいけないことになっているのだ』
 フィシュルの絵についても、わたし達はしばしば「窃視」という言葉を使う。しかしその意味が違っている。正確には、フィシュルの絵の前で感じる不安、落ちつかなさは「窃視」の感情ではない。というのも、誰が、どこから「覗いて」いるのか。窃視は物陰、遮蔽物を要する。「窃視」、覗き見るという時、わたし達は、わたし達でない何かをかきわけ、そのすきま、物陰から別の何かを見る。逆からいうなら、わたしの中でわたしが二つになる。その一方のわたしが、前方のわたしをかきわけ、何かを覗く。いわばわたしの欲望(これをエロスと呼ぶ)がわたしの感情の『格子』を透かしてあの絵の中の孤立した要素を見る時、わたしは、わたしの中に『窃視』の感情が生じているのを感じるのである。」
 私は2回も同じことばを引用する羽目になったが、こうさせるのは加藤の思考がそれを強いるからだといえよう。
 つぎの文章は加藤が自身の謎解きを自分でしている文章なのですこし厄介なところだ。
「その絵は、少なくとも1950年代あたりのものまで、いわばタブローの地(グラウンド)の上に、孤立した要素としての図(フィギュア)を置く形になっている。絵にあの“セザンヌ”を見るわたしの背後から、わたしを『かきわける』ようにして、もう一人のわたしが“ヴァルテュス”を見るのがわかる。自分が、そのように、少女を見ているのがわかる時、たぶんわたしは、あの不思議な『窃視』の感情、自分が誰かに『みていることを知られている』という奥深い感情を、おぼえているのである。」
 だがこの美術評論の最後の文章はそうではない。加藤が加藤自身へ向き合って書いている趣きが強いからだ。
「あの、『五分後の一秒間』(A・カミユ)化石したさまをとらえられたバルテュスの少女達、彼女らは『みられていることを知っている』。そのぎこちなさ、わざとらしさはそこからくる。しかし、誰が彼女らをわたしが見るに先立って『見ている』のか。たぶん、あのわたしの中にもう一人のわたしが、わたしのすきまから、わたしより『五分の一秒間』早く、彼女らを見ているのである。」
 ここに、1948年の戦後に生をうけた加藤典洋という先鋭的な文芸評論家の思考のスタイルが顔をだしている。
「しかし、誰が彼女らをわたしが見るに先立って『見ている』のか。たぶん、あのわたしの中にもう一人のわたしが、わたしのすきまから、わたしより『五分の一秒間』早く、彼女らを見ているのである。」
 この「窃視」のまなざしが、加藤自身を含めた「戦後」を長いスパンで透視する歴史の眼と無縁でないことに注意しておきたい。
そして、これこそが「孤立した要素」としか名指しえないものだ。「私が二人となる」のはそのためなのである。この不透明に孤立したものは、加藤が1970年の一年は中原中也ばかりの読んでいたと「自注年譜」に記した中原中也の詩のなかにある「不思議な『窃視』の奥深い感情」に通じるものなのである。
 「私が二人となる」のはこの「孤立の感覚」においてなのである。その「もう一人」はわたしより『五分の一秒間』早く存在しなければならないという、この微妙な時差に加藤の重心がかけられている。「不思議な『窃視』の奥深い感情」という加藤が強調する観点こそが、ヴァルテュスの絵に「孤立した要素」を見させている当のものなのである。彼岸から此岸をのぞくようなこの視線は、加藤が1970年という一年の間は、中原中也ばかりの読んでいたと「自注年譜」に記した詩人の詩のなかにあるものを呼び覚まさないではおかない。たとえば詩集「在りし日の歌」の詩「骨」の中にそれはある。
  ホラホラ、これが僕の骨―
  見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
  霊魂はあとに残って、
  また骨の處にやって来て、
  見てゐるのかしら?
 中原中也と交友した小説家の大岡昇平は、中原についての強烈な印象をこんなふに記している。直に中也を知った大岡でなければ吐けない科白であろう。
「中原の不幸は果たして人間という存在の根本条件に根拠を持っているのか。いい替えれば、人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか」
 この大岡の問いは、この詩人の本質を穿つ深くておもいことばである。文藝批評家にかろうじて脱皮を遂げたともいえる加藤典洋の中に、青年(幼虫)時代の中也と同型の詩人がいたとしてもおかしくはない。詩「一つのメルヘン」の中にもそれはある。「孤立の感覚」は他界からのまなざしからやって来るものといっていいのである。
 ここまで来て、ようやくのことに、加藤の思考が画家バルテュスの絵画に特異の洞察をくわえ、新しい視界を切り拓いていることを知らされるのだ。そして、この「孤立の感覚」が加藤典洋という批評家の背後に「一人二役」として、もう一人の詩人を存在させずには済まないことを理解させることになる。ここで、加藤が「日本風景論」の最後に記した「年譜」から、1977年(昭和52)29歳のエピソードを挿入しておいても唐突とはいわれないだろう。
 10月、長男良誕生。中原中也について書き続けている間生れた子どもの誕生日がそれぞれ中也の亡児文也の死亡の日と重ったことに因縁を感じる。
 加藤の「孤立の感覚」は不思議な因縁として、ここに「他者」を随伴させなければこの「孤立」は十全なものとならないのである。そして、この「他者」は「死者」と重なるのである。それは、現実には不慮の事故で35歳で亡くした長男の良であり、「敗戦後論」という想像の世界においては、日本国がその追悼を必要とした、数千万人に及ぶ内外の死者たちとなるのである。
 リアルポリティクスの立場からみれば、絵空事と揶揄されるかも知れない。しかし、加藤が「敗戦後論」のエピグラムに「きみは悪から善をつくるべきだ それ以外に方法がないのだから」という映画「ストーカー」からの題辞を記したことから、戦後のスタート地点に加藤は思想の拠点を立てたことを、軽くみるべきではないだろう。大袈裟かもしれないが、加藤が批評の代償に払ったものはかれ自身の短命に終わった人生そのものだったかもしれないではないか。
 生者と死者との一人二役のまなざしの交錯する場所でこそ、加藤典洋氏の特異の思考は発動する。この思考が「世界の限界」をまえに未来を見据えさせ、この日本の「戦後」にある「ねじれ」を洞察させ、その欺罔からの脱却を説かせるのである。そして、幕末の開国以前から連なる新たな歴史の地平に、日本の「再生」を構想するのは、詩人と文芸評論家という二重の人格者の使命だったと言ってもいいのではないか。どうにもそんなふうに思われてならないのだ。


注:2019.11の当ブログに載せたものであるが、加藤典洋の関連で再掲する。



「9條入門」加藤典洋著

 1995年に文芸雑誌に発表された「敗戦後論」以来、文芸評論家の加藤典洋の著書に深い関心を寄せてきました。この「9條入門」は事実上著者の最後の本となりました。上梓されてから3ヶ月後に氏は71歳で病に倒れ不帰の人となったのです。加藤の遺書ともなった「9條入門」に立ち入ることで、その要点のあらましを紹介してみましょう。
 まず現憲法の条文を掲げてみます。

第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 加藤のこの本は、第一部が出生の秘密(敗戦から憲法制定まで)、第二部が「平和国家と冷戦のはじまり(9條・天皇・日米安保)と、大きくふたつで構成されています。全部で6章となりますが、第二部の5と6章に加藤の国連寄りの考えに難点を見ていた者には、ここで国連憲章52条とダレスの関わり合いを知り、さらに天皇の独自外交の推測の提示により、氏の国連寄りの姿勢に補強が為されていることに気づくことでしょう。この具体策は加藤の「戦後入門」(2015年)の第5部「ではどうすればよいか」ー私の9條強化案を参照して下さい。
 冒頭に「はじめにー憲法9条に負けるな」があります。「敗戦後論」(1950)にも「はじめにひとつのお話をしておきたい」としてエピソードの紹介がありました。加藤という文芸評論家は比喩の名手でありますが、本の「はじめに」のところで、読者のためになかなか含蓄に富んだ一文を挿入する人でもあります。ここで立ち止まってこれを紹介しますと、つぎのようなことが書いてあります。
「・・・私は、この間、この本を用意するためにいろんな文献を読んでいるうちに、憲法9条というのは、必ずしも戦後の日本になかったとしてもよかったのではないだろうか、と思うようになりました。というか、一度はそう考えてみる必要があったのだ、と考えるようになったのです。」
 平和についての考え方は、本来下から生れてくるはずのもので、「平和条項」などに吸い上げられ、鋳型にはめられてはひ弱なものになると加藤は思ったのです。
「だから憲法9條はいらない、というのではありません。憲法9條に負けたままでは、とても憲法9条を生きるということはできないはずだな、と思ったのです。憲法9条に負けたままというのは、ただ憲法9条を有り難がっているだけでは、という意味です。」
 加藤のこの本では、この「はじめに」で噛み砕いて言われたことは大事な意味をもってきます。それは読みすすむにつれ何度もでてきますが、「特別な平和条項」と「ただの平和条項」として説かれ、家でいうなら前者は二階、後者は一階に相当するものとかんがえられるのです。こうした考え方はこの憲法が押しつけられたものか、そうではないものかという二つの憲法観の違いにまで現れきます。
 この本は、学者や思想家の考え方を多く引照しながら、例えば、マッカーサーやダレス、アメリカ大統領そして日本の天皇や政治家が登場して、「憲法9条」を廻る関わり合いを紹介します。そうした人物の活躍が綱を編むかのうにして形づくられた憲法の語り口は、あたかも一篇の物語であるかのように読むことができます。本の帯に9条の物語ということばがありますが、まさにそうした読み物として書かれているのです。
 この第一部で加藤はこう言っています。
「私のこの本での考察は、この問題(「押しつけ」の主体とはなんだったのか)についてはの新しい研究成果に立っています。近年明らかになったように、憲法改正の第一歩は、最初からはっきりとした計画のもとではじまったわけではなかった。背後にあったさまざまな力のせめぎあいの結果、進行していったのだという点が、非常に重要だと考えているからです。たしかに「押しつけ」はあった。しかしそれは、1946年2月の段階での、GHQ草案の日本政府による受け入れに関していえることで、しかもその主体はマッカーサーでもアメリカでも連合国でもなく、この三者の力と意図がせめぎあう場のアマルガム(結合体)だったとぃうのが、私の考えです。」
 この加藤の考え、「古典的な改憲論、護憲論の理解では、すでに70年以上を生きた現在の憲法9條が帯びる多層的な意味は、もはやとらえられなくなっている」という現状認識ですが、この書物の根底にあるリアルな前提として大変重要なところです。アメリカの「無条件降伏」政策を「アメリカの陰謀」とした江藤淳の主張を退け、「占領管理権限」をめぐってのいくつかの思惑がからまった連合国間、またGHQとアメリカ、連合国とのあいだの権限の「せめぎあい」であったという分析に引き継がれます。この本の特徴はこうした「背後のせめぎあい」を非常に真摯に把握しようとしている努力にあるのです。「日本占領」の主導権争いについてもそれは発揮されていますが、マッカーサーという人物の個性への注目も、このせめぎあいの大きな要因のひとつであることを加藤は見逃していません。特にマッカーサーのアメリカ大統領への野望はこの憲法の成立ちに大きな影を落としているからです。
 つぎに加藤が注目するのが、マッカーサーと天皇とのよく知られた会談(1945年9月27日)へ至る経緯とその内容です。これはマッカーサーの日本の占領政策と天皇の戦争責任の免除に関連します。結論から先にいうと、第9條は第1条とセットになっていること。即ち、天皇から政治権力を奪い(1条)、軍事力も放棄する(9条)という憲法改正案の浮上でした。
 当初のマッカーサーとGHQの主要な任務は日本の占領政策の遂行で、最重要の課題が天皇の免罪の実現でした。憲法改正は日本に任せるはずだったのです。だが1946年1月に実現した極東諮問委員会(これは米ソ間の妥協の産物、かつ改正ではGHQより優位な権限を持つ)が2月末に発足する事態の進行が、GHQの頭ごしにマッカーサーの「独立王国」が憲法改正へと急速に舵をとって走り出す契機となったとみます。この経緯と結果については本文をお読み戴くことを期待してここで縷々述べることを省きますが、文芸評論家の加藤の面目が光るのはこの部分にあるのです。簡単に述べますと、「マッカーサー回想録」神話の読解を含む憲法9条の性格規定で、ここで三つのことの解明されるのです。一つは天皇とマッカーサーの二人の会見時にあったとされる天皇の「戦争全責任発言」の真偽に関わること、二つ目が9条が「ただの9條」か「特別な9条」(世界に冠たる9条)かという改憲派と護憲派とを別つ事項、三つ目が現憲法が「押しつけられた」のかそうでないのかという、出生の秘密が解かれていくのです。加藤は探偵小説さながらの手つきでこの「秘密」に肉薄しています。
 第二部は「戦争放棄から平和国家へ」となります。ここでの要点は「憲法第1条の天皇制の民主化によって生じた『空白』が、戦争放棄の『道義』性によって埋められる」ことでした。ここでの加藤の認識はこういう形をとります。「なぜ憲法9条が日米安保条約への言及なしでも完結し、不足を感じさせない話法のうちに語られるようになるのか」と。戦後憲法に「革命説」をとった宮沢俊義をはじめ、美濃部達吉、横田喜三郎、江藤淳、南原繁、吉田茂、丸山真男等を登場させ興味ある場面が展開されますが、文芸評論家としての加藤は日本の錚々たる人物について、非と賞賛を惜しみません。そしてマッカーサーとダレスの角逐から朝鮮戦争の勃発、中国という共産主義国の台頭、軍拡競争等を背景に、もともと国連の集団安保体制を前提にした「9条」は、国連憲章に通暁したダレスの巧妙な論理に屈します。そこに天皇による「外交」という驚くべき「事実」が重なり、「ニヒリズムと表裏一体の平和主義」となるというのが身体の不調のなかで記した「9條入門」の物語でした。しかし、加藤が発した問い「昭和天皇の心中の苦悩に焦点をあてた本は、これまで一冊も書かれていないのではないでしょうか」というつぶやきを含む「天皇と9条」の部分には、著者の心理のゆらぎが入り込んでいるように見えてなりません。これは例えば戦前の皇国青年の反省から、文学的な発想の無効を自覚してつぎのように呟いた吉本隆明の「自分はあの人より先に死ぬわけにはいかない」という内心の声とは違う戦後の人の声です。
 著者は実に多くの文献を渉猟し、調べあげ、微に入り細を穿つ類いの研究と努力の跡が見られます。「ひとまずのあとがき」を読めば「つぎの本」を書く予定があったことが知られますが、大変に口惜しいことに、病変がその可能性を奪ってしまいました。この「つぎの本」が「もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために」(2017年8月)を踏まえたものでありましょう。この「9條入門」はリベラリストたらんとした加藤の最後の著書となりました。
 さきの本「尊皇攘夷思想のために」には、疲弊するばかりの日本の情況を憂え、ある危険を承知で幕末の精神的な血潮を注ぎこみたいという願望にはどこか性急な口吻が窺えだすのは仕方のないことかも知れません。
「300年のものさしー尊皇攘夷と現代世界」で氏はこう述べます。「幕末の尊皇攘夷思想こそが、日本の近代の文脈に置く限り、戦後のリベラルな思想を含む、日本の近代以降の内発的なすべての思想の出発点であり、祖型なのです」。そして「最後にー丸山眞男の幻像」から示唆された方角へ目を向け、自分なりの尊皇攘夷思想の開く視界を踏査してみようと思っています」
 「明治150年の先へ」と題した章で、氏は3つの小文を書いている。1つは「上野の想像力」である。これはタウン雑誌「上野」に載ったもので、上野の西鄕の銅像をみてこう述べる。
「考えてみれば上野は明治以来、『敗者の想像力』とともに、『敗者の想像力』それ自体が、いまも息づく場所なのだ」。「私は東北は山形の生れである。・・・・東京は中学三年生の修学旅行ではじめて来た。降り立った場所が東北線の上野ホームで、その後、何度もお世話になる十六番線だった」
 ここで加藤にはめずらしい素顔をのぞかせている。そして、つぎに下の2つがある。
「八月の空のした、二人の天皇の声が重なりながら降ってくる。」(「八月の二人の天皇」)
「善悪の基準とは何か。明治150年を前に私はひそかにそう考えている。」(「明治150年と『教育勅語』」)

 71年の生涯を加藤という人間は、いったい何と戦ってきて倒れたのだろう。そんな疑問がふと胸をよぎる。氏は「敗戦後論」でその対手をハッキリと掴んだこと明らかだが、それはどこから加藤にやってきた使命なのだろうか。
 いまはただ、加藤がみた未来の展望に描こうとした苛烈な理想を夢想しながら、氏のご冥福をお祈りするばかりです。


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注:2019.8に当ブログにのせたものであるが、加藤典洋の関連で再掲する。



加藤典洋の軌跡

 厚生労働省は毎年、簡易生命表の概況を発表している。それによると2017年における日本の平均寿命は、男性が81.09年、女性が87.26年となった。男性の平均寿命80年超えは2013年分が初めてで2017年が連続の5年目となるとした。一文芸評論家の紹介の冒頭に、国の統計した平均寿命を記すことの愚は承知のうえに、拘ったのは外でもない、加藤典洋が1948年生れでありながら今年の5月に肺病で亡くなったことに注意を促したかったからである。3年前の平均寿命より10年も早く加藤典洋氏は逝去したのだ。この遠因となる背景については後ほど触れることになるだろう。
 さて本稿は加藤典洋という文藝評論家の論考というより、まず遺書となった「9條入門」までの軌跡をたどり、その足跡から加藤という文芸評論家の像を素描できたら幸いであるが、その上でできるなら論考へと進む手がかりを模索したいと思う。しかしながら、私自身の体調不良もあり甚だ心許ないことを最初にお断りしておきたい。場会によっては時系列を無視して、現在という歴史的時点に関連する事項へと焦点をしぼることも選択肢となるだろ。

 「アメリカの影―高度成長期の文学」は1982年であるから34歳でのデビューは遅いのだが、「戦後再見―天皇・原爆・無条件降伏」は雑誌「文藝」の1984年九月号に、そして世の注目を集めた「敗戦後論」が雑誌「群像」に載ったのが1995年1月号、単行本として講談社から発刊されたのは1997年8月、10月までに4回刷られている。また、前年の1994年には、大逆事件、経済新体制、高度成長などの日本の生態を扱った、副題が「『大・新・高』の精神史」とした「日本という身体」が刊行されているが、村上春樹の「風の歌を聴け」(1979年)からの村上文学への熱い視線が鼎談「村上春樹への冒険」(笠井潔、竹田青嗣)として1991年に、そして「イエローページ」として発表されだしていることは、加藤典洋の批評活動の文学と時代への鋭敏さと証すものだろう。スタートは遅れたが一端かかったエンジンは、みごとなフットワークで多様にして精力的な批評の展開を見せたことは、1990年に上梓された「ゆるやかな速度」までを見てみればあきらかである。

 まず、注目すべきなのは、「敗戦後論」が世に問われるまでの間、「批評へ」として「新旧論」を軸に5百頁の冊子になる30本弱の批評文を「群像」「文藝」「文学界」に矢継ぎ早に展開していることである。とりわけ「新旧論」は「三つの『新しさ』と『古さ』の共存」という副題がつけられ、自身が「少なくともその素材を小林秀雄、梶井基次郎、中原中也という古典的存在(?)から採っている。そのような意味では、従来の文芸批評上の達成と引照可能な、ぼくとしてははじめてのやや『本格的な』文芸評論ということになるかも知れない」と「あとがき」で記す小林の「私小説論」に関する部分と梶井、中原についての部分は諸賢の批判を仰ぎたいというだけの十分な達成を示しており、特に「社会化しえない私」を取りだした業績は先行者・秋山駿に負うてもいるが、その先鋭な思考は刮目に値すると思われる。そして、この分厚い本の「序文」に書かれた「オフサイドの感覚」は、加藤という批評家の明敏な運動感覚とみて差し支えはないだろう。


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注:2019.8に掲載したものである。加藤典洋の関連として再掲します。



「3.11」ー死に神に突き飛ばされる

 加藤典洋が批評を始めたのは、一九八十年代だった。たぶん「アメリカの影」から遡行するように「批評へ」というやや分厚い論考集、とりわけ所収の「新旧論」に感じた思いがある印象を残したことから、活字でのつき合いができた。次ぎには一九九五年の「敗戦後論」の出会いは私を刺激し、谷崎論の序論を「戦後私論」として書いた経緯がある。だが、その後の「戦後的思考」による到達点は私には曖昧なものを残し、加藤氏と紙一枚分ほどの距離ができたように思われた。たぶん「戦後的思考」による方向転換に、ある戸惑いを覚えたのに相違ない。しかし、それが自分には朦朧としている。フランス滞在中に考え、思考を鍛えたこの浩瀚な一書のうちに、氏は独自の「新しさ」の方向を探り出したにちがいない。小林秀雄、吉本隆明、江藤淳らから加藤が吸収したものには同調できるものがたぶんにあったが、彼が鶴見俊輔から受け継いだものに、違和感を感じたのだと思う。これについては、再度、私自身が検討しなおさなければならないだろう。
 そうした事柄はここでは枝葉に属するので脇におき、「3・11」を読んだ感想の断片を記しておきたい。
 この黒表紙の薄い本は「死に神に突き飛ばされる」と「祈念と国策」の二つでできている。私はこの加藤の本と同時並行して、中沢新一の「日本の大転換」を読んだ。中沢のほうは彼らしい才気に富んだもので興味はひかれたが、彼自身がパンフのようなものと言っているので、思想の素描のようなものとして読んだ。特に、原子力開発が太陽圏のもので、それを地球の生態圏へ持ち込むことへの反対論において、またそれが一神教批判と同列にあることに、説得されるほどには、まだ充分なことばが不足しているように感じた。ただ「愛と経済のロゴス」(カイエ・ソバージュⅢ)等を読んだ者には伝わってくるが、それはまだ軽い説得力でしかないように思われる。このことは、まだ未読の「緑の資本論」により、理解が促されるように思われるのだが・・・。
 その点、加藤のこの本は「思想」を構想するというより、自分と世界との関係における問題への反論・異論を含んだものであり、中沢の論に比較して地味だが、3・11の現実に衝撃をうけ、どこか自分の足で地面を一歩一歩あるくように思考していこうとする、真摯な熱意には惹かれるものがたしかにあると思われた。
 それは加藤の論考が「批評」のことばで書かれているためであろう。つまりこの辺に初期の「批評へ」の「新旧論」から持続している氏の基調が貫かれている論拠があるのだという感想をもった。
 すこしばかり迂回して恐縮ではあるが、ここで加藤の「新旧論」から、長い引用での文学的論考の紹介をせざる得ないことをご了解いただきたい。
〈富永の一冊の詩集と、梶井の小説と、小林の「Xへの手紙」とのうちに、ぼく達は、日本近代文学の可能性の原点を見る〉ことから加藤はこの初期の論考をはじめている。
〈小林が、富永、梶井よりも思想的にすぐれている所以は、文学上の『新しさ』が、社会の中に生き、それに関与し、それから関与されるなかで、どこまで通用するかを身をもって示した点にある。これが、この問題に関するぼくの、基本認識である〉
 こうした認識を踏まえ、小林の「私小説論」の検討と加藤の批評を特徴づける考察に入りこんでいく。
〈小林達の「新しさ」が、戦争にたえなかったという事実は、ぼく達をもういちどその「新しさ」の方へと、つきかえすのである。その原因はどこにあったか。その一半の原因は、そもそも彼らの「新しさ」が、彼らの「古さ」との接点をその身内にもたなかったところにこそ、あるのではなかろうか。彼らがその自分の身内における「新しさ」と「古さ」の共存の意味を一つの思想経験、文学経験に鍛えあげるのを、怠ったためではなかっただろうか、と。そして、こう書けばわかるように、この問いは、彼らの経験をどう受けとり直すかという、そのままぼく達にはねかえってくる問いでもある。〉
 この「新旧論」は「批評へ」という大著のおよそ半分を占めている加藤の「批評」への出発の土台ともなった重要な論考であった。ここに加藤が「敗戦後論」を書かざる得なかった内的な必然性が示されていることの確かさは疑いようもない。そして、その延長上に、この「3・11」の本があるのだと納得されるのだ。

《核燃料サイクルの放棄は、「技術抑止」という日本のこれまでの核抑止政策の「放棄」であることを、世界に向けて宣言するかたちで、行われなければならない。今回の原発事故の最大の原因は、日本がほんとうの意味で「原子力の平和利用」を確立できなかったからだというのが、世界に向けての日本としての反省でなければならない。この宣言を起点として、ドイツの例に見られるようい、日本は、東アジアの近隣諸国、米国、ロシア、その他の国に、今度こそ、核兵器を否定することを訴え、信頼を勝ちとるのでなければならない。そして、そこから新しい外交と、産業と、哲学とを創り出していくのである。
 これは、夢物語だろうか》(「祈念と国策」より)

 寺島や立花、小説家の村上春樹への言及も含め、現時点での様々な論文や資料の論点を網羅し、最後に自らの明解なメッセージを表明している。
 これは夢物語ではあり得ない。これは、国家意思の完膚無きまでの覚悟というしかないからだ。そして、その先の日本にどのような「運命」が待っているかは分からない。加藤が「祈念と国策」と題した所以であろう。


「3.11」



注:2012.1月のブログを再度、ここに載せる。加藤典洋に関連するものだからである。。


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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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