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玉石混交

 本屋で買いもとめた最後の詩集は「めぐりの歌」(1999年)という大判の一冊であった。これは安藤元雄という人の詩集である。ぼくはこの詩人が翻訳した孤高の作家ジュリアン・グラックというフランス人が書いた小説に惹かれていた。というより安藤氏の翻訳の日本語に魅力を感じていたらしいのだ。
 「アルゴールの城にて」や「シルトの岸辺」や「陰鬱な美青年」という小説には、現実と隔絶された人間の「宿命」を精妙な音楽に響かせ、海と森の自然に聳えたつ廃墟に、物語は破局への予感に向かって昂揚していくのである。これを日本語にするには安藤氏の練達にして、瀟洒なフランス語の才能なくしては為しえないものと思われた。
 たとえば、「アルゴールの城にて」の最終の数行はこうである。
「彼は振り向かなかった。彼は遊歩道の真ん中をすばやく駆けだしたが、その足音もあとを追って来た。そして息を切らしながら、彼はいま足音が追い着こうとしているのを感じ、そして逆らう術もなく気が遠くなって行く中で、彼は一振りの短刀の凍ったきらめきが、一握りの雪のように両肩の間を流れるのを感じた。」
 これほどくだけていながら、精妙無比の日本語が、その格調ある薫りを保ったまま、軽快に連綿とつづいていく小説の文章をぼくは他に知らないのである。
 この詩人をお呼びして三日間の現代詩の講座を開催できたことが、いまは、奇跡のように思われてならない。
 むかし新富町の近くにあった旧い会館にお出でいただいたときであった。
「ぼくは銀座では中央通りから東へは来たことがないのです」
 と柔らかな口調で言われても、ぼくには返すことばがなかったのである。
 そしてそっと渡しておいたぼくの詩集の感想を、講座のなかでさぎれなく、低いそれで断固とした厳しい声で口にされたのをぼくは聞いたのだ。
「玉石混交はいけません」
 ああ、なんと破廉恥な詩集をこともあろうに、安藤元雄という類い希な素晴らしい詩人に、ぼくは見せてしまったことだろう。
 玉だけの詩をぼくは書くことができないのだ。そこには石もあることが、ぼくの粗忽な欠点と知りながら、愚かしい若さゆえに、それを避けることが難しいことであった。
 心臓を患っていて、それで奥様がそばに付き添っていたこと、それに一顧もできなかったぼくの無礼を、いまは恥じるいがいないのである。
 真夜中にぼくは最後に買った詩集「めぐりの歌」をそっと開く。

ライラックの花ははや果てたが
イチハツはいまがさかりだ
ふだんは薄暗い窓の下の そこだけが
不意の光を浴びたように見え
よそよりも季節の遅い庭を
それでも確実に何かがめぐっている

            (「庭のしずく」より)

 「百年の帳尻」から「千年の帳尻」まで十三篇の詩には、ふくよかに洗練されたことばの佇まいが見事なすがたをみせて、ぼくの罅だらけのからだとこころにひびいていく。




アルゴール・シルト 美青年




加藤典洋 Ⅵ  -中原中也の影-

 中堅の文芸批評家が、その3年後に自刃をする作家の三島由紀夫氏へインターヴューをしたことがあった。その文芸批評家とはもちろん加藤典洋ではない。彼はまだ文学部学生で、その後文芸批評家となり私淑していく故人の秋山駿であった。
 某日某酒場。私はその秋山駿氏(当時「信長」がベストセラーになっていた)に、三島由紀夫氏との対談で三島氏を憤慨させたインターヴューの様子を窺いたいとおもった。だが場所がら、それができる雰囲気ではなかった。やむなく、「対談・私の文学」インタビュアー秋山駿とカバーにみえる講談社版(昭和44年10月発行)の本を参考に以下を記す。

秋山 ぼくは、三島さんの世界に、意識して近づかないようにしていたことがあります。というのはそのなかには、何か特別なもの、異常なもの、豹のように能力をもったものがあって、それが、人間の力は普通の行為を一歩一歩積み重ねることだという、自分の考えを混乱させるのです。ぼくは普通の人間です。そして三島さんは特殊な人間のように見えるものですから・・・。

三島 「太陽と鉄」を読んでくださったそうで、大変うれしかった。僕はあれを読んでもらえばいいんですよ。

 対談の冒頭にある二人の会話である。紳士であり大人である。戦前のひとの独特なおちつきがみられる。憤慨の箇所などはどこにもなかった。語り合うに相応する二人がたがいに尊敬の念を失わずにそこにいた。 
 昭和45年3月に虫明亜呂無氏の編集になる「三島由紀夫文学論集」の巻頭に「太陽と鉄」が載っている。対談のほうは、三島氏が疲れたのか、「どうですか、ここいらで」というほどに長い対談であった。三島氏は秋山氏へ自分の文学の急所を、おやと思うほどの率直さで披瀝していた。
 「「英霊の声」は「自己革命」で自分は救われた・・・戦前のように危険な言説を吐いていたら責任をとらなければならない。あれを書いて自分にも責任がとれるような気がした・・・。その見極めがつかなければあんなものは書けない。・・・僕は自分の本質がなにかということを考えることはやめたのです。・・・等々」で、三島氏の日本近代文学批判は強烈で、これは戦後の日本文化への嫌悪へと噴出していくものであった。

 三島氏はいのちを賭けた「文」から対極にある「武」へ軸足を移そうとの決意は、どうやらこの時点でできていたように思われる。

 加藤典洋はこの「三島由紀夫文学論集」について、「いまはいない人たち」(2016年「言葉の降る日」所収)の中に、『生の本』の手触りー三島由紀夫『三島由紀夫文学論集Ⅲ』」というタイトルで縷々言及している。その解説文の長い前置きに、自分と三島との時代への向き合い方から三島文学への感想の一文を添えている。
「なぜ、三島由紀夫にあるときからひかれるようになったのかよくわからない。以前は、そんなに好きではなかった。(中略)それがいつのまにか、だいぶ自分に大切な存在になっていた。きっと、この人の正直なところにひかれたのだろう。むかしはなんだか「チンケ」人だなあと思っていたのだが、ある頃から、自分の生きている戦後の日本という空間のほうこそ、「チンケ」だと思えるようになってきた。すると、このかつての「チンケ」な人がなんだかまともな人のように思えてきたのである。」
  加藤がいう「ある頃から」が特定できないが、たぶんそれはいわゆる「三島事件」以降からであるだろうと推測される。それは自作の「年譜」の簡単な記述「11月『現代の眼』の編集部の・・・・・氏から依頼を受け、評論を執筆中、三島由紀夫の自決にあう。この年、東大仏文の大学院の試験を受け落第」がみられる、たぶん「三島事件」は加藤の「落第」までその余波を及ぼす呈のものだったのだろう。坦々と書かれた年譜からの推測であるが、この「三島由紀夫の自決」は、加藤の内部にそれ以降、徐々に浸透して「戦後の日本という空間のほう」へ目をむけさせるようになったのに相違ないだろう。
 つづけて、10年前の「敗戦後論」に至る根拠を述べ、「自由と民主主義が欺瞞と詐術である」ことについての自分と三島の考え方の相違点を「英霊の声」と「憂国」における「戦争での死者たち」の目から解読している。また、70年の三島決起の行動の本質を「三島由紀夫文学論集」に収められた「古今集と新古今」の文章から解析し、三島文学への評価を変えたというところに、私の興味が惹かれた。
 そのポイントはつぎのところにある。
「先に述べてように私は長いこと三島のよい読者ではなかった。三島の小説は、余りに人工的で、薄っぺらい感じがしたからだ。しかし、いま私は、その薄っぺらい感じを、違ったふうに受けとっている。(中略)彼は、兵役をある偶然から免れたのだが、そのことを奇貨として、これをよろこび、そこから逃避した。しかし、このような彼の内心の傷、良心の呵責の根源についても、そこに卑小さがあることは認めるが、私はそれを決して否定しょうとは思わない。
 おかげで、戦争の死者たちが、自分たちとどういう関係に置かれているか、ほとんど死を賭して苦しむ人間(三島-引用者)が、戦後へもたらされた。卑小さと偉大さと、その両方が私たちには等価に大切なのである。」

 奥歯にものが挟まったような、この一見冷静な加藤の三島への評価(?)は、「古今集と新古今」の下記の三島の文章を逆手にとって、70年の決起の行動の背景にある理屈を整理しようとしている。
「それなら、行動と言葉とは、ついに同じことだったのではないか。力をつくして天地が動かせなかったのなら、天地を動かすという比喩的な表現の究極的形式としては、『力をも入れずして天地を動かし』という詩の宣言のほうが、むしろその源泉をなしているのではないか。
 このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化した。それはもっとも清純な詩ではあるが、行動ではなく言葉になったのだ。」
 この三島のあとに、加藤はつづけてこう述べている。
「ひとあたり読むと、わかったようなわからないようなはぐらかされた気分になる。しかし、よく考えればここで三島は、「力を入れても天地は動かない」のであれば、「力を入れるが天地を動かそうとは思わない」、つまり「天地を動かす」目的を凍結したまま、「力を入れる」、そういう行為が、いまや詩として成立する、というか、そういう世界では、詩は、このような形でしか、生きのびない、と自分は喝破したのだ、といっているのである。(中略)死力をつくす、しかし、結果はゼロでも一向にかまわない、それがこの敗戦後の日本という逆さまになった世界では、唯一可能な詩の理念の形なのだと、自分は思うようになったと、この「古今集と新古今」の論のなかで、三島は言っている。
 彼は、一九七○年十一月二五日に、自分の行動で何ほどかの変化が日本の社会に起こるとはとは思っていなかったろうし、そういうものを起こそうとすら、思ってはいなかっただろう。それではなぜそんな馬鹿げたことをするのか。変な言い方をさせてもらえば、戦後というこの世界が逆さまだから、こうなる。三島はそういうのである。」

 じつに「変な言い方」が気になる文章である。どこかにおかしなところがある。内部にある屈折を加藤は、三島の言葉を捩った理屈で抑え込もうとしているかにみえる。加藤が当時読み耽っていた中原中也は詩人であり、彼が書いた詩は三島のいう「詩」とは真逆なものであることは加藤には自明であったはずである。ならばどうして、三島の「詩の理念」に拮抗しうる中原中也の詩を対峙させようとしなかったのであろうか。戦後が「チンケ」であることを三島の命がけの行動から示唆されたのだろうが、加藤は自分の思考の礎石となり軸足ともなった中原中也の「詩と散文」を、三島の「詩の理念」に抗して、擁護しようとはしていない。その代わりに、文庫本『三島由紀夫文学論集Ⅲ』の解説に、『生の本』の手触りとしてつぎのような文章を書いている。
「この解説を書くため、三島の書いたもの、三島について書かれたものをいくつか、読んだ。数週間にまたがる期間だった。そのうち、一つの問いが私をとらえた。一九六九年、死の一年前という時期に、三島が、自分の文学論集を企画し、しかもその編集を、虫明亜呂無氏に依頼したのはなぜだったのか。その依頼者が、旧知の文芸評論家の奥野建男氏でも、友人の村松剛氏にでもなく、いわゆる純文学から遠い虫明氏だったのはなぜか、というのが疑問」を提示して、つぎのように推論している。
 加藤によれば、三島の死後、編集刊行された単行本がもう一冊あり、それが「蘭陵王 三島由紀夫1967.1~1970.11」と題された瀟洒な単行本であった。加藤は三冊の文庫のもとになったこの本の二冊を書架に並べて読んでいるうちに、三島が自分の死後、この後者の「蘭陵王」のような、死から逆照射して編まれる一冊が作られるだろうことを、予期していたのではないかという気がしたという。それが「純文学」の徒とは対極にある「生の批評家」としての虫明亜呂無氏への依頼となった三島の意図によるというのである。ここから、加藤は、文庫本『三島由紀夫文学論集Ⅲ』の解説に仮託して、『生の本』を遺そうとした三島を敢えて見ようとしている。三島の文学と自決死は、吉本隆明の追悼文に表明されているように、戦後を生きる文化的なもの一切に、その生死のリトマス試験紙を差し出していた。
 鋭敏な批評家の加藤典洋が、いわばその三島に戦術的な対応を強いられていた。その一面だけをみての即断は「チンケ」でしかないであろう。加藤が大いに影響をうけた吉本隆明は「追悼私記」で三島について書いている。「重く暗いしこり」(45・11・25ー46・1・13)。加藤はこれを読んでいるだろう。
 「三島の死は文学的な死でも精神病理学的な死でもなく、政治行為的な死だが、その<死>の意味はけっきょく文学的な業績の本格さによってしか、まともには測れないものとなるにちがいない」。

 加藤は、三島と同じ在り方を、一般的にはあまり馴染がない、ドイツの美術家アンゼルム・キーファーに見いだしているのだが、どうにも衒学くさくて分かりづらいのである。加藤が解説を書いている文庫本「生の本」のように、もっと、「都会的で、明晰で、平明で、おだやかな午前の光めいた精神」のなかに、「逆さまな戦後」のその逆さま加減を、これがそうだと見せてもらいたいと、思わず言いたくなるところである。つまるところ、加藤のわかりにくさの因ってきたる由縁は、中原中也をしかるべく自分の批評の空間に、導入してこないことからやってくるのではないか。裏からいえば、二十代のほぼ全期間を中原中也に入れあげていた加藤が、それをしない理由において明解さに欠けるといわざるえないのだ。
 
 秋山駿の三島へのスタンスはしっかりとしている。秋山と加藤がイコールというわけにはいかないだろう。中原中也は小林秀雄の対局にあり、三島もまた同質なものであったはずである。これは秋山氏とイコールのところだろう。だが、ある頃から、そうではなくなったと加藤は言っているのだ。そしてまた、太宰の最後の自殺の再考を促した動機にまでも、「中原中也の影」はのびていると推測されるのだが、加藤の批評からその部分がスッポリと抜けていることが腑に落ちてこない。さらに、「戦争の死者たち」は三島を通じて加藤へ入ってきた重要な認識であるのに、三島への姿勢にどこか木で鼻を括った感じを拭えない。いったい何故なのであろうか。どこかに不自然な「強ばり」のようなものが感じられてならない。
 
 加藤の「敗戦後論」についていずれまたむかいあわねば済まないであろう。95年、この論の読後の私のうけた衝撃は複雑なものであった。諾と否が交互にやってきた。思わず「戦後私論ー谷崎潤一郎」を書き始めたのはそうした事情からだ。私の左右の手に、吉本と三島が、その間に江藤等の諸々の人物が座っていた。私は誰からも自由な場所にいることを強いられていたのである。「私とは最大の虚構である」(「ヴァレリー素描」ー花の賦)は、そうした私に中天から吊されきた苦渋の遁辞(命題)であった。
 どうやら、冒頭の秋山と三島の対談に戻り、この対談に散見される大事な要をどこまで噛みしめることができるのか。恐らく加藤典洋も一人の文芸批評家として、自分へそのように問うたのにちがい。「敗戦後論」へいたる歩行はそこから開始されたのである。




秋山駿・対談 (2) 三島由紀夫文学論集



加藤典洋 Ⅴ  -三島由紀夫歿後50年-

 作家の大岡昇平は、死後、自分は中原中也の紹介者として名前を残すだけであろうと言ったことがある。その詩人の中原に後に批評家となった加藤典洋が、二十代のほぼ全期間に没入していたことに注目しないわけにはいかない。青年期の加藤をそれほどまでに熱中させた中原中也という詩人とは、加藤(以後「彼」)にとっていったいどのような存在なのであろう。この問いに対応する彼のことばが発表されていないーその可能性も少ないー現段階で、詳しく知ることは難しい。
 彼が記した二つの「年譜」から推測されることは下記のようなことである。
「一九七七年(昭和52年)29歳 10月長男良誕生。中原中也について書き続けている間生れた子どもの誕生日がそれぞれ中原の亡児文也の死亡の日(11月10日)、誕生の日(10月18日)と重なったことに因縁を感じる」
 加藤は完本「太宰と井伏―ふたつの戦後」文庫(2019年3月)の自作の「年譜」にこう書きつけていた。もう一つはそれ以前の「日本風景論」(2000年1月)の「年譜」に以下の複数の記述をみるだけである。
 1970年(昭和45年)22歳 ただ一人読める日本の書き手として中原中也の詩と散文を読みつぐ。
 1972年(昭和47年)24歳 はじめて妻と中原中也の生れた山口県湯田を訪れる。
 1975年(昭和51年)27歳 中原中也論の執筆に没頭。12月「変蝕」第6号に「中原中也の場所について」を発表。中原中也論の 執筆を継続。
 1977年(昭和52年)29歳 完本「太宰と井伏―ふたつの戦後」文庫(2019年3月)同文。

 これらから、「生れた子どもの誕生日が中原の亡児文也の死亡の日、誕生の日と重なったこと」に感じた「因縁」と記す彼のうちに、中原中也がどのような心的な刻印を残したのだろう。
 「小林秀雄」で群像新人賞をうけた秋山駿には、「知れざる炎―評伝中原中也」(1977年10月)がある。これは私の独断による推測であるが、彼は秋山のこの評伝を読んでいたに違いない。これ以後、彼の「年譜」から中原中也の名前がぷつりと消えるのでそれはわかる。それだけではない。秋山の「評伝中原中也」に共振する自分を感じたはずであろう。この私の推測は「空無化するラディカリズム」(1991年 加藤典洋の発言1)における、秋山駿との対談と「話しの場」と題された「あとがき」を読めば、自ずから証明されることだろう。
「秋山駿氏はわたしの若い頃からの敬愛してやまない批評家で、昔文藝評論などとうものをまったくと言っていいほどに読まなかったわたしがそれに手を染めることになったのは、秋山氏の書いたものを読んだことが大きく影響している。(中略)わたしは小林よりは中原中也にひかれる人間だった。そういうわたしが批評を書くには、秋山氏のような人がいることが、必要だったのである。」

 「『アメリカ』の影」には、庄野潤三の「夕べの雲」を読解するところに、彼のこんな文章に出合う。
「自分が何者であるかを知るのに、大浦は『天』を必要としない。彼は全く異なった仕方で自分が誰かを知る。彼の前には『子供』達がおり、それを彼をー孤独も糞もないー『父』にしているのである。」
 この度の再読で、この文章に私の目が止まったのは言うまでもなく、先の「年譜」を思いだしたからである。彼が息子(良)を事故で失ったのは、2013年(65歳)のときであり、同年2月に三鷹で「太宰治、底板にふれるー『姥捨』をめぐって」の講演をしている。翌年7月、父加藤光男、死亡。またその翌年(2015年)鶴見俊輔氏が死去。同月、「毎日新聞」に「『空気投げ』のような教えー鶴見俊輔さんを悼む」を寄稿(筆者注:「空気投げ」とは合気道の対手の軸をくずす典型的な一技)。9月に「すばる」に「死が死として集まる場所」を発表。同月6日、義母が死去等・・・。
 人間が齢70の前後になれば、近親縁者の訃報に接する機会が増えることを、当然の世のならいであることは誰でも知っている。だが、そうした人生の経験とそのことを文学にすることでは、どうにも分明のしようもない間隙がある。たとえば、死すべき定めをもった人間をトルストイのごとく「イワンイリッチの死」のような小説として表現すること、または、人間の老いゆく様を日々感じていることと、それをチェーホフのごとく「退屈な話し」のような小説のかたちにすること、そこには千里の径庭があるだろう。
 彼も息子の死の体験から、以下のような文学的な変容を遂げていくには、それなりに過ぎた時間、過去の偶然の出会い、その準備の期間が当然に必要だったのである。
 一口で言って彼は解りづらい思想家である。彼の直感は素晴らしく、真摯で誠実な思考を文章に綴る人である。であるが故にと言おうか、彼は暗中模索をする。その思考の歩き方は特異であって、都会的なスマートさを見せることには含羞をもったことだろう。天才的な思考力は瞠目すべきで、その一端を見せる一例として「死に臨んで彼が考えたことー三年後のソクラテス考」(「新潮」2016年-「言葉が降る日」所収)がある。素朴で依怙地なほどの信念において、彼は現代のソクラテスの一人なのかも知れない。
 秋山駿との対談は、互いに波長が合ったのか、読んでいて楽しさが伝わってくるものだ。ここで、後の彼の後期の思考に明らかに明示される注目すべき科白があるので、それを記しておこう。
―「アメリカの影」を書いたでしょう。そのとき民主主義を書いたでしょう。ほんと思い出したんですよ。何で俺、民主主義なんてこと、あの本で言ったのか。自分の中のラディカリズムを殺すためだったんだと。
―否定性を浮かべていた水がもうなくなって、豆腐が焦げ始めたという感じですね。(こういう比喩に加藤の独特な感性がある)

 先に触れた「太宰と井伏」の単行本のあとがき「生きている人間の場所」から、彼がまさに秋山駿との対談において、「ある結晶作用が起こり、わたしが、なるほどとある合点をして、『空無化するラディカリズム』についてとうとうとしゃべっているからである。(中略)この命題は、その後、『回収されない否定性』の否定という形で、日本のポスト・モダン期の後期にあたる時期、わたしの主要な関心対象となる。わたしは秋山氏にさまざまな意味で多くのものを負っている。」

 ふり返れば、2019年は「『アメリカ』の影」から45年ほどの歳月を経ている。「敗戦後論」からは25年である。この時点に立って彼はつぎのように述べる。
「前の著作『敗戦後論』での立場に比べると、だらけた、世間的な考えに近づいている。(中略)自分もいつかは死ぬ、と思ったら、この生きている世界がいとおしく思われるようになった。筆者はだらしない人間として、この本を書いた。しかし、だらしない人間にも存在理由はある。近代文学というものが、いつまでもしっかりとした若者の文学というのでは、悲しいではないか。」
 という彼自身が言う少し変わった角度から、つぎの位置への彼の姿勢の変化について、看過することはできない彼の認識をみるので、ここで再び確認しておくとしよう。

「27歳の人間の回心を描いた『姥捨』を、筆者は、夏目漱石の『私の個人主義』の脇に置いてみたいくらいに高く評価するが、なぜ、そこまで行けた小説家が、戦後、再び追いつめられなければならなかったのか。そのあたりに、ひとごとではない、いまに続く戦後の秘密が、隠されているように思う。」下線-引用者
 このとき、「『アメリカ』の影」で「夕べの雲」を読解していた時にいた長男は他界してすでに無く、「父」であった片腕を彼はもぎ取られている。彼は文字通り江藤のいう「寄る辺ない個人」となっている他はなかった。
 そして、彼が亡くなった2019年の3月の「文芸文庫本あとがき」の「著者から読者へ」では、つぎの一文が記されるのである。
「2013年1月14日私は35歳の息子を不慮の事故で失っている。それから一ヶ月足らずで講演を行うのは、どう考えても無理だと思ったが、2月6日に行われたこの三鷹市主宰の太宰をめぐる講演を、当時、断るすべがなかった。その結果として、大げさに言えば死ぬ思いで、苦しいなか、もう一度、太宰と向き合い、数日間準備することを余儀なくされた。そこから生れたのがこの講演だったのである。
 さて、私はいま、都内のある病院に入院中であって、自分の病室でこのあとがきを書いている。」

 この「あとがき」に続いて、彼による指名で面識もない與那覇潤という若い人の解説文が載っている。「ねじれとの和解の先へー敗戦後論・後の加藤典洋」というタイトルがついている。
 私はこの彼が面識もない若い人に依頼した解説文の最後に、「情熱=受苦」という漢字の四文字をみたとき、彼がさらに先に進もうとした道にほんのりと見えた風景のなかに、彼は狂うことのない明察で、自分が初期に書いた「新旧論」のバトンを、次の世代へ渡そうとする手が伸ばされているのをみた気がした。そこにはまぎれもなく、三島由紀夫の「太陽と鉄」からの題辞の一行が目にされ、その内容には新世代らしい斬新な洞察と認識が認められた。「日本人の自画像」を特に評価している慧眼には期待が持てる若者だろう。彼は一時息子を亡くして失意に沈んだが、ここに新しい時代の思考がはじまる未来の胎動が窺われる。そんな気配を看取した。

 3月31日の朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」に「現代文明 かくも脆弱」という佐伯啓思という人の「異論のススメ」が掲載されている。この時点で世界の惨たる事態を、いちばんまとまった一文として整理してあると、感心して読んだものだ。それを部分的に書き写させていただこう。
「ここで論じてみたいのは、現代社会もしくは現代文明に対して、このウイルスがもっている意味である。今日の事態を少し突き放してみた場合、このコロナウイルス騒動は、見事に現代文明の脆弱さをあらわにしてしまったように見える。
 現代文明は、次の三つの柱をもっている。第一にグローバル資本主義、第二にデモクラシーの政治制度、第三に情報技術の展開である。それらは、人々の幸福を増進し、人類の未来を約束するとみなされてきた。だが、今回のコロナウイルス騒動は、この楽観的な将来像に冷水を浴びせかけた。(中略)
 ところでパンデミックとは、ギリシャ語の「パン(あまねく)」と「デモス(大衆、人々)」の合成語である。パンデミックとは、あまねく人々の上に関わってくる、というわけで、これは「デモス」による政治であるデモクラシーをも揺るがしている。」
 「騒動」という表現が使われているが、カミユの作ったかしたコントに、ホテルのバスタブで釣糸を垂れている人がいて、通りがかりの客がそれを指摘すると、「分っているよ」と答えが返るものがあった。不条理のシチュエーションとは、カフカの小説のように、笑いから「声」が消失した世界に似ている。都会はじつに静かになった。と、そう思われる。
 さて、今年2020年は、三島由紀夫歿後50年であった。



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加藤典洋 Ⅳ  -3.11とコロナ-

 「『アメリカ』の影―高度成長下の文学」論考を一気呵成に再読した。江藤淳の田中康夫「なんとなく、クリスタル」への賛辞から60年代の評論「成熟と喪失」の読解を通じ、アメリカへの江藤淳の根底にある「弱さ」を照らし出す鋭利な分析と洞察には、加藤という批評家のその後の萌芽をみる思いがした。そして、ふと顔をあげると目の前に濃い霧の幕が蔽い真っ白くなっていた。慌てて掛かりつけの病院の眼科へ急患の予約をいれてもらったが、すぐにその病院で新型コロナ感染のリスクが迫ってきた。コロナは自分だけの問題ではない。感染の可能性はその拡大も考慮しなければならない。予約は翌日にキャンセルした。眼疾のリスクより、その数日前のことを話さなければならない。癌の早期の摘出手術(昨年から2回目)での入院の当日(3月23日)には、病院から電話があり、発熱の患者がでたと入院を断られそうになったのだ。当時点では、まだコロナ感染のおそろしさより、癌細胞を抱えていつまたその機会がくるかわからない期間を過す不安のほうが大であった。担当医師からの電話があり私が合意するならばと、タクシーに家内と乗り入院を承諾してくれた。翌日、手術が済み個室のベッドでラジオを聴いていると、その病院でコロナ患者が出たと報じられた。長居は無用と翌朝、巡回にきた担当医師へ、術後の異常はないので午前中にでも退院したいとの希望を告げ、医師の許可を得て逃げるように当病院を後にしたのである。食道癌とコロナと眼疾の三つのリスクが、一度に私にやってきたのだ。出家をした良寛なら災難を平然とうける用意はあったろう。私は良寛さんのようには人間ができていないのである。
 入院の数日前、ラジオの英語ニュースのキャスターが「グローバル・パンデミック」とトーンを少し上げ調子の単語の発音を耳にしたとたん、これはやばいことになるなという予覚をいだいたのはたしかだが、それが自分の身に降りかかってくる火の粉とは正直まだ感じることはできなかった。しかし、毎朝、証券会社の電子版をPCで覗いている者には、この世界の経済活動でグローバルでないものはないことは、身に沁みて承知して事象である。むしろ刻々と変化する世界の情勢をビビッドに感じたいために、フランスの詩人のヴァレリーが創作したあの不羈孤高の人物「テスト氏」が株取引に関わる仕事をしていたように、投資の真似事をしてきたと言ってもいいのだ。そう言えば、つい先日、TVで経済学者の岩井克人氏が「貨幣」についての考察を長いことやってきた。これが大変に難しいとの感想のあと、ある極論をポツリと呟いたのを聴いた。マルクスやケインズがこの岩井氏の一言を、一体どう判断するものであろうか。
 それは、正確ではないかも知れないが、ほぼこんな主旨であった。
「数学で証明することはできないが、人間が貨幣というものを作った。その貨幣を作るその行為がすでに『投機』というものではないのだろうか・・・・」
 これは経済学の底が抜けるような話しではないか・・・。また、TVではフジの「プライムニュース」からは、現在の新型コロナのパンデミックの終息後、為替等の通貨政策を動員した諸々の覇権争いがスタートするであろうとの予測を聞いた。人間はどうも苦難から学ぶことより、それをすぐに忘れようとする動物であるらしい。世界が一体となり協力しあわなければならなければならない、苦いコロナからの教訓を活かそうとするのではなく、国際的な政治と経済の競争を止めることができない。今回のコロナ感染の世界への脅威は、20世紀の文明による地球環境への虐待のツケだと思われてならないのにである。加藤典洋はくだんの論考で、高度経済成長の追求が日本の自然を破壊してきたことを、江藤が「成熟と喪失」を書くに際して読んだ小説を江藤とは異なる読解から、別に進むべき日本の在り方を提示していた。その論考で加藤は、アメリカの気鋭の作家であったスーザン・ソンタグの「隠喩としての病」という本から、ソンタグが自分の癌体験を語り、肺病と癌の隠喩的な相違点を、前者が「時間」的であり、後者が「空間」的であるとの紹介を踏まえ、江藤の日本の産業社会構造の把握が、癌からではなく、肺病からの見たてであることにより、その内面の病理を他者との関係におく見方をし損ねているのではないかと指摘していたのであった。
「彼(江藤)は『成熟』と『喪失』といった。その含意はー少なくともその初心のかたちはー自然の喪失を代償に社会的成熟を、つまり近代を獲得するということである。これは、何となく、農業を犠牲にして近代産業を庇護してきた戦後の、また明治以来の、国家方針に似ている。(中略)ぼくは、この一九六五年という時期に『抱擁家族』『夕べの雲』と共に、石牟礼道子の「苦海浄土―わが水俣病」が書かれていたことを、意味深いことと考える。(中略)ぼく達は、高度成長に遅れまいと、感受性をとぎすませてきたのだった。しかし、いま必要なのは、その逆のこと、その感受性のふたしかさをこそ足場に、高度成長を見、また「国家」を見あげることであるように思われる。」
 そして加藤はまた、2011年、あの東北沿岸の大地震による大津波とそれによる原発事故を、「3.11―死に神に突き飛ばされて」という本に記している。もし、今も加藤が生きていたなら、新コロナは原発事故による放射能拡散の危険と同質の試練とみたのではあるまいか。この両者とも、地球の生態系の軽視と無視にその遠因があることを想像させるからである。加藤は日本が原子力の平和利用のサイクルを管理できなかったこと、これに代替される方途を世界の先頭に立って行うべきことを提言さえしていたのである。まして、最近の報道された原発機関の責任者層での不祥事には開いた口が塞がないのではないか。
 以前のブログで案内した武田泰淳はあるエッセイで、「文章とは勇気である」という大岡昇平のことばを紹介していたが、「アメリカの影」にあり、その後の加藤の批評文を支えている熱情には、大岡の言うこの「勇気」という美質が貫かれている。
 近日、80年代に日本の自然の荒廃を憂いたイギリス人のC・Wニコルスが亡くなった。彼は当時健在であった開高健と語りあい、ブラジルのアマゾン川流域の湿地帯が開発で減り続けていることを嘆いていたのではなかったろうか。
 齋藤史にこんな歌があった。
 
 鳶に吊られ 野鼠が始めて
    見たもの 己が棲む野の 全景なりし

 数年前、私は南仏の小村にアルベール・カミユの墓を訪ねた。墓石とてなく雑草が生い茂ったその場所に佇んだ私の頬を撫でていった風に、カミユという作家の「諾」の微笑をみた。「ペスト」は数匹の鼠の死骸から小説が始まり、不条理の再来を警告し人間の連帯を示唆している。しかし、そんな単純な本ではないのだが・・・・。この21世紀はアメリカでの同時多発テロに始まり、その10年後の日本に原発事故、そして、クーベルタンが提唱したオリンピックの開催を目前に、世界を脅かす新型コロナのパンデミックの試練がきたのである。先に記した武田泰淳という日本の作家は、中国の司馬遷の「史記」から「司馬遷伝」にこう書いていた。
「滅亡は私たちだけの運命ではない。生存するすべてのものにある。世界の国々、多くの人種を滅亡させた人種も、やがては滅亡するであろう。滅亡は決して詠嘆すべき個人的悲惨事ではない。もっと物理的な、もっと世界の空間法則にしたがった正確な事実である。」(下線ー引用者)
 ここで、泰淳のカミユが書いた独裁者「カリギュラ」賛辞の感想が興味深いのだが、「滅亡について」の酷烈な数節を思い出すほうが時宜に適しているにちがいない。これ以上になにをつけ加えることがあるだろう。






加藤典洋 Ⅲ

 林芙美子が最晩年に書いた小説「浮雲」の終わりごろに、病床のゆき子が「東京裁判」に思いをよせるくだりがある。
「その、小さなラジオを眼にとめて、富岡が、ダンズ曲でも聴かせてくれと云ったが、ゆき子は、わざとダイヤルを戦争裁判の方へまわしたものだ。二世の発音で、
「貴下、その時、どうお考えでしたか?」
 といった丁寧な言葉つきが、ラジオから流れると、富岡は、そんなラジオは胸が痛いから、アメリカのジャズでも、聴かしてくれとせがんだ。ゆき子は、むかっとして云った。
「私や貴方もふくまれているのよ、この裁判にはね。―私だって、こんな裁判なンて聞きたくないけど、でも、現実に裁判されている人達があるンだと思うと、私、戦争ってものの生態を、聴いておきたい気がするのよ」
        (「浮雲」63章)

 「敗戦後論」を書いた加藤典洋が、林芙美子の「浮雲」についての感想を記したことがあるだろうか。日本の敗戦による「ねじれ」を問題にした加藤が、戦前と戦後の小説家や思想家の変化と動向にむけた鋭敏な注意を、もし「浮雲」という小説に集中させて論じていたなら、どのような文章を綴ることになったか、これは非常に興味を惹かれる想像である。
 なぜなら、1995年(昭和60)に発行した第三詩集「カモメ」の「あとがき」で筆者はこう記していたからである。
「戦後50年というらしい。敗戦小説の傑作「浮雲」のなかで、林芙美子は『みな、いきつく終点へ向かって、人間はぐんぐん押しまくられている。富岡は、だが、不幸な終点に急ぐことだけは厭だった。心を失う以上は、なるべく、気楽な世渡りをしてゆくより道はないと悟った。』
 これが過去のまた現在の日本における生活者の感慨である。これ以上なにを語る必要があろう。」
 「浮雲」の登場人物である「富岡」は戦前から戦後を生きていく日本の庶民の典型であろう。だがその富岡から離れられない「ゆき子」は屋久島の病床から「東京裁判」のラジオに耳を傾けながらも、
「私や貴方もふくまれているのよ、この裁判にはね。―私だって、こんな裁判なンて聞きたくないけど、でも、現実に裁判されている人達があるンだと思うと、私、戦争ってものの生態を、聴いておきたい気がするのよ」
 と、ダンス曲でも聴きたいという富岡へ反論するのである。死の淵に喘ぎながらもロマンチックな過去へのノスタルジーを捨てることもできず、「東京裁判」の被告達に自分たちも含まれていると揶揄ともとれる一言を放つゆき子には、作家林芙美子の戦後の時代認識が投影されている。
 加藤の批評の立場からすれば、富岡は高度経済成長を遂げるまでの昭和の戦後を逞しく生き抜いていく日本の大衆の一人、20世紀の文明を世界にもたらしたアメリカ(対話集「アメリカが見えない」青木保・対談)に無意識の深層まで浸透され、加藤の説くジキル氏とハイド氏という二人の人格に自己分裂している私たち日本人の大多数にほかならない。富岡に批判的な態度で接するゆき子は、戦前の日本への憧憬をひきずりながらも醒めた目を保持している。この男女の戦争体験の微妙な陰影の相違のうちに、加藤の戦後批評の磁場そのものの反映をみることができるといってもいいだろう。敗戦により生じた「ねじれ」は、メビウスの帯のように表は裏と反転が可能な構造となっている。ゆき子の反面は富岡の反面と交換が可能なのだ。「浮雲」の男女二人の腐れ縁の関係は、加藤の批評の両義的な構造を鏡にみるごとくに映している。昭和の作家林芙美子の真価は、加藤の説くところの「ねじれ」を、男女の肉感的な関係性として描きえたところにある。林が前年に書いた短篇「下町(ダウタウン)」は、シベリアから帰る良人をまちながら、下町で茶を行商するりよという子連れの女をスケッチ風に描いているが、一夜懇意となった鶴石という男が工事現場の事故であっけなく亡くなってしまっても、「鶴石を知ったことを悪いといった気は少しもなかった」とりよに言わせて憚らない。敗戦後の「下町」の短篇に比較を絶する熱量をもった長篇の「浮雲」が「敗戦小説」の傑作である所以は、戦争の総体を男女の恋愛という「対幻想」(吉本隆明)で描ききった作家の圧倒的な力量にある。短命に終ったとはいえ、林芙美子は、大岡昇平同様に「戦後を敗者として生きた」一人の作家であり、「ねじれ」を最後までもちこたえた女性にちがいない。加藤の「敗戦後論」の軸となる倫理の基底を食い破りかねない熱量が、この作品に生彩あるエロスの輝きを放ってその魅力ある文学的な地歩を獲得している。「浮雲」の登場人物である二人の男女の関係には、加藤の「敗戦後論」のモチーフを喚起する格好の舞台であり、加藤の戦後批評の考察対象として、立派な補助線となり得るものがあった。そこから、上記のような想像が誘発されてくるのだ。
 そしてここから、加藤がなぜ最晩年に太宰治が「底板」を踏み破り、最後の自死にいたる一押しとなった戦前の作品「姥捨」に注目するその理由が、「浮雲」のゆき子と富岡両人の背後からせり上がってきたはずであろう。
 さらにまた、前述の仮説から、姜尚中との対談(「敗戦後論」とアイデンテティー1996年)における加藤の発言に注目をむけざるえなくなるのだ。
「日本の戦後にはあるねじれのような構造がある。それを本当に解決したならば、『一人の死者を弔うことによって三百万の死者の枠をくぐり、二千万の死者に直接届く』、そういうあり方を編みだすことができるかもしれない」(下線-引用者)
 これは「敗戦後論」発表の渦中にあった加藤が対談のさなかに洩らした夢想の断片だが、後述する「完本『太宰と井伏ーふたつの戦後』に関わる大事なメッセージと思われる。なぜなら対談中に加藤の脳裡を擦過したこの夢想は、病床にあった加藤に本格的によみがえり、熟考を促してその再説の力を奮い立たせるものとなるからだ。
 加藤は戦前・戦後の小林秀雄の批評から多くを学んでいる。敢えて戦後の批評の課題をさらに深掘りして考察しないではいられなかった。初期に書いた「新旧論」に顔をのぞかせていたものはまさにそれであった。加藤自身が「私の原論」と称した「日本人の自画像」が小林の「本居宣長」を読み破る体の真剣な情熱の持続に貫かれているのはそのためだ。さらには戦中派の江藤や吉本という二人の批評の意味をも吟味しなくてはおれない時代の要請がこれに続いた。デビュー作「アメリカの影」が尊敬をしていた江藤批判になったのはその故だ。特に、吉本の「共同幻想論」と「存在の倫理」(対談)思想から示唆され、そうした場所で展開された加藤の戦後批評の位置からすれば、完本「太宰と井伏ーふたつの戦後」に最後の一考察を加えないでいられない使命の自覚が、加藤を動かさないではいなかったのである。
 それが太宰が故郷から東京へ連れてきて、弊履のように捨てた一人の実在の女性である初代であった。このとき、加藤の関心はつぎのようにその立ち位置を変えているのだ。
「その足場を一言で言うと、生きている人間の場所、ということになるだろう。あるときから、生きている自分が、自殺することを選んだ太宰や、三島由紀夫にあんまり共感するのは変だよ、と思うようになった。そこから考えていると、どうも自分が苦しくなる」(単行本「言葉の降る日」あとがき 2016年9月)。
 この加藤のつぶやきには、近代文学に対する注目すべき変化の眼差しがあり、「もうすぐやってくる尊皇攘夷の思想のために」(2017年)の思考に先立つものだが、ここでは論を先に進ませてもらうことにする。
 加藤が最後に執った筆が、現実の戦争下に青島で孤独のうちに死んだ実在の女性を浮上させ、太宰にとっては過去の腐れ縁でしかなかった初代という女が、戦前における太宰の4回の自殺未遂以上に重い存在として、戦後の太宰その人にのしかかった倫理的な拘束となったこと、そのことを独自の直感で掴みえたとするならば、加藤典洋が展開した戦後批評における看過しえない業績としてこれを認めねばならないからである。
「日本の戦後にはあるねじれのような構造がある。それを本当に解決したならば、『一人の死者を弔うことによって三百万の死者の枠をくぐり、二千万の死者に直接届く』、そういうあり方を編みだすことができるかもしれない」という加藤の夢想の一瞬は、太宰治の実存の底からじわじわと戦後の太宰に浸透し、これを包み込んだとみえたのだ。
「この小山初代の蘇りは、「純白」の心からする(戦争の死者たちへの)後ろめたさを凌駕しただけではない。『姥捨』の、人間は『生きていさえすればよいのだ』という実存の底板をも、踏み抜いている」(文庫本「太宰と井伏」再説 2019年3月)。
 これは太宰治という作家のこれまでのステレオタイプの見方を転換させるほどの重要な指摘ではあるまいか。
 ここに、加藤典洋という人間が戦後の太宰治の自殺に掴んだ、「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」との宣明、その「世界」からの新たなメッセージ、「生きている人間の場所」というこれまでと違った角度から、「戦後の未来」へ向けての真率な提言が為された由縁のものなのである。





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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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